342 黒い雨 裏
少し時は遡る――。
場所はどこかの廃屋。
壁板の隙間から朝日がこぼれる。
空気中を舞う埃が光を浴びてキラキラと輝いている。
その中に二つの人影があった。
「どうやら本当にプシュケーを喪失したようですねぇ。チェルシー、記憶は残っていますか?」
カメレオン族のウサンバラは目の前にたたずむ青年に問いかけた。
「チェルシー? オレは、チェルシー」
チェルシーと呼ばれた青年は首をかしげる。
「ゼイムスとしての記憶でも構いませんよ」
「ゼイムス……オレは、ゼイムス」
少しずつ青年の声に張りが戻ってくる。
「そうだ。オレはゼイムス。この国の真の王」
「ええ」
「そしてオレはチェルシー。マラガの盗賊で、魔道商人で、そしてオレは……オレはなんだ?」
パチパチと手をたたくウサンバラは満足げに頷く。
「結構結構。ちゃんとご自身を認識していますね。精神が安定しないのはプシュケーがいないせいでしょうが、記憶と身体が無事なら問題ありません」
「なにを? オレはゼイムス」
ふう、とウサンバラがため息をつく。
「いつまで自分をゼイムスだと思い込んでいるのです。しっかりなさいチェルシー」
「なにを言っている? オレはゼイムスであり、チェルシーでもある。チェルシーこそがゼイムスであり、オレは」
「はいはい少し黙りなさい。どうやらプシュケーが長く居座り続けたのがまずかったようですね。本当の自分を見失っています」
「なにを言っている? オレはゼイムスであり、チェルシーでもあり……」
「いい加減思い出しなさい。あなたはゼイムスでもチェルシーでもない。いや、人間でもない」
「なにを言っている? オレは」
「あなたは長が造り出した人造人間です。奴隷のうちに死んだゼイムスの代わりに産み出された、実験体に過ぎません」
ゼイムスだと思い込んでいる、チェルシーだと思い込んでいた人形が、信じられないと言った顔をする。
「本物のゼイムスの精子と精神の精霊を使い造られたのがあなたなのですよ。お忘れですか?」
「オレは、ゼイムスではない?」
「ええ」
「父の記憶も、母の記憶も、奴隷として過ごした記憶も、全て紛い物?」
「正確にはあなたのオリジナルであったゼイムス少年の記憶です」
「嘘だッッッ」
頭を押さえ、うずくまる。
目は真っ赤に充血し、心臓の鼓動は早鐘を打つようだ。
「嘘だッッッ嘘だッッッ嘘だァッ」
「ショックでしたか? そんな真似はおよしなさい。プシュケーを失ったあなたに感情などもうないでしょう」
ガタガタと震えていたゼイムスの動きがピタリと止まる。
「さあ最後のお仕事です。この箱を持って、お行きなさい」
「仕事? 最後?」
手渡された青い小箱をしげしげと見つめる。
「盗み出すのにいささか苦労したのですよ。娘がぎゅっと握りしめたまま眠っていましたからね。しかもヨダレまで垂らして。あ、ちゃんと拭いときましたからご安心を」
ウサンバラはゼイムスにボロボロのマントを被せてやる。
あの美しかった青年が、乞食のように見る影もない。
彼の正体を一見で見抜かれることはまずないだろう。
「いいですか。箱を開けるのです。私も実際試してみましたが、やはり私には開けられませんでした」
扉を開き外へ追いやる。
「広場へ行きなさい。面白そうなことをしていますよ。そこでなら開けるのにもってこいです。祭りは大勢の方が楽しいですからね」
もうウサンバラの声など聞こえていなかった。
ゼイムスは放心したまま広場へ向かい歩いた。
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「静粛に! 国民よ! 我が声に耳を傾けよ! 我はこの国の第一皇子にして、今日今よりこの国の王となるトーン・ウォーレンスである」
広場には多くの人々が垣根を作っていた。
ゼイムスはその人垣を縫うように少しずつ前へと身を乗り出していた。
みすぼらしい格好のゼイムスにぶつかると、人々は嫌そうな顔をして身を遠ざけてくれる。
「聞くがいい。父である先王ブロッソ・ウォーレンスは涅槃へと旅立たれた。先のエスメラルダとの戦が原因である。突然の崩御に動揺を隠せぬものと思い、今日まで発表を遅らせた次第だ」
聴衆のざわつきがさざ波のように沸き立つ。
みんなは知らなかったのか。
しかしオレは知っていたぞ。
あいつは酷い奴だったからな、死んで当然だったんだ。
「しかし安心するがいい! ハイランドは今日より、我の手で在りし日の栄光を取り戻す入口に立った」
栄光を取り戻す――。
それができるのは……。
「ゼイムスは死んだッ! もうこの世にはいないッッッ」
そうだ。
そいつはもう何年も前に死んだんだ。
「彼は、素晴らしい男であった。先代レンベルグの遺児である彼に、我は喜んで王位を託そうとまで思っていた。だが彼はもういない。いないのだ」
悲しいな。
でもあいつはあまり悲しそうじゃあないな。
「東門広場に彼の銅像を建て、名をゼイムス広場と改める」
銅像が建つのか。
なんでだろうな。
「さて、みなの万感を慮り、我が最初に下すべきは何かと考えた」
最初? いや、最後だろう?
「それは制裁だろう」
うんうん。
「この者は、後ろに拘束された者共と共謀し、我等の大切なゼイムスを暗殺せし者共である!」
オレを?
いや、違う。オレじゃないか。
「これよりこの卑劣な暗殺者どもを公開処刑に処す! みなも怒りや悲しみを存分にぶつけてくれ」
いつの間にやら人垣の最前列に来ていた。
目の前に巨大な断頭台がある。
見上げると刃に陽光が反射して眩しい。
その刃の下に女の人が首を差し出していた。
オレは、今こそ仕事をするべきではなかろうか。
言われた通り、この箱を開けることで、オレはみんなに認められるのではないだろうか。
「最期に言い残すことはあるか。聞いてやるぞ」
オレだって、平穏に過ごしていれば、今頃は立派な王様になってこの国の人たちに愛されていたはずだ。
「くだらぬ。今になっても自己弁護か」
違う。
そんなんじゃない。
だってオレは、ゼイムスだと思ってたけどゼイムスじゃなかったんだから。
人間でも、なかったんだから……。
「ふん! オレは貴様とは違う。やれ」
そう、違うんだよ。
わかった。
やる。
「あ、あ、あああああ」
雄叫びを上げて飛び乗った。
誰も制止できなかった。
ぼろいマントを羽織ったみすぼらしい男が処刑台に飛び乗っていた。
死を誘うギロチンはすでに降下している。
驚くトーンの目の前で、男は青い小箱を掲げ蓋に指をかける。
箱が開いた。
ギロチンが落ち切った音は聞こえた。
けれど誰の耳にも残らなかった。
開いた箱と、みすぼらしいその男にくぎ付けになっていた。
何かが飛び出たような感覚はあった。
でも何も見えなかった。
まばたきすると、みすぼらしい男も消えていた。
もちろん箱もどこにもなかった。
誰もが見た。消えた男を。
誰もが感じた。何かの気配を。
「ゼイムス? あれは、ゼイムスだったのか?」
トーンの疑問に答えを持つ者はいない。
誰もが狐につままれた気分だった。
そうでない者はひとりだけ。
広場から少し離れた場所で事態を見物していたカメレオン。
「アッハッハハハハ! 成功です。成功ですよト=モさま。そして良くやりましたよ、チェルシー」
離れた場所で顛末を確認したウサンバラだった。
「さて、すぐに獣神が復活するかもしれません。こんな危険な地からはとっとと退散しましょう」
ニヤニヤと笑うウサンバラが背を向けて歩き出す。
「ト=モさま、実験は成功です。あの魔女から採取した細胞を使う事で、姫神因子を備えた人造人間を生み出すことが出来ました。これで」
おぞましい笑みが顔中に広がる。
「これで姫神を量産する〈ハイエルフ計画〉が完成しましょう」
人知れず、カメレオン族の盗賊はこの街を後にした。
その日の夕方、ハイランド中に黒い雨が降りだした。




