400 地下室エスケープ
――抜き足、差し足、忍び足。
自由都市マラガの市街地から少し外れた丘の上。
丘から見下ろす正面には雑多な街並み、左手側には港湾部が一望できる場所に建つ、広大で古びた建物を接収し、そこをトカゲ族の軍隊は居留地としていた。
大層なお屋敷と比べても遜色ないほどの面積を持つが、とはいえ総勢十万を越える大所帯である。
それひとつの建物に収まりきるわけもなく、兵隊はいくつもの隊に分けられ、マラガ各地に設けられた詰所へと配備されていた。
港湾部へと直接伸びる大道路が見てとれるように、ここは様々な物資が貯蔵されていた倉庫として使われていたのである。
だが今は普段、ここにはトカゲ族を指揮するモロク王と幹部四人。
同盟関係にあるカエル族の長老大クランと参謀役インバブラ。
そして百人程度のトカゲ兵士と、世話役として雇われたマラガの住人からなる使用人がいるばかりである。
おっと忘れてはいけない。
この建物は単なる兵たちの居留地なばかりではない。
使用人たちが決して立ち入りを許されない場所がいくつかある。
そのひとつが地下室である。
地下は気温が一段と低く、本来は冷凍保管が必要な物を置く場所であったが、この一年、そのような使われ方はしていない。
といってもじゃあ何があるのかと問われても誰も答えようがない。
ある時使用人として雇われの男がこの地下室の秘密を暴こうと深夜に行動したことがある。
あとでわかったことだが、この男は元は盗賊ギルドの下っぱ構成員であり、マラガ壊滅のころより空き巣や火事場泥棒で糊口をしのいでいたらしい。
幾つもの扉をしつらえ、その全てに鍵をかけ、厳重に何かを保管している事は明らかだった。
その秘密を暴き、持ち出す。
あわよくば強請りや、たかりを企てていたのだろう。
目論みは外れ、男は翌朝、冷たい体になって海に浮いていた。
――抜き足、差し足、忍び足。
もうひとつ、雇われの使用人たちが首をかしげる事柄がこの建物内にはあった。
この集団の王と長老である、と説明された二人の大人物についてである。
モロク王と長老大クラン。
建物内の奥まった部屋に二人並び、巨体を大きな椅子に納めている。
丸一日中である。
この両名が動いているところ、それどころか声を発しているところすら見た覚えがない。
理由を聞いても教えてはもらえず、あまりこの事を吹聴しようものならたちまちのうちに身の危険を感じるほどの殺気に包まれた。
うすら寒さを覚え辞めていく者も後を絶たない。
仕事や家庭を失った者は多く、黙って仕事をこなしさえしていれば、相場よりも高い給金はいただけたのだが、それも限界が近づいていた。
新たに仕事を求めてくる者も、薄気味悪いこの場所の、噂の流布と共に最近はその数も覚束なくなってきている。
そのような事情が積み重なり、ここで見かける人の姿は以前よりも大分少なくなった。
そして今日である。
トカゲ族四幹部のひとりで、最も知恵のまわるゲイリートは今は留守だ。
月に一度の定例会のために、五商星の待つ議場へと赴いている。
最も血気に逸るボイドモリもほとんどの時間ここにはいない。
配下を連れて町中を練り歩き、世界で最も富の集まるこの街の、新たなる支配者となったトカゲ族の威光を知らしめる事に躍起になっている。
そして一番危険なあの女。
トカゲ族躍進の原動力となった金髪金眼、黒革の魔女オーヤ。
彼女の姿がこの数日、全く見当たらないのである。
何処へ行ったのかもわからない。
いまだに目的も知れないこの魔女が今はいない。
もともと得たいの知れない存在でもあり、誰も不在を気にする者もいなかった。
結局いまこの建物内にいる幹部クラスはトカゲ族四幹部の中でも知恵の回らない二人組、トルクアータとマラカイトのみだ。
いや、ここにもうひとり。
――抜き足、差し足、忍び足。
あの禁断の地下室へと続く扉の前に、そいつはひとり辿り着いていた。
黄色い皮膚をしたカエル族。
カエル族の村カザロで忌み嫌われていた鼻つまみ者。
今やたったひとり生き残り、トカゲ族との同盟を表向き対等に見せかけるためだけに生かされている者。
左肘から先のない、インバブラであった。
「ふう」
懐から鍵束を取り出すと、最初のドアのカギを開ける。
重たい扉を開けると暗闇へと続く下り階段が現れた。
先は暗く見えないが、開けた途端、冷気を含んだ風が全身を撫でつけながら通り過ぎ、インバブラは全身をブルっと震わせた。
「な、何があるかは知ってるんだ。ビビるこたぁないさ」
若干小声でそう強がりながら階段を降りる。
念のため入ってきたドアを閉めておくことも忘れない。
閉めると暗闇は一層その濃さを増し、インバブラは慌てて用意してきた松明に火をつけた。
煤を気にするよりもその明るさと熱さが心強くある。
「オレはもう、限界なのさ」
この一年、我慢して、強がって、弱みを見せないように生きてきた。
武勇も智謀も持たない自分が、粗暴なだけのトカゲ族だけでなく、薄気味の悪い死人どもと共にしてきた。
そのストレスはとっくに限界を超え、酒なんかではもう誤魔化しきれなかった。
「くぁ」
ポケットから取り出した粉末をそのまま口に入れる。
包み紙がポトリと落ちる。
Vの刻印がされている包み紙。
バニッシュ。
巷でもてはやされているクスリだった。
血走らせた目と、小刻みに震える指でいくつものカギを開けながら地下へと進む。
やがて最後の扉を開けるとそこは広めの一室。
中央に台座が置かれ、いくつもの錠で固定されている大きな棺が安置されていた。
まるで小さな邪神の神殿かのような一室で、インバブラは松明を床に放りだすと、ゆっくりと震えながら棺へと近づいた。
「よ、よお……聞こえるか?」
棺に手をかけ、軽くノックしてみる。
コンコン、と。
「久しぶりだよな、まだ死んでないんだろ?」
コンコン、と。
「た、たす、助けてくれや? なぁ? アマン、いいだろ?」
コンコン、とノックした。
しばらく待った。
しばらく待って、もう一度ノックした。
ゴンゴォン!
インバブラの手はまだ棺に届いていなかった。
音は中からしたのだ。
「ア、アマン、か?」
ドゴォォオオオン!
棺が粉微塵に吹き飛び、インバブラは慌てて腰を抜かし、へたり込んだ。
目の前に、見るからに禍々しいオーラをまとったアマンがいた。
アマンは脇に人間の女を抱えていた。
黒い髪に白い肌、死んだような瞳でこっちを見ている。
インバブラにも覚えがある。
黒姫、深見レイ。
「よ、よよよよう……アマン。げ、元気そうじゃないか?」
絞り出した声はどうしようもなく震えていた。
そのインバブラを一瞥しただけで、アマンは腕を振り上げると強烈な波動を発し天井を瓦礫と化した。
圧し潰されないように首をすくめるインバブラをそのままに、アマンは天井に空いた夜空から月を見上げた。
「ま、待てよアマン! 待ってくれ!」
当然の如く立ち去ろうとするアマンを慌てて止めようとするインバブラだったが、レイにキッと睨まれ腰が引けた。
「行くぞ、レイ」
アマンの身体が浮かび上がると、レイを抱えたまま月夜の空へと舞い上がった。




