後編
暗い、真っ暗な闇の中。
私は一人で歩いていた。
暗くて自分の手も見えない暗闇の中、それでも私は何かに急かされるようにして歩いた。わからないけど、とにかく進まなきゃいけないような気がしたから。
しばらく歩いていると、微かだけど、確かに風を感じた。私は歩調を早め、風に逆らうように進む。段々とはっきりとした空気の流れを感じるようになってきて、私はとうとう我慢できずに走りだした。
すると、まるで映画の場面が切り替わるように闇が晴れ、唐突に目の前が開けた。
目の前に広がるのは大きな池。白い睡蓮がいくつも花を咲かせ、木漏れ日と共に静かな緑の水面を彩っていた。それはとても幻想的で美しく、胸が締め付けられるような、懐かしくて悲しい風景だった。
「月乃」
背に投げかけられたのは、愛しくてかわいそうで、残酷で愚かなあの人の声。
急いで振り向こうとした私の意志とは裏腹に、体はもどかしいほどにゆっくりとしか動かない。
「……玉屑。どうしたの? そんな泣きそうな顔をして」
体が、口が、勝手に動く。というより、別の人の体に閉じ込められていて、私はその人の目から外を見ている。という感じがする。
そして振り向いた先、目の前にはさっきの変態――玉屑がいた。
「月乃、体に障ります。屋敷に戻りましょう」
「少しくらい大丈夫よ。それにね、この風景、絶対に忘れないように、今のうちに焼き付けておきたいの。だって、来年もまた見られるとは限ら――」
「月乃! そんなこと、言わないでください。大丈夫ですよ。来年も、再来年も、その次も……きっと、また見られます。だから!」
泣きそうな玉屑の白い頬に、しわくちゃの小さな手が添えられた。玉屑は今にも泣きだしそうな顔で、添えられた小さな手に自分の大きな手を重ねる。
「泣かないで、玉屑」
ああ、この台詞だったんだ。
今、やっとわかった。心が、納得した。
これは私。在りし日の、私と玉屑。遠い、遠い昔の私から連綿と受け継がれてきた、魂に刻みこまれた記憶。
「きっと、また逢えるわ。次の私も、また、あなたが見つけてくれるもの」
「逝かないで……また私を置いて、一人で逝かないで」
置いていかないで、一人にしないで。そう、子供のように泣きながら、年老いた私を抱きしめる玉屑。私はそんな我儘で困った、でも愛しくてしょうがない人を抱きしめ返す。
「約束よ。次も必ず、また私を見つけてね。もしかしたら、最初は取り付く島もないかもしれないけれど……でも、心配しないで。だって、次の私もきっと、すぐにあなたを好きになる」
「ええ、ええ。必ず見つけます。だけど、今はまだそんなこと……言わないで。だって、月乃はまだ、ここにいる。まだ、私の腕の中で……こんなにも、温かい」
全部、思い出した。
これは、二番目の月乃の記憶。蛇神の玉屑と恋に落ちて添い遂げた初代の記憶をそのまま受け継いだ、二番目の私。
何度も何度も、私は必ず月乃として生まれ、そして玉屑と添い遂げてきた。
初代は純粋に恋をした。二番目はその記憶を受け継ぎ、深く愛した。三番目も四番目も、玉屑と出会って記憶を取り戻すと、やはり彼と恋をして添い遂げた。
そして五番目――彼女は初めて疑問を抱いた。玉屑は本当に自分を愛してくれているのか、と。彼が愛しているのはあくまでも初代で、記憶を完全に取り戻せなかった自分は、本当に愛されているのだろうか……と。
だから逃げた。五番目の月乃は、玉屑から逃げ出した。愛しているからこそ耐えられなかった。今生の自分を見てくれない玉屑が、悲しかった。だから逃げた。自分を好いてくれていた、幼馴染の男の手を取って。
でも、彼女は捕まってしまった。
――ねえ、あなたが愛しているのは、本当に私?
――あなたが見ているのは、誰?
――私を見て。私は月乃。過去の私じゃなくて、現在の私を見て。
――ねえ、玉屑。本当にあなたが愛しているのは、誰?
さっきの言葉、これは五番目の私が言った言葉だったんだ。
そして今、私は理解した。私は六番目。初代から五番目まで、その全ての記憶を受け継いだ月乃。
思慕、切望、絶望――
全部を持った、六番目の月乃。それが私。
でも、私もきっと逃げられない。だって、もう捕まってしまったもの。体も、心も。
※ ※ ※ ※
目を開けた瞬間、現実でも玉屑はやっぱり泣きそうな顔をしてた。
私は安心させるように微笑んで、彼の頬にそっと手を添える。
「泣かないで、玉屑」
私の言葉に玉屑が微笑む。嬉しそうに、そして悲しそうに。
「思い出したんですね、全部」
「うん、思い出したよ。一番目の私から……逃げ出してしまった五番目の私まで、全部」
玉屑はやっぱり悲しそうに微笑み、「そうですか」と言うと静かに私に覆いかぶさった。
「私のこと、嫌いになってしまいましたか?」
「ずるいね、玉屑は。月乃があなたを嫌いになんてなるはずないのに」
「でも……五番目のあなたは、私から逃げました」
「うん。でもね、彼女もやっぱりあなたを愛していたよ。愛していたからこそ、怖くなって逃げてしまったの」
玉屑は何も言わず、ただぎゅっと私を抱きしめた。
言葉にはしていないけれど、それはまるで「捨てないで」とすがる子供のようで。だから私は安心させるように彼の背に腕を回し、ぽんぽんとあやすように叩く。
「泣かないで、玉屑。きっと、また逢えるわ。私たちは何度でもきっと、またあなたに恋をするもの」
無言でただ強く抱きしめる玉屑に、私は口には出さずに問いかける。
――ねえ、囚われたのはあなたと私、本当はどちらなのかしらね?
※ ※ ※ ※
まだ幼体だった頃、私は一人の人間の女に助けられた。それが、一番最初の月乃だった。
私は彼女に恩を返そうと近づき、そして気が付いた時には恋に落ちていた。
しかし、彼女は人間。神である私とは違い、あっという間に逝ってしまう脆い生き物だった。
だから私は、死にゆく彼女に呪いをかけた。
何度でも延々に、それこそ永遠に私のもとへと戻ってくるように。そして彼女は戻ってきた。私との記憶を持ったまま、同じ姿、同じ声、同じ名前で。
そうやって四度、私は月乃と添い遂げた。
けれど、五度目の月乃は少し違っていた。何かの手違いか、完全には記憶が戻らなかったのだ。だからか、彼女はいつも不安そうだった。どんなに私が愛を囁いても、完全に信じてはくれなかった。
そして彼女は逃げた。よりにもよって、私とは別の人間の男の手を取って。
そんなこと、この私が見逃すはずなどないというのに。
私は月乃を捕らえた後、彼女には知られないように男を消した。そして学んだ。
次の月乃には、拠り所となるものを一切作らないようにしよう。
そして作り上げた、六番目の月乃。
寄る辺なく、未練を持たない、私だけの月乃。
私はこの先ずっと、それこそ永遠に月乃を欲する。
捕らえて、囲んで、決して逃がさない。
だって、私の心は月乃に囚われてしまったから。
――嗚呼、囚われたのはあなたと私、本当はどちらなのでしょうね?