中編
どこか遠くから聞こえてくるのは、家路を急ぐカラスの鳴き声。胸をしめつけるその声が、私を緩やかに現実へと引き上げる。
重い瞼をなんとかこじ開け、私はゆるゆると顔を横に向けた。見えるのは畳、雪見障子、そしてそれら全てを染め上げた夕陽の茜色。ううん、もしかしたら朝陽? 方角がわからないから正確にはわからないけど、でも多分、何となく夕陽な気がする。
ふっと目の前が暗くなり顔を上げると、夕陽を背にした誰かが障子を開けて部屋に入ってくるとこころだった。
「月乃、気分はどうですか? どこか痛いところなど、ありませんか?」
その声を聞いた瞬間、心臓のあたり、胸の真ん中がぎゅうっと締め付けられたような感じがした。その何とも言えない感覚に私が戸惑っていると、声の主は私の寝ていた布団のすぐそばまできて膝をついた。
茜色に染められた白い髪は、まるで燃えているよう。そして私を見つめる二つの赤い瞳は、死者を導く鬼灯のよう。私をこんな状況に追い込んだ変態相手に、不覚にも綺麗だ、なんて思ってしまった。
「月乃」
まただ。この人に名前を呼ばれるたび、嬉しいような、苦しいような……よくわからない感覚がわき上がる。
「最悪。うかつにも変態の前で倒れた挙句、拉致されたせいでね」
それらを振り払うように、私はわざとぞんざいな口調で返した。なのに、嫌味たっぷりに返したのに。変態はなぜかとても嬉しそうな笑みを浮かべていた。
やだ、もしかしてこの人、罵られるのが好きな人? そっち系の変態?
そんな私の思考を読んだのか、はたまた私が思い切り顔に出していたのか。変態は「違いますよ」とおかしそうに笑った。
「いえ、月乃はやっぱり月乃なんだなぁと思ったら、なんだか無性に嬉しくなってしまって」
さすが変態、意味が分からない。
でも、その慈しむような懐かしむような笑顔がなんとなく面白くなくて、私は彼から顔を背けた。するとタイミングの悪いことになぜか今、空気を読まない私のお腹が盛大に空腹を主張し始めた。
「そろそろお腹空いた頃かな、と思ってたんです。はい、月乃の好きな栗蒸し羊羹」
満面の笑みで冷たいお茶と私の好物を差し出す変態。
その姿はまるで、飼い主に褒めてほしいと尻尾をふる子犬のようだ。少し、ほんの少しだけかわいいな、などと思ってしまった。
……って、ありえない! 本当、変態相手にありえない。いくら顔がよくても、こいつは変態。許可なく乙女の唇を奪うような、極悪非道な変態だ。
ぶんぶんと頭を振って、一瞬よぎってしまったかわいいという愚考を吹き飛ばすと、私は変態を睨みつけた。
「いらない。帰る」
それだけ言うと、私は立ち上がった――
つもりだった。
なのに今、なぜか私が背中に感じているのは、柔らかな布団の感触。そして上から降り注ぐのは、ゆらゆらと燃え盛る、すがるような視線。
何? なんでこんな状況になってるの?
私、なんで変態に押し倒されてるの!?
突然のことで頭が真っ白になって、ろくな抵抗もできず、私はただぽかんと変態の顔を眺めていた。
本当、変態のくせに無駄にきれいな顔だな。とか、押し倒してる方が泣きそうな顔するな。とか……
「いかないで……また私を置いて、一人でいかないで」
ぽたり、ぽたり。頬に落ちてくるのは、温かな雨。
なんで女の子押し倒した男の方が泣いているのか。そしてそんな情けない大人の男の姿に、なぜこんなにも私は胸が締め付けられているのか……
「泣かないで、玉屑」
ごく自然に、まるで当たり前のように。その名前は私の口からすべり出てきた。
玉屑
雪の異称の一つ。
特に、降る雪をさすその言葉は、目の前で泣く白い男によく馴染んでいた。
「名前……思い出して、くれた?」
白い男、玉屑は感極まったのか、いよいよ本格的に泣き始めてしまった。
私の方といえば、なぜ突然そんな言葉が出てきたのかとか、ぼろぼろと涙を流す男に押し倒されたうえ抱きしめられて苦しくて鬱陶しいとか、今この胸を占める痛くてむず痒い感情は何かとか、とにかく頭の中がぐるぐると混乱を極めていた。
「苦しい! 泣くな、離せ、鬱陶しい」
「ああ、やっぱり月乃だ! この取り付く島もない感じ、懐かしいです」
私が何か言うたび、この玉屑という男はいちいち感激し、そして泣く。
それを鬱陶しいと思いながらも、心の底から嫌だとは思えなかった。むしろその姿が愛おしく、もっと泣かせたくなった。
さっきから私は変だ。自分で自分の感情がコントロールできない。なぜ、知らないはずの男の名前を知っていたのか。なぜ、会ったこともない男に親しみを覚えるのか。
目覚めてからの私は、確実におかしい。頭の片隅のどこか、心の奥、そんなところがざわざわしている。
「ちょっと、いつまでくっついてるつもり? いい加減離れて」
「はい!」
こんな小娘に命令され、嬉々としてそれに応える大人の男ってどうなの?
どうかしている。この玉屑という変態、本当にどうかしている。そもそも、何で私なんかの言動にここまで一喜一憂するの? 本当に意味が分からない。
「あの……私の顔に何かついているのでしょうか? そんなにじっと見つめられると、その……ちょっと恥ずかしいです」
「見つめてたんじゃなくて睨みつけていたの! もう、本当になんなの、あなた」
「なんなの……と言われましても。言うなれば、恋の奴隷? というやつでしょうか」
そのアホっぽい返しに、私は思わず頭を抱えてしまった。しかも桜色に染まった頬を両手で押さえるというかわいらしい仕草つき。普通だったら気持ち悪いんだけど……この無駄に顔が整っている男がやると、腹立つことにかわいく見えてしまう。これが世間でいう、イケメンに限る。というやつだろうか。
「ばっかじゃないの。もう、さっきから一体なんなのよ! わけのわからないことばかり言って。家に帰してよ! 私はあなたなんか知らない!!」
そうは言ったものの、本当は知っているような気がしていた。
今はまだ思い出せないけど、たぶん、私はこの人のことを知っている。理性は知らないって言っているけど、感情が知ってるって訴えてくる。
それに、私はこの人の名前を言い当ててしまった。ううん、知ってたんだ。だってあの瞬間、私の心は張り裂けそうなほど懐かしくて、でも悲しくて、そして愛おしいって気持ちでいっぱいになっていたもの。
「泣かないで、月乃」
ふわりと、頬にひんやりとした指が触れた。
「泣いてない!」
「意地っ張り。本当に月乃は……もう」
玉屑はそう困ったように笑うと、そっと、今度は壊れものでも扱うかのように本当にそっと、私をその胸に閉じ込めた。
「月乃。泣くのは悪いことではないんですよ。涙は、心の澱も一緒に洗い流します。見るな、というのなら決して見ません。だから、もう一人で泣かないでください」
「うるさい。泣いてないって言ってるでしょ。これは違うの、目にゴミが入ったの」
ああ、前にもこんなことがあったなぁ……なんて、知らない思い出が頭をよぎる。
知らない、私はこの人を知らない。でも知ってる。知らないけど、知ってる。
わからない。わからない、わからない、わからない。
この気持ちは何? これは本当に、私の気持ち? それとも、私の中の別の誰かの気持ち?
ああ、頭が痛い。心が痛い。痛い、痛い、痛い…………
――ねえ、あなたが愛しているのは、本当に私?
声がする。
痛い。
――あなたが見ているのは、誰?
誰の声?
痛い。
――私を見て。私は月乃。過去の私じゃなくて、現在の私を見て。
これは、私の声?
痛い。
――ねえ、玉屑。本当にあなたが愛しているのは、誰?
ああ、これは…………
前世の、月乃。