369 叫ぶように泣いてから
周りに人はいない。
シオリを取り囲むのは獣に成り果てた街の住人ばかり。
雨は強くシオリを打ち続け、獣はシオリの心を打ち砕く。
「ぐるぅあああああああああ」
獰猛な牙をむきだして飛び掛かってきたのは目の前の一番近くにいた獣人だった。
「ヤメテッ」
見覚えのある衣服。
右手中指に嵌めた指輪。
オレンジがかった綺麗な髪は獣の剛毛に変わり果てている。
「ハクニーッッッ」
信じたくなかったが、その獣人は獣化したハクニーで間違いなかった。
ハイランドに流れ着いてからずっとシオリの傍にいてくれたケンタウロス族の姫君。
明るく快活でとても献身的だったあのハクニーが、とても目も当てられない。
掴みかかるハクニーの手を振りほどこうと思わず振り上げた手がハクニーを突き飛ばす。
姫神である間は力も当然上がる。
突き飛ばされたハクニーが崩れた家の瓦礫に埋もれる。
「ハクニーッ」
だが心配をしている暇はない。
次々とシオリに獣化した人々が狂気を伴い躍りかかる。
「ダンテ先生! シャマンさんッ」
黒髪長髪に白衣の獣人と、剛腕を振り回す猿人族の獣人。
その二人の合間を搔い潜り走り抜ける。
一瞬ハクニーが心配になり振り返ると全身に甲冑を身にまとった犬狼族の獣人が体当たりしてきた。
「きゃぅッ」
まともに吹っ飛ばされ膝をつく。
全身が雨に濡れ体温が下がる。
蓄積したダメージが思い起こされ体のあちこちが痛む。
状況の混乱に拍車がかかり視界も狭くなる。
気分が悪くなり頭がふらつきだす。
「みん、な……」
周囲には仲間以外にも獣化した人々が集まりだしていた。
ただひとり、人間のままのシオリを敵視しているのがありありとわかる。
言葉も心も通じる気配もない。
猫耳族の獣人が屋根から爪を振り下ろしつつ飛び降りてきた。
かろうじて横に転がりながらかわすとシオリはもう彼らを見ないようにした。
「くぅ……」
背を向けて、一目散に、シオリは逃げ出した。
それを察した獣人たちが次々と躍りかかる。
「ハァ、ハァ」
視界がぼやけてよくわからなかった。
雨が顔に当たるせいだと思ったが、しゃくりあげる自分の呼吸器に泣いているせいだと理解した。
思い起こせばこの一年、異世界に迷い込み、苦しい戦いに巻き込まれても、シオリは弱音を吐くことはしなかった。
涙を見せることもなかった。
それは何故だかわかっている。
自分を守ってくれる人たちが大勢いたからだ。
だけど今はその人たちが獣に変わり果て、シオリは初めてこの世界でひとりになってしまった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
涙でぐしゃぐしゃな顔になりながらひたすら走った。
息は上がり、胸は苦しい。
足は痛むし、希望は何も見えない。
真横にシャマンが追いついた。
猿人族らしく機敏な動作で動けるらしい。
驚くシオリの足首を掴むと思い切り振り回しぶん投げられた。
「ッッッ!」
背中から肩から思い切り石壁に叩きつけられる。
勢いそのままに壁を乗り越えた身体は真下を流れる水路に落ちる。
何日も続く豪雨に溜まりに溜まった水が濁流となりシオリを押し流す。
「ぶはっ」
なんとか顔を上げ手近のヘリを掴むと水路から這い出ることが出来た。
「はぁはぁ、ゲホッ」
激しく咳き込むうちにシオリは変身が解け元の姿に戻る。
この街を出た時に着ていた雨よけの外套はなく、先のギワラと同様の全身をぴっちりと覆う革のスーツ姿だった。
雨に濡れるのを避けるための対策だったが今さらそれが何だというのか。
「あっ、あっ、ああああああああああああああッッッ」
シオリは号泣した。
地面に突っ伏したまま、背中を雨に打たれたまま。
泣きながら膝を立て、のそのそと起き上がる。
それでもここでじっとしていてはいけない。
とにかくどこかに行かなければならない。
闇雲に歩いた。
物陰に身を潜ませながら、大声を出して泣くのをこらえながら。
いつの間にか街の外周部に辿り着いていた。
泣きはらし、脚を引きずり、周囲にびくびくとしながら、シオリはカレドニアを囲む城壁を見上げていた。
「この壁の向こうまで逃げれば……」
壁は高さ十メートル以上はある。
どこか抜け出る穴でも開いていないだろうか。
「ッ!」
歩き始めたシオリの耳に別の誰かの足音が聞こえた。
「ひっ」
思わず悲鳴を上げかけうずくまる。
音のした方と反対方向へ無様にも身体を引きずる。
逃げなくちゃという思いしかなかった。
しかし無情にもそのシオリの行く先を遮るように足音の主は立ちふさがった。
「――ッ」
絶望がシオリを押し包む。
獣の唸り声と、爪が振り下ろされる瞬間を覚悟する。
「なんじゃ。白姫の小娘か。また随分とみすぼらしい形をしておるなァ」
「ッ」
思わずシオリは顔を上げた。
そこには見覚えのあるトカゲの老人がシオリを見下ろしていた。
「手ひどい目に遭うたか? カカカッ、結構、結構。これでまた一段と強うなれようて」
何度目の邂逅だろうか。
いまだ変わらない知人が残っていようとは。
「ついて来いや、白姫」
グランド・ケイマンは相変わらず飄々とした風で、シオリに手を貸すこともなく歩きだした。




