358 まずは一歩を
「こいつに頼みたいこと?」
ウシツノがクネートを指差しながらタイランに問いかける。
「我らの代わりにネアンへ赴き、領主のミゾレ嬢とレーム皇子、アカメに状況を伝えてほしい。必要な手配もな」
「ボクが?」
「こいつが?」
クネートとウシツノがそろって素っ頓狂な声を上げた。
「む、むむむ、無理だ。自慢じゃないがボクはひとりで出歩いたこともないのだぞ。ネアンだなんて」
「待ってくれタイランさん。レッキスはどうするんです? 彼女を安全な場所へ連れていくのにネアンしかないでしょう?」
「クネート皇子に頼む」
傍らで元の姿には戻りつつもいまだ寝入ったままのレッキス。
彼女を黒い雨の降るカレドニアへこのまま連れ帰るのは得策ではない。
「けどこいつひとりにレッキスまで任せるなんて」
ふと気づけばクネートはジッとレッキスを見つめていた。
「可愛い」
「おいッ! やっぱり反対です。だいたいギワラが言っていたけど、コイツ女好きの拷問趣味だって。そんなのに任せられるはずが……」
「ちょっと待って! それ逆だよ!」
「は、はあ?」
今までにない真剣な眼差しでクネートはウシツノに抗議した。
「どこで曲解された噂か知らないけど、ボクは女の子に拷問なんてしない」
「だけど……」
「ボクは女の子に拷問されたい側なんだッッッ」
一同声も出なかった。
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「では皇子、よろしく頼みます」
「タイラン殿へのご恩を返せると思えばこのぐらい」
レッキスを背負ったクネートがシオリに向かい親指を立てにっこりと笑う。
「なんでタイランさんへの恩返しをシオリ殿にアピってるんだよ」
まだ納得しきれないウシツノがツッコむ。
結局クネートがひとりでレッキスを連れてネアンへ行くことになった。
実際カレドニアが危険な以上、クネートにしても他に行く当てはないのだ。
当面安全が確保された街で一番近いのはネアンである。
「待って。この剣も一緒に持って行ってください」
シオリがクネートに持たせたのは金姫の神器だった。
「レッキスさんが大切にしていた物です。目覚めた時、そばにこれがあると安心すると思います」
「シオリさん、君はとても優しい女の子なんだね。よかったらボクの……」
「不必要に手を握るな」
シオリに触ろうとしたクネートの手をウシツノがはたいた。
「その剣は意思がある。危害を加えようとすればレッキスを守ろうとするはずだ。変な気起こすなよ」
「失敬な」
ウシツノに対しては最後までプンプンと怒り続けたクネートだが、なんだかんだとネアンへ向けて旅立っていった。
「大丈夫かな」
「ネアンにはバンズさんという腕の確かな医者もいる。敵対心を解いた翡翠の星騎士団もいる。あそこ以上に安全な場所はないさ」
バンズとはシオリを診察し、ドクターダンテをタイランに紹介した老医師の事である。
平原に伸びるささやかな街道を歩き去るクネートを見送った後、三人はカレドニアへと方向転換した。
「けどタイランさんも黒い雨はヤバいんじゃないですか?」
「そうですよ。バンさんが言うには姫神以外耐性がないって話でしたよ」
「オレはシオリ殿に力を分け与えられた副作用で耐えられてるそうですが」
ふ、とタイランが頷く。
「しかしお前たちの話だと雨の中をあの蛮神ズァも濡れるに任せていたのだろう? 防ぐ手立てはあるという事だな」
「雨を無毒化することは出来るみたいな口ぶりだったけど」
「とりあえずシオリに状態異常を防ぐ術技を施してもらおうか。それでいくらかもつだろう」
「不安じゃないんですか?」
「怯えていても解決しないなら、まずは一歩を踏み出すしかあるまい」
そう言って先頭を歩きだすタイランの背中を二人も追いかけた。
「まずはゼイムスを追おう。奴が生きていたとなれば箱も持っているはずだ」
「パンドゥラの箱!」
それは千年間ガトゥリンを封印した千年前の白姫の神器だ。
「その箱を使えばこの災いを鎮めることも出来るかもしれない」
「そうか。そうだよな。なんだ」
ウシツノが何故だかホッとしたような口ぶりになる。
「どうしたの?」
「いや、冷静に考えればまだまだ自分でもやれることはいくらでもあるんだなって」
「ああ」
タイランと合流するまでウシツノは自分の無力感に苛まれていたのを思い出す。
「フフ、ほんと。そうだよね」
「どうした? なにかあったのか?」
振り向いたタイランが怪訝な顔をする。
「いや、何でもないです! さあ行きましょう」
三人の向かう先は黒く重たい雲が変わらず垂れこめていた。
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「陛下……」
王城ノーサンブリア第三の塔謁見の間。
そこから広々と解放されたテラスに立ち、トーンは街を睥睨していた。
軒下までにとどまってはいるが、打ちつける黒い雨の飛沫はかかっている。
しかし最早それを気にする段階でもなかった。
「そんなところに立っておられては雨に当たります」
臣下の心配する声もどうでもよかった。
トーンは自身の右腕をまくり上げてみる。
微かに黒い斑点がシミのように肌に広がり始めていた。
貯蓄されたキレイな水も残り少ない。
トーンは改めて街を見下ろす。
そこには閉ざされた城門に群がり助けを乞う民衆の絶望が広がっていた。
すでに街中で獣化した者は数多い。
まだ無事な者も早晩獣化するだろう。
それに耐えきれなくなった者が体力の残っているうちに行動に出始めた。
街を出ようとする者。
城に殺到する者。
「そして獣化した家族、隣人を殺害する者まで」
決してトーンは国民を見捨てようとは思っていなかった。
しかし打つ手が見つからず時間だけが過ぎていった。
「無力だ……オレは……」
「そうではない」
うつむいたトーンがかけられた声にハッとして顔を上げる。
そして驚愕した。
城の高い位置に羽付きの獣フリューゲルに支えられた人間がいた。
その顔を見間違えるはずがない。
「まさか……」
「貴様は無力などではない。無能なのだ」
「……ゼイムスッ」
「帰ったぞ、従兄弟殿。真の王として、な」
それはいつぞやの帰還時に発したセリフと同じであった。




