371 ヒトの都合
少しだけ時間を巻き戻す。
ハイランドの首都カレドニアから北の宿場町アルネスへと続く街道を、姑息な小役人エッセルはひとり歩いていた。
雨はあがったが相変わらずの曇天で、いつまた降りだしてもおかしくない。
しかしそれ以上に各地を彷徨うバル・カーンや獣人に出会さないかと、ヒヤヒヤしながらの逃避行であった。
そして話はそう上手くはいかないもの。
「グルゥアアアアアッッ」
「ひぃ」
ホレ見たことか。
うまいエサがやって来たとばかりにエッセルの前に数匹のバル・カーンが現れた。
「お、お止めなさい! 私の戦場は事務机の上です! 襲うなら戦士か、もっとか弱い相手になさい」
「ガァァッ」
「ひぃぃ」
この上なく全力で逃げ出すエッセルだが、万年運動不足の感は否めず、突き出た腹を弾ませながらもあっさりと獣に追いつかれてしまった。
腕を掴まれ振り回される。
放り投げられ腹から地面に叩きつけられた。
「うぅ」
動けずにいると周囲はあっという間にバル・カーンに囲まれた。
「あぁ、アレもしたかった。コレもしたかった」
観念したエッセルが祈るように目を閉じるとその耳にグシャッ、と何かが潰れる音が聞こえた。
頭を砕かれたのだと思った。
しかし一向に死は訪れない。
不振に思いそっと目を開けると目の前に巨大な柱が立っていた。
「んん?」
「やれやれ、踏み潰ぅしてしまった。獣とて食う権利はある。それが自然の摂理。たとえヒトであってもなぁ」
少しゆっくり目の声が上から聞こえた。
エッセルが見上げるとそれは柱ではなかった。
「キボシ様ぁ、他の獣はみぃんな逃げちゃったよぉ」
「ふぅむ、悪いことをしてしまったかなぁ」
巨大な、小山のような、年老いた亀だった。
黒い甲羅には土が盛り、樹木まで生えている。
その周りを半透明の肌をした精霊が飛び回っている。
水精という知識はエッセルにはなかった。
「な、な! わ、私はハイランドの政務を取りしきる要職に就いているのですよ! 食べられていい者ではありません!」
「あら」
「あら」
「あら」
エッセルの言葉にウンディーネたちが反応する。
「この方ハイランドの方らしいわぁ」
「まぁよかった、なんという巡り合わせ」
「もう道に迷わなくていいんだね」
「キボシ様ぁ、この方が案内してくれます」
「さあ私たちをカレドニアに連れていってください」
「行きましょう」
「行きましょう」
グイグイと腕を引っ張られエッセルは面食らう。
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「それで、ヌシも今ここにおるわけか」
ケイマンが煙たそうな顔でエッセルをなじる。
ウンディーネと共にこの小役人が現れたのは意外でしかなかった。
「精霊にヒトの都合というものを理解させるのは至難です」
助けられるのだから助ける。
そこに一切の疑念を挟む余地などない。
精霊とはエッセルにとって到底理解できない存在なのだと思い知らされたところだ。
「しかしですね、まさか白姫とケイマン様が一緒に逃げようとしていたとは思いませんでしたよ。年甲斐もなくスミに置けませんね」
「たわけ。ワシは逃げる気なぞないわ」
「えぇッ! 一緒にカレドニアを離れましょうよ。やはり道中ひとりは危険なんです」
「ヌシこそヒトの都合を理解したらどうじゃ」
したたかに地面で打った腹をさするエッセルの懇願を突っぱねる。
「キボシ様までいらっしゃるとは」
「フォフォ。ウンディーネどももワシの背中でゆるりとこっちの大陸へと渡ってきたのじゃよ。お前さんらと同じようにな」
シオリやウシツノたちも半年前、この巨大な亀キボシに乗って西の辺境大陸から東の緑砂大陸へとやって来たのだ。
「しかしワシはここまでじゃ。年老いた亀に出来ることなどもうないでの。お前さんの戦いを見守っとるよ」
「はい」
「お嬢ちゃん」
「はい?」
「何があったか聞きはせんが、これだけは覚えておくといい」
「……」
「希望は常に、己の中にのみ、じゃよ」
「己の中に……」
ケイマンがシオリへと歩み寄った。
「さて、おぬしは何がしたい? それはどうすれば叶う?」
「私は……」
シオリは自身の神器を強く握りしめる。
「私はみんなを治したい。そのためには、まずこの黒い雨を止めないといけない」
「どうすればええ?」
「雨を降らす虹蛇を鎮める。そして国中の水を浄化する」
「それで治るのですか?」
エッセルの問いにシオリが首を横に振る。
「でもそれでもう獣化は起きない。そのあとは、私がひとりひとり、全員を治します!」
「正気ですか! な、何人この国に居ると思ってるんです!」
気色ばむエッセルをシオリは凛とした目で見つめ返す。
「あなたこそ私を誰だと思ってるんです。私は白姫。〈再生の道標〉を司る最強の癒し手です」
シオリは毅然とした態度で街へと歩き出した。
そのあとをケイマンとウンディーネたちが続く。
「どれ。お前さんにはワシらの案内を頼むとしようかのぉ」
居残った数人のウンディーネたちに掴まれたエッセルは、キボシの巨大な甲羅の上へと乗せられた。
「あ、案内ならここまでしたじゃないですか」
「もうちょっとじゃ。この国の地下に広がる地底湖。そこへ連れて行っておくれ」
嫌がるエッセルを乗せたまま、キボシは彼にしてはこれ以上ない速度を上げて前進を開始した。




