前編
――疫病神
それが今の私の名前。
昨日おばあちゃんが死んでしまって、もう私を――月乃――と呼んでくれる人はいなくなってしまったから。
※ ※ ※ ※
なんだか夢の中にいるみたい。
目の前をたくさんの大人たちが行き交うけど、誰一人として私に声をかける人はいない。今の私はまるで透明人間。あの人たちには私なんて見えないらしい。
誰にも声をかけられないのをいいことに、私は葬儀の準備でざわつく家を抜け出した。どうせ私なんて、いてもいなくても誰も気に留めない。むしろいなくなった方が喜ばれる。
――蛇に祟られた月出の一族
私はその最後の一人。
遠からず、私も死ぬのだろう。事故か病気か……例外なく、家族親戚皆がそうなったように。
そんな呪われた一族の発端は昔、まだ私が物心つく前。ある日、私の母が一匹の蛇を殺したことから始まった。
まだ赤ん坊だった私が昼寝していた部屋に、ある日一匹の大きな蛇が迷い込んできた。その蛇はベビーベッドに絡みつき、微動だにせず、ただひたすら眠る赤子をじっと凝視していたという。
それを部屋に入ってきた母が見つけ、私が蛇に襲われていると勘違いしてしまった。母は錯乱状態で蛇をベッドから引き剥がすと滅多打ちにして、そのまま庭に捨ててしまったそうだ。
ここからだ。ここから月出家の不幸は始まった。
母が殺した蛇は、大きな白蛇だった。
それを見た祖父母は驚き、大慌てで蛇の墓を作ると母を責めた。白蛇は神の使い、それを殺してしまうなんて、と。しかし母は、そんな祖父母の言うことに耳を貸さなかった。都会からこの村へと嫁いできた母には、祖父母の言葉はただの迷信にしか思えなかったから。
けれど、異変はすぐに訪れた。
蛇を殺してから三日後、母が高熱で倒れた。
医者に見せても首をひねるばかり、まったくの原因不明。
「殺した蛇の祟りだ」と祖父母は恐れおののき、再度蛇をきちんと祀ろうと埋めた場所を掘り返しに行った。しかし掘れども掘れども、蛇の死体は出てこない。掘り返された形跡も、動物に持ち去られた形跡もまったくなかったのに。ただ、蛇の死体だけが消えていた。
そんな迷信に囚われた二人を父は叱った。そして、その日のうちに父は母を都会の大きな病院に転院させ、できうる限りの治療を施すように手配したそうだ。けれど努力むなしく、母はあっという間に帰らぬ人となってしまった。そして病院からの帰り、父も交通事故に巻き込まれ、そのまま帰ってくることはなかった。
一歳になる前に両親を相次いで失ってしまったため、私には父と母というものがよくわからない。
蛇から私を助けようとしてくれたということは、母は私のことを大切に思っていてくれたのだと思う。父も祖母から聞いた話では、私が生まれた時泣いて喜んでいたと言っていたから、やっぱり愛してくれていたんだと思う。
だけど、私には二人との思い出はおろか、顔さえ記憶にない。だから私にとって両親とは、どこか遠い存在だった。
けれどやっぱり、周りを見ていると羨ましくなる時もある。もちろん、祖父母が両親の分まで愛情を注いでくれていたことはわかっていた。けれど、それでもどうしようもなく、時折強い疎外感を感じてしまうのだ。
そんな時、私は私だけの秘密の場所に行った。そしてそこで思う存分泣いた。
そこは小さな神社で、家以外に居場所がない私の、絶好の避難場所だった。人気がないわりに神社はいつも綺麗に整えられていて、幼心にも不思議に思ってはいたが。
そして今日も、居場所のない私は一人で神社にきていた。
拝殿前の階段に座り、冷えてしまった指先にほうっと息を吹きかける。そして静かな境内に視線を流すと、抱えた膝に顎を乗せた。
「大丈夫ですか?」
不意にかけられた声に、思わず肩が跳ねあがった。
慌てて声のした方へと顔を向けると、そこには心配そうな顔をした男の人が立っていた。真っ白な髪に真っ赤な目の、嘘みたいに綺麗な男の人。
「……誰?」
突然のことに、思わず警戒心むき出しの硬い声が出てしまった。
我ながらかわいげの欠片もない、不愛想で嫌な感じだとは思う。だけどしょうがないじゃない。だって、普段人と話すことなんてないんだから。おばあちゃん以外、私とまともにしゃべってくれる人なんてこの村にはいなかったもの。
けれど、目の前の白い男の人は特に気分を害した様子もなく、ただ思わず見惚れてしまいそうになるような、それはそれは美しい微笑みを浮かべた。
小さな頃から通っていたが、今日初めてここで人に会った。……多分。…………あれ、本当に初めて? なんだろう、何か引っかかるような気がする。
「どうかなさいましたか?」
一人ぐるぐると考え込んでいたら、思ったよりも近いところから声が降ってきた。反射的に顔を上げたそこ、まさに目と鼻の先、そこにあのやたら綺麗なご尊顔が見えて。
いきなりパーソナルスペースに侵入されて、思わず驚いて反射的に後ろに飛び退いてしまった。でも、私が腰かけていた場所は拝殿前の階段。ということは――平地なら地につくはずの足は虚しく空を切り、私の貧相な体は嫌な浮遊感に包まれた。
――落ちる!
そう思ったのに。なぜか痛みは一向にやってこなかった。
それどころか、何か大きないい匂いのするものに包まれている。何となく想像はついていたけど、覚悟を決めて恐る恐る目を開けてみた。
「よかった。それにしても突然後ろ向きで飛び降りるなんて……本当に、一体どうしたというのですか?」
さらりとした薄墨色の檻の中、注がれるのは甘く柔らかい、そしてどこか懐かしい音色。鼻腔をくすぐるのは、泣きたくなるような白檀の香り。
何かわからない感情が溢れてきて、私が私じゃなくなりそう。まるで、何かに塗りつぶされていくみたいで……
「だ、大丈夫です! もう支えてもらわなくても立てます!! だからもう――」
すごく、怖くなって。
ただ、逃げたかった。この人の腕の中から、逃げたかった。
「ふふ、月乃は相変わらずですね」
楽しそうに笑う白い人。その言葉に、私は身を固くした。
だって私、まだこの人に名乗ってない。
「離して! なんで私の名前……あなた、何者?」
逃げようとと腕を突っ張ってもがくけど、私の力じゃびくともしない。そんなに力を込められているようには感じないのに、全然動かない。
「怖がらないで、月乃」
声音は柔らかいけど、その腕の檻は堅牢さを一向に崩さない。
私は半分以上パニックになって、めちゃくちゃに腕を振り回して彼から逃れようとした。けれど抵抗空しく、振り回していた私の両腕はあっという間に彼の両手に捕らわれてしまった。
「やだ! 離して、離してよ!!」
「月乃、お願いです。落ち着いてください」
「無理! あと私の名前、馴れ馴れしく呼ばないで」
「月乃」
「だから――」
私の抗議の言葉は、飲み込まれてしまった。
無理やり、それも物理的に!!
今、私の口は目の前の無礼な男に塞がれていた。両腕も口も動かせず、しかも足さえもしっかりと封じられていた。この男、なんて嫌な用意周到さ!
時間にしたらほんの数秒、けれど私にとっては長かった一瞬。ようやく暴虐の唇から解放され、私が文句を言おうと口を開いたその瞬間。彼のひんやりとした唇からこぼれたのは、「申し訳ありませんでした」という一言。
「謝って済むんなら警察なんていらない!! 離せ痴漢、この変態!」
「痴漢? 変態? 私が、ですか……?」
怒り狂う私を見て、心底不思議そうな顔を返してきた変態。
ただただ戸惑いの色を浮かべるその顔に、じゃあさっきの謝罪は何に対してだったのかと再び怒りがこみあげてきた。
「じゃあ、さっきのは一体何に対して謝ったのよ!? ちょっとイケメンだからって、初対面でいきなり断りなくキスするなんて許されるわけないでしょ!! しかも私……初めてだったのに」
「先ほどの謝罪は、これから起こることについてです。それと、初めてなんかじゃないですよ」
変態はよくわからないことをほざいたうえ、さらに聞き捨てならないことを言った。
「初めてじゃない……って、何が?」
この場合、さっきからの話の脈絡で大方の予想はつく。
つく、けど! それでも、万が一の可能性に賭けて聞いてみた。
「私と月乃が接吻することです。もうすでに何回も、それこそ数えきれないほどしたじゃないですか。もちろん、肌を重ねたことも――」
「ストップ! ストップストップ、ストーーーップ!!」
さらりと、さも当たり前のような顔でとんでもない妄想を語りだした変態。
そんな彼の言動で頭に血が上ったのか、目の前が一瞬くらりと揺れた。
「嘘つかないで! そもそも私、あなたとなんて会ったこともな……い…………」
あれ? なんだかクラクラする。
今のめまい、あれは一瞬だったから、てっきり怒りのせいかと思っていたのに。
「会っていますよ。思い出してください、月乃。ずっと昔から、何度も、何度も……」
何言ってるの、この変態。わけわかんない。
ああ、それよりも気持ち悪い。地面も空もぐるぐるする。もうだめ、立ってられない……
「おやすみなさい、月乃。次に目覚めた時は…………」
その声を最後に、私の記憶は途切れた。