350 絶望からの出発
「遅いぞエッセル」
真っ黒く淀んだ水をたたえる地底湖の淵で、トーンは遅れてきた役人のエッセルを叱責する。
「貴様の意見を聞かせろ」
「もぉ、私も忙しいんですよぉ……使える人間が足りな過ぎて……ブツブツ……」
はぁはぁと息を切らしながら現れたエッセルは、恨みがましそうにトーンを一瞥すると改めて湖に目を移した。
「この水、どうすべきであるか」
「はぁ……」
地底湖の水はカレドニアの街全体に行き渡る生活用水として大事な水源である。
その水が汚染されている。
半月以上も続く長雨が地面から染み渡り、湖の浄化能力を超える容量が溜まってしまったのだ。
「これは大変ですね」
「わかっている」
「しかしですね」
エッセルはトーンにまっすぐ向き直る。
「はたして本当に、この水が街を騒がす獣化の原因なのでしょうか」
「なんだと?」
「まだ推測の段階じゃないですか。別に黙っててもいいんじゃないですか?」
「……」
悪びれもせずそう言ってのけるエッセルに、さすがのトーンも閉口してしまう。
「とりあえず試してみましょうよ。ねぇ、そこのあなた」
エッセルがそばに控える兵に声をかける。
「一口でいいんです。飲んでみてください」
「えっ!」
驚いた兵が勘弁してくれとトーンに救いの目を向ける。
「飲め」
だが無情にも、腰の剣に手を掛けているトーンの様子に兵は観念して水を一口だけ啜ってみる。
「……ゴク」
恐る恐る水を嚥下する。
周囲も固唾を飲んで見守る。
「…………飲み、ました」
「どうです? 具合が悪いとか?」
「と、とくには、なにも」
見たところ外見にも異常は見受けられない。
「すぐに影響は出ないのではないか」
「そうですよ。ただちに人体に影響が出るものではないのですよ。なら対策が見つかるまで秘匿しておきましょうよ」
「国民に黙っておくのか?」
「言ったところでいらぬ不安を招くだけです。それに水が飲めなきゃ人間どのみち生きていけませんし」
「それはそうだが」
「まあ私たちに何かあっては国の存亡に関わりますし、私たちは別に水を調達しましょう」
顎に手をやりながらエッセルは周囲を見渡す。
「それとここは立ち入り禁止にします。侵入者は見つけ次第、口を封じるように」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ガシャッン!
昼食に使った食器を片付けていたハクニーが突然倒れた。
一緒に居たシオリがハクニーを抱き起こす。
すぐに異変に気が付いた。
「どうした」
ダンテとウシツノ、ウィペットの三人が駆けつける。
「ハクニーの体に」
シオリがハクニーの露出した肩から腕を見せる。
黒い斑点が浮き出ていた。
「これは、黒点病!」
「そんな! ハクニーは外に出てないじゃないか」
驚くウィペットとウシツノだったが、床で割れた食器を見てダンテがハッとする。
「しまった。もしや飲み水か」
「え!」
「お嬢ちゃん、調理に使った水はどこから?」
「い、井戸からです」
シオリが指差す方向、調理場の土間に井戸がある。
ダンテは井戸に駆け寄り水を汲み上げる。
「井戸の水が原因だと言うのか?」
「でも屋内にある井戸だぞ」
ダンテが首を横に振る。
「町中の生活用水は全て地底湖から供給されている。おそらくそこがすでに……」
「地底湖、オレがマユミ殿と戦ったあの……」
ところが急に脱力しドクターダンテも膝をつく。
「う、これは……」
そしてウィペットまでもが座り込んでしまった。
「ど、どうしたの?」
「まさか!」
ウシツノが確認すると二人とも黒い斑点が顔や腕に浮き出ていた。
「そんな!」
「ちょっと大変! クルペオさんが」
慌てた素振りでマユミが駆け込んできた。
しかしダンテやハクニーの様子を見てすぐに言葉を飲む。
「どうやらみんな、黒点病に罹ってしまったようだな」
「でもどうして私たちは平気なんだろう」
たしかにウシツノ、シオリ、マユミの三人は発症していない。
同じものを食べていたにも関わらず、だ。
「姫神には効かないのかもデシね」
「バンさん」
そう言いながらひょこひょこと現れたバンも白い身体に黒ずんだ斑模様ができていた。
「お前もやられたのかよ」
「うるさいデシ」
ウシツノに突っ込むバンの声も弱々しい。
「え、でも、バンさんだって姫神じゃ?」
「今はもう違うデシ」
「オレだって違うぞ」
ウシツノが困惑気味に答える。
「お前はたぶん、シオリから力を分け与えられたアサインメントによって抵抗力が強まってるデシ」
「そ、そうなのか?」
「けどそれもいつまでもつかわからないデシ」
「みんなが獣になる前に何とかしないと」
シオリはそう言うが方法は誰にも分らない。
「でもどうやって、何をすればいいんだ?」
「どうって……」
そんなアイデア、ウシツノにもあるはずがなかった。
「あぁ、クソッ! アカメよ早く帰ってこいッ」
「あのさあ」
マユミが口を挟む。
「白姫の力でみんな治すことってできないの?」
「わたしのチカラ?」
「そうだよ! シオリ殿なら何でも治せるじゃないか!」
ウシツノの顔がパッと明るくなる。
「うん、でも……」
「やめておけ」
躊躇していたシオリを制止したのはダンテだった。
「この現象の根源をつぶさない限り、たとえ一時的に回復したとしても再発を繰り返すだけになる」
「でも」
「それにお嬢ちゃんひとりで何万もいるこの国の人々をひとりひとり治してまわる気か? とても身が持たないだろう」
「うっ……」
「いいか、発症していないお前たちだけが頼りなのだ。なんとか、しろ……」
「無茶を言う」
「獣になるだけで……死に至ると決まったわけではない。はぁはぁ……頼んだぞ」
そこまで言ってダンテは意識を失った。
ウィペットもハクニーも気を失っている。
おそらく向こうの部屋でクルペオも同様だろう。
「行くデシ……ここはいいから、お前たち三人は街を出るデシ」
「でも、バンさん」
「どこでもいいデシ。誰でもいいデシ。とにかく事態を改善する手がかりを見つけてくるデシ」
「わかった」
マユミがコクンと頷く。
「マユミさん!」
「こうしていても始まらないよ。とにかく行動あるのみ。さ、準備して」
マユミは意気揚々と部屋を出ていく。
「シオリ殿、今はマユミ殿の言う通りかもしれん」
「うん……」
「さて、どこを目指すべきなのか」




