110 アユミの咆哮
「アユミ様ッ」
「ブリアードさん!」
アユミとブリアードの声が同時に上がった。
部屋の中には娘たちと、それをかばうように立つウルフマンの老執事ブリアードがいた。
明るいブラウンの体毛も、いつもシュッとしてた長めの口髭も、ビシッと着こなしていた燕尾服も、煤や返り血で黒ずみ汚れ切っていた。
ここでひとり、娘たちを守り孤軍奮闘していたのが窺がえた。
両手に鉄の短い棒状の武器を持っている。
先端の近く、垂直に握りが付いた「ト」の形をしており、そこを起点に回転を加えて打撃や防御に利用できるトンファーという武器だと、アユミは以前に教えてもらったことを思い出した。
「紅姫まで……」
ネダがうんざりした様子でアユミに振り返る。
「ブリアードさん! ヒガさんは?」
「わかりません……しかし我が主には警護の兵が付いております。無事脱出できていれば……」
「アハハハ! それは無理よ。この屋敷の周囲はギルドの腕利きで包囲している。周囲の住人達にも手を出させないよう脅してある。なんなら街の衛兵ですら駆けつけるかも怪しいものよ」
「なっ……」
ネダの高笑いにブリアードとアユミは絶句した。
それではこの街に味方は誰もいないのではないか?
盗賊ギルドの脅しがまかり通り、意にそぐわない者は派手に見せしめとする。
恐怖と暴力で抑え込もうとする街が正しい姿のはずがない。
「そんなの許せない!」
アユミの怒声にネダがなお笑う。
「許すとか許さないとかどうでもいいのよ。この街のルールはたったひとつ。盗賊ギルドに逆らうな」
ネダが懐から針を取り出すとブリアードに向かい投擲する。
「クッ」
咄嗟に両手のトンファーで飛んできた針を弾いた。
だが弾かれた針は悲運にもブリアードのそばで怯えていた娘の眉間に突き立った。
「えっ」
一瞬にしてアユミの目の前でその娘が倒れた。
助け起こしたブリアードが悲嘆に暮れて首を横に振る。
突き立った太い針は頭蓋骨を貫通し脳にまで至っていた。
「あらら、殺しちゃった。チェルシー様に怒られちゃうかも。娼館で働かせる奴隷が減っちゃったって」
「ネダァッ」
アユミの声は怒りで空気を引き裂いた。
同時に部屋の壁を壊してアユミの手元へ飛んできたのは刃渡り五〇センチほど、赤く透き通る刃を持った斧であった。
深紅の一撃クリムゾン・スマッシュは、聖バーナードが欲していた紛う事なき紅姫の神器である。
「盗賊ギルドをあたしは許さない!」
「フン、多少の炎が使える程度でなんだと言うの! 姫神がどの程度か試してやるわ!」
ネダと五匹のオークが一斉にアユミに飛び掛かった。
猛烈なオークの攻撃と、合間をかいくぐって飛来するネダの複数の針がアユミを襲う。
「ガアァァッッッ」
アユミによる獣の咆哮だった。
目が燃え上がり、横薙ぎに一閃させた赤い斧が空気を震撼させた。
アユミの前方一帯に業火の嵐が渦巻く。
飛び掛かったオークが炎に飲まれ、ネダの針も一瞬で焼滅した。
業火はその一瞬で消え去ったが、灼熱の熱波はなお容赦なくネダに降り注いだ。
「ぐ、ぎゃああ!」
直に炎を浴びたわけではない。
だが業火の残り火ともいえる灼熱の熱波を浴びただけで、ネダの露出した皮膚は火傷を負い、瞬く間に赤黒く腫れあがった。
同時にまとっていた夜着にも着火し全身が火に包まれる。
「や、いや! いぎゃああああああああああ」
焦熱による激痛に喘ぎ、ネダは部屋を飛び出すと一目散に逃げ出した。
炎に焼かれ周囲が見えず、壁という壁に体をぶつけながら水を求めて走り回った。
その様をアユミは見ていられなかった。
自らの炎の力が招いたこととはいえ、あまりにも凄惨な光景だった。
ネダのヒトとは思えない絶叫が耳に残る。
部屋にいたオークは全滅していた。
「あぁ」
アユミは力が抜けてしまい、その場に膝をついてうなだれた。




