370 生きた目
城壁に沿った街の外縁部はあばら家や露店がひしめく市場だった。
当然のごとく今は微塵も人影はない。
往時であればたくさんの買い物客や商人、旅人で賑わっていたのだろう。
黒い雨がもたらした災厄は全てを押し流し、なおも汚染し続けているようだ。
小さな商店の裏に回ったケイマンは、すぐ裏手にそびえる城壁に設えられた木戸を尻尾で器用に押し開いた。
後に続いたシオリは草むらに錆びた錠前が転がっているのを目の端にとらえていた。
中は湿った空気が充満する小部屋だった。
商店の主が使う倉庫だったのか、城壁上で見回りをする衛兵の宿直室だったのか。
石の床に寝床として使用していたらしい、ゴザが敷かれた以外、今はなにもない。
奥の壁は崩れ、隣接する暗い通路がさらに闇の向こうへと延びている。
「今はワシの住処じゃ。ここには獣人も入ってこん。まあゆっくりしていくがいい」
どっこらしょ、と捧げ持った包みを床に置きつつケイマンは瓦礫を椅子のようにして座り込んだ。
「私のこと、殺さないの?」
「一度でも思ったことなどありゃせんわ」
心外だ、という風にケイマンが顔をしかめる。
シオリはゴザを避け、部屋の片隅に寄ると恐る恐る腰を落ち着けた。
しばらく何もない沈黙が続いた。
ケイマンはなにやら包みから取り出したものに四苦八苦している。
どうやら色々と食べ物が入っているようだ。
パンや野菜、ブルーベリージャムの入った瓶もある。
ケイマンはその瓶の蓋を開けるのに苦戦しているようだった。
なにせ彼の両手は肘から先がない。
無言で見続けていたシオリだったが、そっと手を伸ばし代わりに蓋を開けてやった。
「ふん」
礼など言わず、ケイマンはパンとジャムの瓶をシオリの前に追いやった。
「最期の晩餐かもしれんぞ。よう味わっとけ。カカッ」
笑えない冗談を言いながら自分は酒瓶を煽り、生の人参を噛っていた。
肘先から突き出た仕込み刀を器用に扱っている。
「慣れてしまえば手先がなくともなんとかなる。まあ、いつもは瓶を叩き割ってるがな」
なら何故そうせず蓋を開けようと苦心したのか。
「死んどるなァ」
「え」
言葉の意味をシオリは測りかねた。
「お前の目じゃ。三十年前のワシとよう似とる」
「……」
「昔話じゃよ。当時、イキり散らしておったワシはあるムカつくカエルにコテンパンにのされてな、面子を潰され居場所を失ったんじゃ」
シオリが耳を傾けていることを確認するとケイマンは先を続けた。
「なんもかんもを失くしたと思うたさ。じゃがな、故郷を離れ方々を彷徨ったワシも、いつしか剣聖にまで名を上げ、我を取り戻したもんじゃ」
今はまた全部を失くしちまったがな。
と笑いながらケイマンはうそぶいた。
目を伏せるシオリを肴に酒を煽ったあと、あくびを噛み殺しつつ寝転がったケイマンは低い声で言った。
「逃げたきゃ逃げたらええ。なんもかんも、時間がそのうち解決してくれる」
「…………」
「寝てる間にくたばれりゃあ、それが一番ッ楽だがなァ」
スゥスゥと寝息を立てて眠ってしまった。
ひとりになるとシオリは膝に顔を埋めて再び啜り泣いた。
微かに聞こえる雨音よりも小さな泣き声だった。
しかしそれもつかの間。
身体はシオリに休息を強制し、いつの間にか意識は深淵の底へと落ちていった。
――翌朝。
といっても相変わらずの暗い雨空に時間の経過も狂わされているのだが。
ケイマンはシオリを伴い崩れた城壁内の通路をおもねると、微かに外の明かりが射し込む崩落した壁へとやって来た。
「ここから外へと出れる」
先に出たケイマンの後をついてシオリも外へと這い出た。
街の排水を外へと流す水路が北へと延びている。
「水路を伝えば海に出る。途中の道を北へ行けば、まだしもマシな街が残っとる。好きなところへ行け」
「あなたは?」
「わからん。じゃがもうしばらくここで穴蔵生活を続ける」
「どうして……」
「わからん。老いぼれの意地じゃな、きっと」
早く行け、と手で追い払う仕草をして見せる。
シオリは少し歩き出したが、振り向いてケイマンの元へと戻ってくる。
「なんじゃ?」
シオリはケイマンの両腕を握るとモゴモゴと小声で何かを呟いた。
「なにしとる……」
ケイマンの言葉は途中で途切れた。
腕先からまばゆい光が発生すると、ケイマンの両腕は五指の先まで綺麗に復元されていたのだ。
目をカッ開いて驚くケイマンが指をあれこれと動かしてみる。
自分の意思の通りにちゃんと動いてくれる。
「な、なんと! こりゃぁ驚いた。白姫っちゅうんはこんなことが出来るんか」
いいや、ここまでのことをシオリは今まで出来ようはずもなかった。
傷を癒すことは出来ても、失くしたモノを再生する力まではない。
それが出来ればマユミの右腕もとっくに治していた。
「出来そうな、気がしたの」
「しかしワシで試す必要もなかったろう? ワシの今までの所業を知っておろう?」
決して褒められた人格の持ち主ではないことは聞いていた。
「誰かを癒すことで救いを求めたか?」
「別に……」
「責めとらん。他人のために奉仕するのは究極的には己のためでもある。そこを他人が理解する必要もない」
「……」
「ふむ。訂正しよう」
「訂正?」
「お前の目じゃ! 全然死んどらんわい」
風がシオリの髪をたなびかせた。
「今一度行くんじゃな。そのつもりがあるからこそ、決してお前は手放さなかった」
ケイマンが復元した右手でシオリの手の中のモノを指差す。
右手にはシオリの神器シャイニング・フォース。
左手にはヒカリの神器パンツァー・ドラグーン。
二つの神器をシオリは眺めた。
「カッカッカ。そうかいそうかい。んん、そうするかいのう?」
両手を腰に当て、尻尾で地面を打ちつけながら、ケイマンは何やら思案した。
「では行こうか。お前の行く末を見守うてやる」
「え?」
「死に場所を選べるなんぞ、このうえない幸福じゃて。カッカッカ」
陽気に笑うケイマンだったが、もうひとつ、シオリに声をかける者があった。
「よかった。シオリさん! こんな所でうまいこと会えるなんて!」
「えっ?」
他に誰もいないと思っていたこんな場所でシオリは声をかけられて驚いた。
声をかけた者の姿もよく見えない。
「誰?」
「ここですよ。お忘れですか? わたしたちのこと」
シオリとケイマンの目の前で、雨の中から水のような半透明の肌をした少女の姿がいくつもいくつも現れ出した。
「な、なんじゃ? こいつら」
「あ、ああっ! もしかして、水仙郷の水霊さんたち」
それはシオリがハイランドに訪れる以前にお世話になっていた、水仙郷に住む水の精霊たちだった。
「お久しぶりです、シオリさん。アカメさんに呼ばれて、ここまでやって来ちゃいました」




