347 池のほとりで
大将軍ジョン・タルボットは打ちひしがれていた。
忠義を尽くそうと剣を捧げたゼイムスは殺され、あまつさえライシカ処刑の場に怨霊となって現れたなどと不名誉な噂まで流れる始末。
新王に即位したトーンは今や自分を信用していない。
あからさまにゼイムスに味方したのだからそれも致し方ない。
ハイランド騎兵団大将軍。
この座に居座れるのもそう長くはないだろう。
ローズマーキーへの調査隊などという仕事を割り当てられたことからもそう思える。
人手が足りないと与えられた兵力はわずかに十騎だ。
「この国も、長くはないのかもしれんな」
口をついて出るのはボヤキばかりであった。
付き従う兵が心配するほどにジョン・タルボットからは活力というものが見失われていた。
そこにいるのはすでに隠居した老人のようであった。
「閣下、ローズマーキーの街が見えましてござります」
部下の報告に顔を上げる。
たしかに街道の先に街並みが見えていた。
遠くから見るに静かなものだ。
かつて南の要衝と謳われた交易都市の名残すら感じられない。
獣や敵兵の存在も感じられないのは救いであったが。
「ひと通り確認して戻るとしよう。そうしたらお前たちも身辺の整理をしなさい」
「閣下!」
「お前たちは私によくついてきてくれた。望むなら他の諸将への紹介状もしたためよう」
「閣下……」
「う、うぅ。なんというお心遣い」
「おいたわしい」
込み上げる嗚咽を押さえながら騎士たちは街へと入った。
そこですぐに異様に気が付いた。
「な、なんですかこの匂い」
「不気味な気配もします」
たしかに街は無人だった。
しかし街全体を薄気味の悪い障気が覆っていた。
息を吸うのも躊躇われる。
恐る恐る探索を続けた一行は街の一角に広がる大きな公園に足を踏み入れた。
ローズマーキーはハイランドの最南端にある商業都市だ。
かつては南のエスメラルダと交友があり、旅人や行商人でたいへん賑わっていた。
この数年は低調であったが、それでも国内では依然大きな売り上げを誇る。
人工的に作られたこの公園はたくさんの人で賑わう憩いの場としてもよく知られていた場所なのだが。
「見る影もないな」
驚くことに木々は枯れはて、花は萎み、大きな池の水は真っ黒く淀んでいた。
「匂いのもとはこの水ではないですか?」
「なぜこんなにも濁っているのだろうか」
「待ってください! この水、カレドニアに降る黒い雨と同じなのでは?」
何やら重要な秘密に辿り着いたように思えた矢先、先行した部下から別の報告があった。
「閣下! あそこに人がおりまする」
部下の示した先にボロを纏った乞食のような男がいた。
黒く淀んだ池のほとりにひとりで腰掛けている。
「このような場所に、怪しい奴め」
「貴様、ここで何をしている!」
取り囲み男を詰問した。
「ああ、その声、聞き覚えがあるな」
「ま、まさか……」
その男の顔を見てジョン・タルボットは驚愕した。
「ゼ、ゼイムス様では、ござりませんか」
「ゼイムス……そう。そうだったな」
呆けたように答える男があのゼイムスなのか?
居並ぶ兵たちは疑問に感じたが、ジョン・タルボットはそうではなかった。
涙を流し感激している。
「殿下! 殿下! ああ、なんとおいたわしい。しかし生きておられたのですね! さあ城へ戻り、王座を取り戻しましょうぞ」
興奮気味にまくしたてる老人をゼイムスは遮った。
「ちょっと、待って欲しい。もう少しなんだ」
「もう少し? 何がですか?」
バシャッ!
そのとき池から一本の腕が這い出てきた。
剛毛に覆われた腕は見るからにヒトのようでもあり、獣のようでもあり、そしてどうにも禍々しかった。
続けていくつもの腕が次々と這い出てくる。
いったい何人いるのだろうか。
頭、胴体、尻尾、と徐々にその姿を見せ始める。
「これは、まるでバル・カーンのような獣ですが、いやしかし、少しヒトに近いような」
「ライ・カンという。獣神ガトゥリンの忠実な手足となって働く者たちだ。もとはその辺で怯えていた人間どもだったが」
「は? 今なんと?」
流暢にしゃべるゼイムスに誰も違和感を覚えなかった。
それどころではなかったのだ。
目の前に現れる獣じみた者たちに圧倒されていた。
「バル・カーンはこの者たちの退化した姿なのだ。ガトゥリンがいなくなった後、何世代もかけていくうちにただの獣に成り下がった」
「むう」
「将軍。手を貸してくれぬか」
立ち上がろうとするゼイムスの手をジョン・タルボットは握り返す。
「将軍。これからも変わらず私に手を貸してくれるだろうか」
「も、もちろんでございます。このジョン・タルボット、忠義を尽くす相手を生涯二度も間違えたりはしません」
「ありがとう」
ドン!
立ち上がったゼイムスはジョン・タルボット将軍の胸を強く押すと黒く揺蕩う池の中に突き落とした。
「ブハッ! 殿下、何を!」
「貴公もガトゥリンの手足となれ。オレへの忠義が確かなら、よもや断りはせぬよな」
「ぐっ! ブハァ! ひぃッ」
激しくもがくジョン・タルボットの視界に獣になり果てた黒い人影が映る。
まさか本当にこの黒い池に浸かっていると自分もあのような化物に変貌してしまうのか――。
絶望的な恐怖が込み上げる。
必死に池から這い出ようとするのだが思うように力が入らない。
水が体にまとわりつくような感覚が強く、決して逃がさないといった決意まで感じられるほどだ。
「手足は多いほどいい」
成り行きについてこれず、棒立ちになっていた騎士たちに振りかえる。
「ッ!」
ゼイムスはとてもヒトには見えなかった。
目は真っ黒に落ち窪み、やつれた肌はカサカサで、髪を振り乱し、まるで幽鬼のようだった。
恐怖に駆られた騎士たちだが、逃げようにも金縛りにあったように体が言うことを聞かない。
そんな騎士たちをひとりずつ、ゼイムスはゆっくりと黒い池に引きずり込んでいった。
どれほど時がっただろうか。
池のほとりに座り込み、ジッとひとりで眺めるゼイムスの前に、新たに獣人と化した者たちが這い出てくる。
そしてゼイムスにかしずくのであった。




