517 アマンと不思議のダンジョンその16 帰りなさい
「あんたッ」
アユミが近づいてくるレイに気付き、声を上げた。
今もアユミとエルフの周りをケタケタと笑うゴーストが飛び交っている。
少しでも触れようものなら体も心も凍り付くほどのマヒを覚える。
さりとて撃退する術を持たない彼女たちには打つ手がなかった。
そんな中をレイがひとり歩いてくる。
見たところ転身はしていない。
着ている衣服は多少の魔力がこもっているかもしれないが、炎を操る紅姫に転身しているアユミでさえ手をこまねいている相手である。
人間態のレイにどうにかできるものとは思えなかった。
「来るんじゃないッ! 危ないぞッ」
アユミはレイに警告した自分に内心驚いていた。
自分からアマンを引きはがした張本人。
アユミは今もレイをそう見ていた。
いなくなればいい。
そう思っていたはずなのに。
だがレイはアユミの警告も聞く耳持たず、浮遊する死神の直下まで来ると両手を上へと伸ばした。
「帰りなさい」
レイは静かにそう告げた。
髑髏の顔をした死神の表情が明らかに不満の意を表すように強くゆがむ。
大きな鎌を振り上げて威嚇しようとしてくる。
「強制的に消滅させることも出来るんですよ」
レイが目を細めてそうささやくと死神は鎌を下した。
「帰りなさい。ゴーストたちを連れて」
もう一度、そう告げると、今度こそ死神はレイの命令に従った。
フロア中を飛び回っていたゴーストどもは壁や天井、地面をすり抜けるように消えてゆき、最後に死神も鎌を大きく一度振り回すと、霧が掻き消えるようにいなくなってしまった。
あたりは静寂に包まれた。
「…………」
アユミもエルフたちも声すら出せず、成り行きを見守る以外なかった。
死神とゴーストを命令ひとつで退散させたレイを見て、どうすればよいのかわからずにいた。
そのためレイが何かを言うのを待つしかなかった。
あなたたちは何者?
あなたたちの目的は何?
そんな詰問だろうか。もしくは……。
あなたたちのせいでアマンが傷ついた。
あなたたちを許さない。
そんな侮蔑だろうか。
どちらにしろ、状況はここよりまた二転三転するのだろう。
カエルひとりにてこずり、ゴーストに翻弄され、次は正真正銘の姫神である。
エルフたちはレイの動作をつぶさに観察しながら次のための行動の予測をしていた。
ところがである。
レイは何も言わず、こちらを見ようともせず、くるりと背を向けるとアマンの元へと歩きだしてしまった。
こちらに対して何もない。
そこに敵意は感じられず、さらに言えば関心もないようだった。
「な、なんだ……」
エルフのうちの誰かが漏らしたそのつぶやきは、言いようもない安堵に包まれていた。
それを咎めようとする声もなかった。
みな同じ気持ちだったのだ。
レイにより、底知れない恐怖を呼び起こされているような気がしてならなかった。
「今は、まだだ」
「そう、まだ」
「フュリー・ホリー。いずれ」
黒い髪のフュリーは決意の眼差しでもってレイの後姿を見送っていた。
一旦、これで落ち着くのかと思われた。
それはエルフだけでなく、離れた位置で座り込むアマンも同様だった。
ただひとり、自分を制御できずにいる者がいた。
レイが何も言わず、ツイ、と背を向けた瞬間、心の波が堰を切ってしまったようだった。
「あ、あ、あ……」
隣にいた金髪のハニー・バニーが最初に気が付き、そして動揺した。
「アンターッ」
逆巻く赤い炎の髪を爆ぜらせて、アユミがレイに向かい駆け出していた。
その剣幕にハニー・バニーは驚き、掴んでいたアユミの腕を離してしまった。
枷を外されたかのようなアユミは一直線にレイに向かって疾走する。
「アンタのせいでッ! アンタさえいなければッ」
右手で持った赤く透き通る小振りの斧を振り上げる。
紅姫の神器、深紅の一撃は炎の熱を帯びてレイに迫った。
振り向いたレイの長い黒髪が広がる。
金属同士のぶつかり合う甲高い音が響いた。
「ッ!」
「……」
アユミの神器はレイの眼前に現れた黒い剣に防がれていた。
神器の一撃を正面から受け止められるのは、同格の神器以外足りえない。
「……転身、姫神……深淵屍姫」
黒の剣、死をもたらすものを握ると、レイは速やかに転身した。




