338 ながされてハイランド
目の前を流れる川の名前をシオリは知らない。
それなりの大きな川で、シオリの知識に照らし合わせれば、東京の東側を流れる隅田川ぐらいはある。
隅田川のようにコンクリートでしっかりと堤防が作られているわけではないが、ところどころ石を積み上げて川縁を固めており、水害対策も施されているようだ。
「よかった。誰も来ない秘境とかじゃないみたい」
地底湖で濁流に飲み込まれながらも奇跡的にこの場所に流れ着いた。
おそらく直前に口にした、あの空気豆のおかげだと思う。
それでも気を失い、ここに流れ着くまでどれほどの時間を要したかは皆目見当がつかない。
水の流れは穏やかだが、人の手を加える必要があるほどには危険な川なのだろう。
助かったのは奇跡なのかもしれない。
しかしシオリの心は川の流れほどに穏やかではいられなかった。
驚いたことにゼイムスも同様に流れ着き、倒れていたのだ。
意識を失ったままのゼイムスをどうにか引き上げ、傷口を確かめた。
背中から腹部を剣が貫通してできた大きな傷口がそのままだった。
できる限りの治癒術技を施し、なんとか傷口を塞ぐことはできたのだが、一命を取留めたゼイムスは目覚めるとそれまでとまるで別人のようだった。
自信に満ちた笑みも、愚昧に対する憤怒の形相も、感情というものを表には出さず、ただひたすらに自我のない人形のようであった。
何かを問いかけてみても「あー」とか「うー」とかそればかり。
コミュニケーションを計ることは諦めざるを得なかった。
「どうしたらいいんだろう。みんなのところに戻りたい」
近くに雑木林があり、人の気配がないことを確かめると、シオリはゼイムスを大木の幹に寄りかからせ、周囲を巡ってみた。
しばらく林を歩くと視界が開け、川を渡る為の小さな石造りの橋が架かっているのを見つけた。
その石橋から続く整備された道の先に見知った街が見える。
天空へと伸びる白亜の尖塔群。
「あそこ、カレドニアの街だ! よかった」
異世界で迷子にならずに済みそうだった。
すぐに駆けだそうとして立ち止まる。
こんな所にあの状態のゼイムスを放っておくのも気が引ける。
敵、ではあるだろうけれど、人道的に現代日本人のシオリには見殺すことは出来なかった。
もと来た道を引き返し、ゼイムスの元へと向かう。
とにもかくにも彼を連れて街へと戻ることが先決だ。
「とにかくダンテ先生に診てもらわないと。私じゃどうしたらいいかわかんないよ」
相変わらず人形のように大人しいゼイムスを見てシオリは途方に暮れる。
「さ、帰ろう」
そう思ったがシオリはその考えに迷いだした。
このゼイムスを連れて街へ行き、人前に出ればすごく目立つことだろう。
街ではゼイムスの命を狙っていた連中がまだ探し回っていてもおかしくない。
いや、もしかしたら地底湖とこの川が繋がっていることを知っていて、もうすぐそこまで追ってきているかもしれない。
もし戦闘になったら、神器を持たないシオリひとりで立ち向かえるほどの勇気はない。
「せめて誰かに連絡できれば……もう、なんでスマホないの!」
判断が下せないままズルズルと時間ばかりが過ぎていく。
ザッザッザッ……
「ッ!」
その時近くで草むらを踏む足音が聞こえた。
思わずシオリはゼイムスの頭を押さえ身をすくめる。
「ギッ」
「シッ! 静かにして。見つかっちゃう……」
(誰だろう? いい人かな)
たまたま通りかかった優しい旅人や商人などではないだろうか。
淡い期待を抱きつつ耳を澄まし様子を探る。
しかしその期待は裏切られたようだ。
小さく、カチャカチャ、と金属が重なり、こすれ合う音が聞こえた。
それは鎧か、もしくは腰に吊るした剣の立てる音だとシオリは思った。
別にこの世界では珍しくも違法でもないが、ゼイムスを追う者が武器を持っていることは確実なのだから、この音の主も油断ならないと考えるべきだ。
そもそも相手はあのトーン皇子だった。
あの場にいたのは正規兵だとも言っていたのだから、この場に誰が現れても安心はできない。
シオリは途端に恐怖でガタガタと震え始めた。
強く目を閉じしゃがみ込む。
異世界に来て、これほどまでに心細いと思ったことはない。
もっと直接危険な目に遭ったこともある。
囚われの身にもなった。
でもいずれも打開策や打算が立っていた。
しかし今は違う。
自分の身を護る術は何もない。
見境のない暴力に立ち向かえるだけの材料が見当たらなかった。
(こわい……おねがい……とりあえず今はどっか行って!)
ザッザッザッザ、ガサッ!
「ッッッ!」
心臓が飛び出そうだった。
悲鳴を上げなかったのではない。
声が出なかったのだ。
目を瞑るシオリは明らかに何者かに発見されてしまったことを理解していた。
(どうしようッ! 逃げなきゃッ)
手首をガシッ、と掴まれた。
驚いて目を開けてしまう。
「やっぱりシオリ殿だったか! 見つけるのが遅くなって済まなかったな」
そう言ってこちらの顔を覗き込み、満面の笑みを浮かべているのが、仲間であり、無神経で剣術オタのカエル族、ウシツノなのだとわかった瞬間、シオリは腰が抜けるほど安堵してしまった。




