贅沢な悩み
東京、駅のデパート、おいしいカフェごはん、おしゃれな雑貨屋さん。……掌サイズの黒猫のキーホルダー。
憧れていても手を伸ばせないものはたくさんある。全部やろうと思ったら両腕からこぼれ落ちてしまいそうなほどに。なのに実際は諦めてばかりだから、やりたい気持ちだけ積み重なって苦しくなる。
そのせいか、たまたま入った雑貨屋で、キーホルダー一つを衝動買いしてしまった。ぬいぐるみの黒猫が大きな伸びのポーズをしているやつ。
可愛い。即決だった。
家に帰って、灰色のリュックサックに付け、うきうきしながら眠りについた。
次の日、そのリュックサックを背負って美術館に行く。好みの展覧会の会期がもうそろそろ終わるから。一人でゆったりと美術鑑賞に勤しむのが私の趣味なのだ。
展覧会のテーマは「猫」。東洋西洋問わず、猫のイメージやモチーフにまつわる作品を集めたもので、作品総数は百を超えていた。昨今の猫ブームを受け、この手の展覧会は日本全国毎年どこかでやっている。
展覧会の充実した内容に大満足しながら帰りの地下鉄に乗った。
スマホで今晩のおかずのレシピを確認していたが、ふと正面の男性を見る。
一目で、あ、好みの顔だ。そう思った。
線の細い顔立ちに、すらりと高そうな背。黒のコートを着ているのが本当にかっこよくて。同世代か、少し上ぐらいだろうか。
そっと観察しつつ、いい気分で最寄りの駅で降りた。
しばらく経って、駅のデパートのバレンタインフェアに参戦した、試食目当てで。大学院進学を控えた身なので、一箱三千円のチョコなんでとても買えるものじゃないから。
試食のチョコはどれもとても美味しかった。いずれ働き始めたら心ゆくまで購入しようと思う。
残念だったのは、普通の平日の昼間なら人も少ないだろうと見込んできたのに、有名なパティシエが入店するということで、そのサイン目当てにお客さんもたくさんいたこと。テレビで見るような人たちを生で見られたのは嬉しかったけれど。
そうだ、またあの人を見た。本当に偶然に。ブースの中のチョコレートを熱心に眺めていた。その真剣な視線にくらくらとしてしまう。すぐ後ろを通りがかったけれど、声をかけるのも失礼だからとやめた。
ダメ元で声をかければよかったかも。あとで後悔した。
また別の日に。都市部に珍しく雪が積もった時があって、大学への道のりをえっちらおっちらと進んでいた時だった。
道路の上で派手に転んだ。めちゃくちゃ痛かった。周囲の視線も痛かった。
立ち上がった私は今度こそ慎重に歩き出した。歩幅は小さく、足の全体をべったりとつけるように。
「あの、落としましたよ」
声をかけられて、ずいと差し出されたのは黒猫のキーホルダーだ。転んだ拍子にリュックサックから落ちてしまったらしい。
「ありがとうございます」
受け取って、相手の顔を見上げた時、私は舞い上がった。出会ったのはもう三度目。ここまできたら運命じゃないのって。
だからついつい。うっかりと。
「……好きです」
なんて、頭のゆだった爆弾発言をかましてしまったわけだ。口が軽くてちょろい人間に思われてそう。第一、絶対、相手も困っているやつじゃないか。
ああっ、もう! 私の馬鹿野郎!
「ごめんなさい!」
結局、返事も聞かないうちに逃げた。ああ、なんという体たらく。高校まで女子校で、今までサークルにも入らず、女ばかりの環境にいたからこうなる。
逃げる方がよほど「馬鹿野郎」と気づいたのは、大学の研究室に着いた時だった。逃げた時にもまたすっ転んだから、ずきずきとお尻が痛んでいた。
人間、気が動転するとろくなことをしでかさない。今回の教訓だ。
それからはもう、忘れようと努めていて、実際に半分忘れかけていた。
そんな春のこと。四度目の出会いがあった。
「学部二年の古屋新です。これからこの研究室でお世話になります。よろしくお願いします」
研究室の新歓コンパの席で挨拶をした彼は、大人っぽく見えて年下だった。
私はくらくらする頭を押さえて、部屋の隅に縮こまった。とはいえ、私も研究室の皆に挨拶しないわけにはいかず。
「修士一年に上がりました、中園香枝子です。えーと、そうですね……」
なかなか舌が回らず、結局「今年もよろしくお願いします」と、言うのみで挨拶を終える。
コンパは立食形式だから、皆思い思いに談笑を楽しんでいる。もう研究室配属四年目にもなれば、在校生は皆知り合いだ。誰とでも話が弾んだ。
「香枝子さん」
そんな中、私に話しかけてくる二年生の猛者が現れた。件の古屋くん。さっきまで研究室の女の子たちと話をしていたと思ったのに。いきなり下の名前で呼ばれたからびっくりする。
「こんにちは、古屋くん」
「どうも。これからよろしくお願いします」
「うん。よろしくね」
私は平静を装った。
「古屋くんは何の研究がしたいと思ってるの?」
「色々まだ考え中です。でも源氏物語や伊勢物語に興味があります」
「中古文学の王道だね。うちの先生の専門も源氏物語だから色々話が聞けるといいね」
「ありがとうございます。香枝子さんのご専門は何ですか」
「私? 私は歴史物語かな。栄花物語を研究しているから」
「へぇ。栄花物語というと結構長いやつですよね」
「源氏物語も大概長いけどね。ただ、栄花物語自体は源氏物語とも文体はだいぶ近いものがあるし、なにかわからないことがあったらどんどん聞いてね。ほかの先輩も優しいから結構丁寧に教えてくれるよ。授業とか大変だろうけど、頑張ってね」
「はい」
古屋くんはステキな笑顔を見せてくれた。あぁ、本当に残念すぎる。これで研究室の後輩でなければもっとお近づきになりたかったのに。さすがに同じ研究室でどうこうなりたいとは思わないよ。
「ところで」
唐突に話題を変えようとする古屋くん。
「また会えるなんて、運命的ですよね」
「えっ。えーと、それは」
「黒猫のキーホルダー。覚えてますよね」
ほかに話を聞いている人がいるのに何を言い出すのやら、と全身に冷や汗をかく。なに、その意味ありげな顔は。
「俺、香枝子さんと付き合ってみたいです。以前、告白されたから、そういうことでいいですよね」
「そ、そういうこと……?」
「香枝子さんは俺の彼女ということで」
今、ちょっと信じがたい話が聞こえた気がする。誰が誰の何って。
「え、それはどういう……」
「すごく単純な話ですけど、香枝子さんに好きです、と言われてから、香枝子さんのことが気になって仕方がないんです。なので責任を取ってください。あと、俺、香枝子さんが年上でも構いませんし」
「いやいやいや。ちょっと待とう。ほら、同じ研究室だと色々やりにくいところも出てくるよ」
せめて別の研究室ならまだそこそこの距離感で付き合えただろうに、同じ研究室という時点で恋愛対象外になってしまう。
研究室は研究に専念するところで恋愛するところじゃないというのが私のモットーだ。公私混同しないという自信がない。顔に絶対出る。研究室で恋しているなんて、なんて罰当たりな。
生まれてこのかた、まったく縁のなかったチャンスが転がり込んできたのに、素直に喜べない。なぜ違う研究室を選ばなかったんだ、古屋くん……! そうしたらまた返事も変わっただろうに、あぁ、もったいない!
「なら香枝子さんは俺がほかの女の子と付き合っても黙って見ているだけなんですね。たしかに香枝子さんは奥手そうですよね。告白された時も顔が真っ赤になっていたし。今もそうですけど」
「い、いや。そんなことはないよ! これはたぶんお酒飲んだからだよ」
本当は嘘だけど。我が家系は基本酒はザル。
「なんか嘘っぽくないですか。俺、香枝子さんを今日見てきて、脈ありっぽいなと確信しましたが、違いましたか?」
案の定、だだ漏れていたらしい。頼むから突っ込まないでほしいとお願いしたい。
落ち着け、落ち着け。さぁ、ここはどこだ。私、なんと言っても先輩だから。ちゃんとしなくちゃいけない。後輩に翻弄されるようじゃ、まだまだ修行が足りない。
「古屋くん。一目見て、すぐにこの人はああいう人だってすぐにわかるようなのは、つまらないと思うんだよね。深く付き合っていくうちに薄皮が一枚一枚めくれていくように、そのたびにその人の新しい一面が見えていく。もっと深く知りたいと思わせる、より多層的な人の方が魅力的だよ。暴きたくなっちゃうから」
わかるかなぁ、このこだわり。まだわからないかなぁ。古屋くんの顔を伺いながら、きっぱりと言い切る。
「だからね、古屋くんは私という人間を全然わかっていないと思うよ」
最後まで言えた開放感は何物にも代え難く、私は話はこれで終わったものと思い込んだ。しかし、そんなことはなく。彼は去ろうとする私の袖を軽く引いた。振り返ると顔が真っ赤だった。
「どうしてくれるんですか。俺、完全に香枝子さんのことしか考えられなくなりました。責任とってくださいよ……」
「え、どうしたの、古屋くん。大丈夫? 酔った?」
「ある意味」
古屋くんは顔を覆っている。
「香枝子さんはずるいですよ」
「えっと、とりあえずごめんね。水でも飲む?」
「大丈夫です」
私はちょうどグラスの中身がなくなったので、オレンジジュースをもらいに行った。
「先輩と古屋くん、結構な長話でしたね」
「ああ、まあね」
「さっき話してたんですけど、古屋くんはやっぱり学年でもカッコいいって、評判らしいですよ。古屋くんを狙っている子もひそかにいるって話です」
「あー、たしかにリア充っぽいものね。お住まいは異世界なのかも」
「先輩は面白いですねー」
からからと後輩の女の子は笑う。
「私が見る限り、古屋くんは源氏物語での匂宮のイメージです。恵まれた環境で育った自信満々タイプ。私は若干影のある感じの薫の方が好きなんですけど。先輩はどうですか」
「えー、どうだろ。少なくとも髭黒大将は嫌いだなあ」
「なんでですか?」
「玉鬘を強引に妻にするところが。みんなが憧れた美女なのに、収まったところがむさ苦しいバツイチ子持ち男なんて、もったいなさすぎる」
「うわー、たしかに」
釣り合いってあるんだろう。
カッコいい人と付き合えたとして。
それだけの相手に自分が釣り合うと思えない。他人の目を気にして、付き合っていることを言えない。
そんな関係ではガタが来る。自分が自信を持てるような相手こそが釣り合いが取れている相手なんだろう。
少なくともそんな自信を持てない私では、踏み出すのも難しいもんだ。
ああ、古屋くん。あなたは素敵な人です。
でも私はあなたを遠くから見ているだけで幸せなんです。
「長期的戦略が大切ですよね。俺も覚悟を決めました。少なくとも香枝子さんが卒業した時にはワンチャンあると思うんですよ」
「……ん?」
一人で院生室にこもっていたところ、古屋くんが演習のやり方でわからないことがあるという。それに答えていたら、妙な発言が聞こえた。ふと正面に目を移せば、がっつりと視線が絡まってしまい、やたら心臓がばくばくする。
「卒業後に押せば、あっさりオーケーしてくれるんじゃないかなという話です。香枝子さんは修士課程のあとはどうされますか? 就職か、それとも進学ですか」
「しゅ、就職するつもりだけど」
「なら大体二年ですね。俺待てますよ。もちろんそれまでになびいてくれてもいいですけど」
「い、いや……」
さすがに目が泳ぐ。
「そこまで待たなくてもいいんじゃないかなー……たぶん。ほら、大学生男子なんて、人生でもかなり輝いている時期だし、他にも楽しいことは色々あるはずだよ」
大学院女子は最近自分の年齢を意識し始めたところだから、余計に眩しく感じる。
「俺、楽しいですよ。香枝子さんのことを知るのが。香枝子さん、以前言っていましたよね。『古屋くんは、私という人間を全然わかっていないんだよ』って。あれで心臓鷲掴みされて、イケナイ扉が開いちゃったんです。……ぞくぞくしたんですよね」
古屋くんの低い声音に、私こそぞくぞくしてしまった。今どきの爽やか好青年なのに、今は雰囲気が妙に妖しげなのだ。
「俺、ここまで落とされたの、初めてなんです。だから諦めるなんてできません。香枝子さんも、覚悟、決めてくださいね」
彼は宣言だけして、戻っていった。
「中園さん? どうしたのぼうっとして」
「あ、ああ、すみません、先輩。どうにも、さっきとんでもないことを言われた気がして」
「でも、楽しいことなんでしょ。嬉しそうな顔してる」
「……顔に出てます?」
「中園さん、わかりやすいもの。いいことならよかったね」
「……それなりに」
本人にはなかなか言えないけれど。
これからどうしよう。私は贅沢な悩みに頭を抱えるのだった。