234 愚昧な獣神ガトゥリン
「そうか。奴隷解放戦士……か。フフッ」
ヒガからアユミとアマンというカエル族の若者が、盗賊ギルドからさらわれた娘たちを救出していたと聞かされ、タイランは嬉しくなってしまった。
「強く生きていてくれたのだな、アユミ」
クァックジャードに保護されたアユミが暴走し、行方知れずになってから九ケ月以上たつ。
そのアユミ捜索の任務中にシオリ達と出会い、彼らを見捨てておけずここまで来てしまった。
アユミを救うためにシオリを見捨てるなどという事はできない。
その一念であった。
そしてアマン。
ウシツノとアカメがよく話していた彼らの仲間の事であろう。
ゴズ連山で別れた以降の足取りが、思わぬところで掴めた。
「早くあいつらに教えてやらんとな」
タイランとシオリを乗せた武装馬車は草原を横切るように走る。
そこは街道ではなく見渡す限りの草の海。
馬車の小窓を開けて外を確認したタイランは、操縦席に座るブリアードに目的地を訊ねた。
「ネアンの街です。我々はハイランド北部の港町から上陸後、アヴィモアの街でこの馬車を仕立て、そしてここまで南下してまいりました」
ネアンの街までこの馬車ならもう数時間といったところか。
城塞都市であるネアンはハイランド屈指の防衛力を誇る街である。
領主のオロシ・カナン伯爵は国内でも有力な貴族のひとりであるが、実は現国王ブロッソ・ウォーレンスには批判的な人物としても有名であった。
「実はこの馬車を仕立てるのに手間取りましたが、それには理由があったのです」
「理由?」
「ご存じでしょうか。蒼狼渓谷という場所には獰猛な巨獣バル・カーンが巣食っておりまして」
ハイランドと南のエスメラルダの間に広く横たわるこの峡谷は、長らく旅人の往来を危険なものにしてしまっていた。
「そのための武装馬車なのであります」
「なるほど」
娘ばかりと貴婦人を連れてでは普通の馬車では心許ない。
護衛を雇うにしても真に信頼できる者でなくてはかえって危険がいや増すばかりか。
「ただでさえ旅慣れない娘たちのようだ。大変な旅路であると察する」
「ええ。予定ではもう少し余裕を持った旅程を組むつもりでもありましたが、お聞き及びですか? 先日、翡翠の星騎士団が国境を超え、最南のローズマーキーの街へ攻め入ったそうです」
タイランは知らなかった。
この数日はシオリを抱えながら、昼は身を隠し夜に移動を繰り返していたためだ。
「なるほど。それで追手がかからなかったのか」
「なんです?」
「いや、こっちの話だ。翡翠の星騎士団とはあなた方の国の騎士団でしたな」
「そうです。情勢はよくわかりませんが、上手く行けばヒガ様と娘たちを保護してもらえる。それで急ぎやって来た次第であります」
戦端を開こうとしている部隊に保護してもらえるだろうか。
しかしヒガ・エンジは世界的な商会の頭首であるからして、エスメラルダとしても無下には扱わないだろう。
「事情は分かった。それでは私とシオリはネアンの街までという事で構わないだろうか」
「そうですね……」
それから数時間、遠くに無事、ネアンの街並みが見えてきた。
相変わらずシオリは小康状態が続き、シーナの甲斐甲斐しい看病も回復には至らなかった。
「ありがとう、シーナ殿。あとは街の医者に診てもらうとするよ」
「はい」
「むっ! ヒガ様、街の様子が変です」
ブリアードの声にヒガとタイランが寄る。
「あれは! 街の外に大勢の避難民か? なにやら騒動が起きているようだが」
「あれを見てください! あれはバル・カーンですよ」
遠目にわかるのは蒼い毛並みの巨獣が逃げ惑う人々に襲い掛かる様子だった。
「なんという数だ! 群れで人々を襲っている。しかし何故このような場所まで」
「ブリアード、助けなくては」
「しかしヒガ様、あの入り乱れようではクロスボウの連射はできません。人々にも犠牲が出ます」
だがそんなブリアードの発言もむなしく、街から現れた弓兵部隊が構わず矢の雨を降らし始める。
それを機にバル・カーンの群れは撤退を始めた。
「撤退するようです」
「随分と統制が執れていると思わぬか? 獣のくせに、まるで指揮官がいるかのようだ」
「止めてッ! ブリアード」
ヒガの命令に馬車は急停止する。
「どうなさいましたヒガ様」
「あれは……」
ヒガの目はバル・カーンの群れを操る不気味な集団を捕えていた。
体格は様々だが、全身をすっぽりと覆った不気味な衣服をまとった集団が、獣の群れを追い立てるように共に退却していく。
「あの集団……あれもエスメラルダの手の者か?」
「いえ、あのような連中、聞いたこともありません」
ブリアードはそう答えたが、どうやらヒガには思い当たる節があるようだった。
「ランダメルダ教団……薄汚い獣使いどもです。……ああ、なんてこと。ハナイ……あなたの懸念が現実に……」
「ランダメルダ?」
タイランにも聞き覚えはなかった。
「ヒガ様? その教団とはなんでしょうか」
「……エスメラルダの辺境に隠れ潜む異教徒たちです。彼らは慈愛の女神サキュラに牙をむく、〈愚昧な獣神ガトゥリン〉を信奉しています」
「ガトゥリン? 聞きなれぬ神の名だ」
「そのはずです。世界には数多の神々がおわしますが、一般には善き神の名のみが浸透するよう教えられます」
例えば〈正義の鉄槌神ムーダン〉や〈慈愛の女神サキュラ〉。
「ではその獣神とは邪悪な神の名」
「そうです。彼らの教義は獣神ガトゥリンの下僕となる獰猛な獣を多く野に放つこと」
「なんともまあ迷惑な……」
「当然エスメラルダは彼らの活動を監視し、あるいは阻害してまいりました。ですが……」
一呼吸入れてヒガは語りだす。
「大司教ライシカはそんなランダメルダ教団と共謀し、あの蒼狼渓谷の獣どもを従えるよう画策していると」
「それは真実ですか?」
「私の最も信頼するヒト、ハナイ・サリ司教がその事実を突き止めたと手紙で教えてくれました」
「その司教は今は?」
悲しそうな表情を見せながらヒガが首を振る。
「センリブ森林のエルフに誘拐されたと聞いています。それっきり行方は知れません」
「なんと……」
「しかしそれでは、大司教はその教団と結託し、そして今ハイランドへ侵攻しているというのですか」
ブリアードの確認にタイランもヒガも答えられない。
だがその可能性は否定できなかった。
「この地にいる翡翠の星騎士団の連中も承知しているのでしょうか」
「今、騎士団を統べているのはナナという名の姫神だそうです」
「姫神!」
タイランの目が険しくなる。
「ハナイからの手紙によく彼女の事が書かれていました。まるで女神サキュラの遣わした御使いかのように、凛とした清廉な少女であると」
止まっていた馬車が動き出す。
「どのみち襲撃は収まったようです。まずは目の前のネアンに入りましょう。私たちには休息が必要です」
ブリアードの言葉に異論はなかった。
衝撃の事実が押し寄せてくるせいで軽い混乱状態にある。
一晩じっくり考えを巡らせる時間が欲しかった。
「それに、シオリの容態も気になるしな」
振り向いたタイランが驚きに目を見張った。
眠っていたシオリが目を覚まし、半身を起こしていたのである。
「シオリ」
「…………」
だが様子がおかしい。
うつろな目には光が灯っておらず、まるで夢遊病者のようだ。
「シオリ?」
「……箱」
「箱?」
「パンドゥラの箱を……」
そして再び眠りに落ちた。




