169 古代の書物
夕日に赤く染まる草原を背に、岩場で焚かれた炎を眺める。
今夜の寝床と決めた地で、ウシツノはお茶を啜りながら先程の続きを口にする。
「シオリ殿の服の傷みもそうだがな、オレが言った、だいぶたった、は時間のことでもあるんだ」
「時間ですか?」
「ああ。ようやくハイランドに入ったが、ここに着くまで結構かかったよな」
アカメが頷く。
「ええ。年が変わりましたからね。すでに王の月ですよ」
「水仙郷を出てから二ヶ月以上過ぎてるんだな」
「少しばかりキボシ様に長く付き合いすぎましたかね」
キボシとは、水精の棲む〈水仙郷〉の近くに居を構える、巨大なカメ族の老賢者である。
その巨体は十メートルを超え、背中の甲羅には土が盛り、幾本もの樹木まで生えているのである。
ちょっとした動く島とも言える容貌で、本人曰く、なんともうすぐ一万歳の誕生日を迎えるらしい。
長く生きているだけに知識も豊富で、それゆえ水精たちからは賢者と慕われている。
ある夜、腹を空かせたキボシが巨大アザラシをがっついたところ、そのアザラシの牙が喉に刺さってしまい、あまりの痛みに我を失うほど発狂してしまった。
暴れ狂ったキボシは水仙郷にまで迫り来たのだが、見事居合わせたシオリの機転で牙を抜き、そして落ち着きを取り戻したという経緯があった。
「結局、秋の間はずっと水仙郷とキボシ様の庵にいたことになりますねぇ」
アカメはお茶を啜りつつ、膝の上に開いた分厚い書物のページを繰りながら相槌を打つ。
「でもおかげで美味しい秋の味覚をたくさん頂けました」
シオリが恍惚とした表情で答える。
精霊である水精には食事をとる習慣がない。
そのため味付けなどなく、ただただ海草が並べられているだけという無味乾燥な食事に嫌気がさしていた一行だが、さすが賢者とでもいおうか。キボシには料理の知識もあり、またキボシの住居周辺には栗や柿といった秋の果物から、海に面した断崖にあるため、秋刀魚などが採れるのだった。
それらの味を思い出しているのだろうか。目を閉じたシオリの顔はうっとりとしている。
「二ヶ月以上も前に食べたものをいまだに反芻しているのか?」
少し呆れ気味にウシツノがぼやく。
「仕方ありませんよ。旅の間は粗食となりますからね」
開いた本から目を上げずにアカメが擁護する。
「さっきから必死になって読んでるその本、キボシ様に借りた物だろう? 読めるようになったのか?」
「スラスラと、とはいきませんがね。何とか少しずつ解読しているのですよ」
キボシとの邂逅で一番得をしたのはアカメかもしれない。
キボシは万を生きた知識を有しているが、その蔵書の数も見事なものであった。
巨大なカメ族が人間が抱え込める程度の大きさの本を読むことができるのか?
シオリやウシツノの疑問にキボシは笑いながら、昔は人間や亜人との交流も盛んであったこと、その者たちが読み聞かせてくれたことを教えてくれた。
だがそれももう何百年も昔のこと。
今となってはこの本たちも、もう誰にも読まれることもなくなったのだと、寂しそうに語っていた。
本を読むのに目がないアカメにとっては、知識欲の吹き出した数日間であった。
手当たり次第に読みふけったのだが、そのジャンルは多岐にわたった。
「とはいえ今後に役立ちそうなものを選びましたがね」
武術、兵法、魔術、占星術、錬金術から政治、地理、生物、植物、そして神話、伝承の類。
「ただ、〈姫神〉に関してだけはどこにも記述が見つかりませんでしたね」
素晴らしい蔵書の山にもシオリに関する具体的なことはほとんどわからずじまいであった。
「で、借りたその本はなんなんだ? 解読に手こずるほど難しい本なのか」
「ええ、キボシ様が勧めてくれたのですが。見たこともない文字で書かれているのですよ」
それは分厚く、傷みの激しい古書であった。
いつの時代に誰の手で書かれたものかも定かではない。
「キボシ様曰く、この本は原初に書かれた古代書であると。この世界の成り立ちについて書かれているとおっしゃってました」
「キボシ様は読めたの?」
「いいえ、シオリさん。あの賢者にも読めないそうですよ」
「おいおい。それ本当に言われたようなことが書かれた本なのか? どう信じろっていうのだ」
「ウシツノ殿の仰りようも最もですが、キボシ様は信じて疑わない様子でした。ですが、この本で確かなこともあります」
ウシツノもシオリもタイランも、アカメの次の言葉を待つ。
「この本を書いたのは〈大いなる存在〉と呼ばれたモノだそうです。そしてこの文字は、恐らくそういった高次元の存在が使ったであろう文字。キボシ様は〈神の御言葉〉と呼んでいましたが」
「たいそうな話だが、どうにも胡散臭いな。アカメよ、お前はそれを信じるのか?」
「信じるも何も、今こうして目の前に知らぬ文字で書かれた古書があるのです。解読する以外にないではないですか」
そう言いつつアカメが最初のページと次のページを行ったり来たりしている。
「どうやって解読するの? 辞書とかあるの?」
「ありませんよ。とりあえずは近しいと思われる他の古代文字や象形文字と比較したりですね、それとこの最初に書かれた四行です」
アカメが一ページ目を開き皆に見せる。
「全く読めぬな。その四行……」
「これは推測ですが、恐らくこう書いてあります」
ん、ん、と喉の調子を改めて、アカメが静かに語りだす。
――いつ、始まるかは、ようとして知れず。
――七人の姫神、異界よりまかり越す。
――その力は超常なり。
――されど七人、弱きものなり。
少しの間を開けて、声を発したのは、それまで沈黙していたタイランであった。
「それは姫神伝承について最初に言われる一文だな」
「そうです。皆さん覚えてますでしょうか。我々がゴズ連山であの魔女と再会した時のこと」
「再会? ああ、レイ殿をさらわれた時のことか」
ウシツノの発言に目を瞑るタイラン。それは彼にとって苦い思い出であった。
「あの時、魔女に姫神についての基礎を教えてもらいました。それがこの四行詩です。魔女は姫神について書かれた古文書の最初に、この詩が書かれていると言っていました。さらに」
「さらに?」
「魔女はこう言いました。姫神は、大いなる存在が遣わす、と」
「あ、それって」
「そうですシオリさん。この本を書いたとされるモノです」
全員がこの傷んだ古書を注目する。
「そんなに、重要な本なの……」
「原書であるかどうか。写本の可能性も十分あります。ですが、大きな手掛かりです」
「しかし読めぬのだろう」
「手掛かりはあります。この四行が私の推測通りなら、それを基に解読することもできるかもしれない」
「そうなのか!」
ウシツノの目が尊敬の色をたたえる。
「まあ、どれほどの時間かかるかはわかりませんが。せめて手助けしてくれる知恵者がいれば……ああ、こんな時にスイフト先生がいてくれたら」
「スイフト先生?」
「昔通った学院の教師です。専攻は古代史でした。今はどこにいるのやら。ご健在だとよいのですが」
すっかりと夜の帳がおり、焚火の火も弱くなっていた。
シオリが小さく欠伸をする。
「少し眠ろう。明日には街に着けるはずだ」
タイランの一言で今夜の旅も終わりを迎えた。
最初の見張りにはアカメが名乗り出た。
もう少し、この本とにらめっこをしていたかったのだ。
「ハイランド周辺は今、荒れていると聞きます。この本をじっくりと読めるのは、今夜が最後かもしれませんからね」
誰に聞かれるでもなく、冷めたお茶を啜りながらアカメは一人、読書に熱中するのだった。




