330 しんじる心
鳴り止まない拍手と歓声に応えながら、ゼイムスは聴衆の前から退いた。
裏へまわり何台も並ぶ馬車のうちの一台に乗り込むと、天井をノックし御者に発車を促す。
馬車が静かに滑り出す。
それに追随するように他の馬車も次々に方々へと発進する。
大層な数の家来で持って仰々しく行進することはせず、複数台に分かれて移動をカモフラージュする。
ある程度の人海戦術を用いれば追跡は可能だが、ゼイムスにもコソコソする気はなかったのでそれで構わないのだろう。
王族と言えど長いこと盗賊として過ごした性分からか、仰々しい守備よりも煙に巻く護身を好んだ。
ゼイムスを乗せた馬車はやがて貴族の館が集まる地区へと入った。
時勢がら、あまり外を出歩く者はいない。
巡回の衛兵と各地の屋敷前に立つ門兵ぐらいだった。
馬車は少し古めの外観を持つある屋敷の敷地内へと入った。
ここは王城とは別にゼイムスが用意した、いわばセーフティハウスのひとつだった。
ゼイムスは降車すると三階にある自室へと向かった。
人払いをし、ひとりになると、崩れ落ちるように椅子に腰かけ、大きく息を吐き出した。
少しの間、身動ぎもせずボ~ッとする。
天井に描かれた絵も、壁に掛けられた絵画も、彼の興味を惹くことはない。
窓からこぼれ射す光が赤く暗くなる。
灯りをともしていないままの部屋は黄昏に包まれ始めていた。
「クッククク、なんとまあ、滑稽な」
ようやくして声が出た。
額に手を当て笑いを噛み殺している。
「はぁ、奇跡ね。そんなもの、あるならこの目で見てみたいものだ」
そう言ってまとった外套の内側に手を入れる。
ゴト、と目の前の机に懐からとり出したパンドゥラの箱を置く。
鈍く、青く輝くその箱を見つめていると、知らず吸い込まれそうな気分になった。
「開けてみるか……」
不意にそんな気持ちが沸き起こった。。
今までそんな気にはならなかった。
伝説なら知っている。
この箱は〈姫神〉にしか開けられない。
中には恐ろしい〈災厄〉が詰まっている。
自分には開けられないことも知っている。
だが多くの愚民はそんな真実を知らない。
箱は奇跡をもたらすという荒唐無稽なおとぎ話を信じている。
人は信じたいものを優先して信じるのだ。
愚かしいと彼は思う。
信じるという事そのものが他者への依存にすぎないのだと。
あえて信じるのであれば、それは他者ではなく自身であるべきだ。
そして自身を信じられるのであれば何も躊躇することはない。
やるか、やらぬか、だ。
その箱をじっと見つめていると部屋の扉がノックされた。
「誰だ? 私は忙しい。今はひとりにしてくれ」
「あなたに会いたいという者を連れてきた」
「その声はエユペイか。誰だ?」
「ご婦人だ」
エユペイは盗賊都市マラガで名を馳せた殺し屋だ。
今はゼイムスが大金を払い護衛を任せている。
彼はゼイムスが耳を傾ける価値のある者、と判断する貴重な存在でもあった。
「わかった。お通ししろ」
ドアノブが回転する。
客人が入室する直前、ゼイムスは一口だけ酒をあおった。
マラガ産のトウモロコシを使った安ものの蒸留酒だが、どんな高級ワインよりも口に合った。
ヒョロリとした体格のエユペイが連れてきたのは確かに女だった。
粗末なローブにフードを目深に被っているが、背筋はピンと伸び、どことなく気品を感じさせる。
すぐにピンと来た。
「お前は、ライシカ……」
フードをはずし現れた顔はまさしくライシカであった。
「まさかここにやって来るとは」
「死んだと思ったか?」
「いや……だが失脚はしたのだろうと思っていた」
ライシカは勧められた椅子に腰掛けながら、「その通りです」と小さく答えた。
その背後でエユペイは部屋を出て扉を閉める。
彼の事だ。気配を感じなくても声を出せば聞こえる位置にいるのだろう。
部屋を出たという事は、この女に危険を感じていないという事だ。
「お酒、わたくしにもいただけるかしら」
直前のゼイムスを見たのだろうか。
「あなたの口には合わない」
構わずライシカはゼイムスの酒杯を奪い取り一気に飲み干す。
「ふぅ、本当ね。まるでドブ水」
顔を紅潮させながらグラスをゼイムスへと押しやる。
「……来るはずの連絡役は来ず、代わりに現れた赤い鳥の騎士に全て台無しにされました」
「赤い鳥の騎士」
その存在はゼイムスにも覚えがあった。
「長年を費やしたわたくしの夢も、一瞬にして潰えたのです」
「夢……」
「そう、夢。あと一歩と片手が届いているそなたには、わたくしの哀しみなど理解できぬでしょう」
夢か……と彼は胸中で反芻させる。
「そうかもな。だが意味は違う」
「意味?」
「オレは夢など見ない。五つの歳で夢を見ることを諦めた。そしてこの今は未来も捨てている」
意味を汲み取ろうとライシカはゼイムスの目を見つめた。
そこには光の差さない、まっ暗い双眸があった。
「あなたはオレに腹を立てているのだろう。あなたの安否も確認せず、妹を使って計画を変更したことに」
「そうです」
「だが状況が変わった。結果的に翡翠の星騎士団の壊滅はあなたを助けることとなった」
「わたくしはエスメラルダが欲しいのです」
「それはもう叶わない。それが理解できたから、ここへ来たのだろう?」
「……」
ライシカはいつの間にか強く握りしめていた拳の力を弛めた。
「その通りです」
「残念だったな。だがそう悲嘆にくれることもない。おかげでオレの本当の目的を打ち明けることができる」
「本当の目的? ハイランドの王位に就くことではないのか?」
「クク、まさかな! こんな死に体の国、タダでもいらんよ」
「なッ」
「オレの目的は復讐だ。それも誰かに対してではない。この国、いや、運命に対しての復讐だ」




