368 ひとりきりの戦い
箱を手にしたシオリを見上げるゼイムスの息が荒くなる。
腹部を抑える手の指の間から鮮血がこぼれる。
「シオリ! そいつに止めをさせ」
痛みをこらえながら上体を起こすタイランがシオリに檄を飛ばす。
「とどめ」
その指示は理解できる。
相手は敵でここは戦場だ。
だがシオリは躊躇した。
あきらかに弱っている人間の、命を奪うとわかって手を下すことが自分に出来るのだろうか、と。
「人を、殺す……私が?」
一年前までなら考えもしなかった悩みだ。
自分が人を殺すかもしれないなどと。
それに目の前の相手は一度自らが助けたこともある者だ。
地底湖の渦に飲み込まれ街の外で二人きりで倒れていた時のことを思い出す。
一度助けた命を自分で終わらせることになる。
いや、それでも今は非情に徹するべきかもしれない。
その思考停止が致命的な間を生み出した。
「危ないシオリ」
「えっ!」
振り向いたシオリの顔面を掌底が襲った。
突然顔を掌で押され訳が分からない。
それはゼイムスと同様、腹部から血を流したエユペイがシオリを突き飛ばしていた。
数メートル離れた位置でたたらを踏んで踏みとどまれたが、エユペイが五体無事であったなら、もしくはシオリが姫神に変身していなかったならば、間違いなく自分はいま殺されていただろう。
その事実に気が付いたシオリの顔から血の気が失せる。
「大丈夫か」
「エユペイ……」
流れる血を手で強く押さえながらも、エユペイは雇用主を守るため、仁王のごとく立ち塞がる。
「よく、護ってくれた、な」
「オレはあんたが何者だろうが関係ない。ただオレを雇ったのは紛れもなくあんたであり、請け負った仕事は完璧に遂行するのがオレの美学。それだけだ」
「……そうか」
心なしかゼイムスの顔が穏やかになる。
「特別報酬をやらんといけないな」
「必要ない」
ウシツノやタイランから目を離さないよう、背中越しにそう答える。
「そう言うな。受けとれ」
ズン!
後ろからエユペイの心臓が一突きにされた。
刃が二又に分かれている、ゼイムスが愛用していた短刀だ。
「なぜ…………」
振り向き、口から大量の血をこぼしながら、エユペイは地に伏した。
「必要ないからだ。オレは自身の存在すら許せんのだからな」
「不憫な」
狂った主に仕えることほど不幸なことはない。
タイランがそっと黙礼する。
「勘違いするな。こいつはまだ死んでいない」
ゾッとするような声音で話すゼイムスの前で、エユペイの身体がはね起きた。
「ぐ、ぐうるるるる」
獣の唸り声。
エユペイの全身から黒い剛毛が伸び出す。
特に貫かれた腹部と胸からがひどい。
「体内に直接雨が染み込んでいるからなあ。直は速いんだ」
「ギャォオオオオオッ」
それまでよりもずっと動作が早い。
しなやかな体躯で一直線にシオリに飛び掛かる。
「ッ」
ガツン!
驚きで動けずにいたシオリの前に立ちふさがったのはウシツノだった。
「カエル族の跳躍力だって舐めてくれるなよ」
「ぐるるるるうるるる」
ガチガチと牙を打ち鳴らし、両手の爪で刀を押し返そうとするエユペイに、もはや人間の面影は残っていなかった。
「くっ、シオリ殿、こいつは何とかするから」
「シオリ! 早くあの蛇を鎮めるんだ」
立ち上がりこちらに加勢しようと向かってくるタイランも叫ぶ。
「う、うん」
「させるかッ」
ゼイムスの怒気に銀姫が反応する。
再び球体から無数の銀の触手が現れシオリに向かい襲い掛かる。
キン!
その一本をタイランが弾いた。
「タイランさん! ありが……」
そこでシオリが息を飲んだ。
「タイラン、さん?」
「ぐるる」
シオリに背を向けたまま剣を構えるタイラン。
顔は見えないのだが、明らかに今聞こえたのは唸り声。
「ウ、ウシツノ」
不安に駆られウシツノの方を振り向く。
「ッ!」
そこには獣と化したエユペイの前で膝をつくウシツノがいた。
「ウシツノ!」
だが様子がおかしい。
見たところケガをしている感じはない。
「グ、ギギ、グ」
そして絞り出すかのような獣の唸り声。
「うそでしょ……」
ゆっくりと後退るシオリに、振り向いたタイランと起き上がったウシツノが近寄ってくる。
二人とも、獣化していた。
「いやぁぁぁっぁぁっ」
二人が剣を振りかぶり押し寄せる。
相対してわかる、想像以上の剣速と脅威。
最初の一撃をかわせたのが奇跡に思える。
「二人とも! 目を覚まして!」
なんとかしなくてはと思う。
しかし考えがまとまらない。
「そうだ! 癒しの光で」
一時的にでも効果があるかもしれない。
しかしそれを試す余裕がない。
エユペイまでが加わり防御に徹するのが精一杯なのだ。
「さすがにお手上げだな白姫。今楽にしてやる。銀姫よッ」
そこへ容赦なくゼイムスの命令が銀姫に飛ぶ。
再び触手による攻撃が再開された。
「くっ」
シオリは外へと飛び出した。
今は、逃げる以外に思いつかない。
しかし空は安全では決してなかった。
銀姫の触手は執拗に追ってきて、タイランの翼は赤い弾丸の如く迫る。
そのタイランを踏み台にしてウシツノが跳躍でシオリに追いついた。
ガツン!
ウシツノの一振りでシオリは真っ逆さまに墜落した。
街の広場の一角に落ちたようだ。
そこは、大勢の獣人でひしめいていた。
「はあ、はあ」
ダメージを負ったが墜落程度でやられることはない。
なんとか撤退をしようと試みる。
「そ、そんな」
そのシオリの前に立ちふさがる何匹もの獣人に見覚えがあった。
着ている衣服、面影、雰囲気。
「ハクニー……なの? それに、ダンテさん」
他にも見覚えのある者がいた。
「シャマンさん、メインクーンさん、ウィペットさん、クルペオさん……」
街で見かけた覚えのある者もいる。
東門を守る衛兵隊らしき人たちもいる。
みんなみんな、獣化していた。
シオリのことなど何も覚えているようには見えなかった。
ついにこのカレドニアにシオリ以外の人間はいなくなってしまった。




