177 王位継承者
ハイランドの建国はおよそ千年前。
北の大地より流れ着いた流浪の民〈テオ族〉が始まりだと言われている。
テオ族の出自については謎が多い。
ごく少数の人間で移動を繰り返していたこと、不思議な力を持つ巫女の存在が中心であったという事。
そしてそのテオ族が持つ〈パンドゥラの箱〉と呼ばれる遺物が、後に様々な奇跡を生み出したと言われている事。
――パンドゥラの箱
曰く、持つ者に祝福を与え、あらゆる奇跡を生じさせる。
しかし、使い方を誤れば、箱の中より〈災厄〉が現れ、世界を蝕む悪魔となるであろう。
そのような古い伝承がこの国には残されているのである。
事実、テオ族は箱の奇跡を用いながら、ハイランド建国の礎を築いたとされている。
そしてその後、箱の強大な力を恐れた彼らは、箱を信頼できる者たちに預けたという。
彼らは箱を何処かに封印し、限られた者にのみ、口伝で伝え続けた。
時は流れ、今もこの国のどこかで、箱は眠り続けているという――
これはハイランドの者なら誰もが知るおとぎ話。
実際に箱を見た者はいない。
〈箱〉と表現されるが、それは何かの比喩だという者もいる。
〈災厄〉と表現されるが、それは人間の持つ貪欲さを抑える戒めだと説く者もいる。
詳細はわからない。
だが、箱はこの国の者にとっては力の象徴に等しく、心根に深く根付く訓戒として語られるのである。
しかし一部の者にとっては……
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「箱はケンタウロス族が封印したのだ」
「まことでございますか」
チェルシーの言にテーブルの向かい側に座る老齢の武人が聞き返す。
ハイランド王国の首都、〈聖都カレドニア〉の中心に位置する王城ノーサンブリア。
そびえたつ十本の白い尖塔が、ひとまとまりに巨大な一本の塔に見える。
美しくはあるが、どこか要塞に近い印象を受ける城である。
その城の三番目に高い塔の中腹に、チェルシーとマユミにあてがわれた部屋があった。
その部屋でチェルシーが出迎えたのが、今目の前にいる武人である。
「確かだ。その証拠に私の策にハマったベルジャンが動き出した」
「ケンタウロスの若き頭領……どのような策でございますか」
武人が尋ねるとチェルシーはフフッと小さくほくそ笑む。
「冒険者を雇い運ばせたのだ。〈パンドゥラの箱〉を見つけたと吹聴させながらな」
「は、はぁ……」
武人は真意が飲み込めていない様子だが、構わずチェルシーは続ける。
「封印されたままのはずである〈箱〉を見つけたと言いふらす者がいたとして、それを知った場合、隠した本人はどうすると思う」
「ほ、本当に持ち出されてしまったのか、確認しとうございます……」
「その通りだ」
読み間違えていなかったことに武人はホッと胸をなでおろす。
「そして動き出したのがベルジャン率いるケンタウロスの戦士どもであった」
「なるほど」
「単細胞極まる。こうもあっさり尻尾を出すとはな」
「我がハイランドとケンタウロス族の〈盟約〉が途切れてすでに三十年。奴らも焦れておったのでしょう」
「擁護せずにはおれないか」
「あ、いやっ! これは失礼をば……」
武人の顔に冷や汗が浮く。
「いや、よいのだ。タルボット卿」
そっとチェルシーは武人の手に自分の手を添える。
「卿は我が父、そして祖父の時代よりこのハイランドに尽くしてこられた御仁だ。ケンタウロス族とは最強の騎兵隊として、この平原を駆っていた。それは卿にとって大切な、忘れ得ぬ誇りであろう。私こそ、発言が軽率であった」
「そ、そのようなこと……ゼイムス様」
「よすのだ。今の私はチェルシー。魔道具を商う旅の商人の名だ」
「ク……クゥ……おいたわしや」
「この国の大将軍に涙されるのだ。私は果報者だよ」
まっすぐ見つめてくるチェルシーにひれ伏し、老齢の武人は声を絞り出す。
「このジョン・タルボット。恥ずかしながら、あなた様が我が前にお見えになるまでの数十年、この身を簒奪者に捧げる愚行を犯し続けておりました。しかし! あなた様は生きておいでであった!」
「うむ」
「先王である聖賢王シュテイン様のご長男レンベルグ様の遺児、ゼイムス……いえ、チェルシー様。あなた様こそ、このハイランドの正当なる王位継承者」
大将軍ジョン・タルボットはますます平伏し言上を垂れる。
「簒奪者ブロッソより玉座を取り戻すよう、粉骨砕身いたします」
「感謝する」
チェルシーがタルボットの顔を上げさせる。
「そのためにも必要なのだ。パンドゥラの箱がな」
「そのような伝説などに縋らずとも、名乗り上げれば味方する諸侯はおりましょう。すぐに数千、いや数万の兵を集めてご覧に入れます」
「それでは足りぬのだ。今の私が上に立つには、全ての臣、全ての民が納得する象徴を持つ必要がある」
「それが、パンドゥラの箱……でございまするか」
「さしあたってはこの伝説を蘇らせるのだ。国盗りは、それで決まる。兵とて民だ。無駄に血は流させんよ」
「お、おお……我が主よ」
テラスに出て眼下に街を望む。
その後ろ姿は夕日に染まり、背後に控えたタルボットからは眩しく輪郭も朧気であった。
それが故に、彼にはチェルシーと名を偽りながら、己の正当性を貫こうとするこの若者こそが、腐敗し、弱体化したハイランドを救う救世主と見えるのだった。
「是非にあらず」
タルボットの胸中にすでに迷いはなかった。
己の生涯を賭した最後の戦が始まっていたのだ。




