彼の首輪を抱きしめて
僕は犬だ。
犬の中では賢い方だと思っている。
僕の家族は人間の両親とその子供、僕を合わせて四人。
皆はとても優しい。自慢の家族だ。
僕は脚が不自由でうまく歩けない。
事故で悪くしてしまったのだ。
だけど、家族は僕の散歩にゆっくり歩いて付き合ってくれる。
僕はそんな家族の事を信頼している。
彼らも僕を信頼している。
家族が留守にする時、彼らは僕に家を預ける。
僕がひとりでこの家を守る事が出来るからだ。
僕は賢い。だから、ひとりになって寂しいからと家で暴れるような事はしない。
そんな事をしたら彼らが困る事は目に見えている。
それよりもこの家を守るという僕の仕事を全うするのだ。
ここは家族の大事な縄張りなのだから。
そんな利口な僕は家族に滅多に怒られることは無かったけれど、これまでに一度だけひどく怒られることが有った。
それは、この家にある地下室、その入口の扉に前脚を掛けた時の事だ。
彼らは僕をひどく叱り飛ばした。
その時はなぜ彼らが怒っているか理由が分からなかったけれど、よく考えれば難しい理由では無い。
――家族は地下室に大事な物を隠していたのだ。
僕だって、わざわざ地面の下に隠していた宝物を掘り返して触られると嫌な気持ちになる。
それと同じことだ。きっと僕にも触られたくないような物の隠し場所なのだ。
無理に秘密を暴かないのも、家族がうまくやっていく秘訣だと思う。
彼らが嫌がる事はしない。
だから僕はもう地下室に入らない。
僕と家族。
この家は全てが快適でとても居心地がいい。
……だけど、最近よく寝られない。
体がだるくて、首がひどく痛む。
これは、決して寝相が悪い僕のせいでは無い。
それもこれも――家の中に響く妙な音のせいだ。
初めのうちはあまり大きな物音では無かったので気にしていなかった。
けれどここ最近になって家のあちらこちらから聞こえてくるようになった。
今日は、曇り空。
かびくさいような、湿った空気の臭いがする。
嫌な感じだった。
しばらくして雨が降ってきた。
やがて強くなっていくそれは、屋根や天窓に当たってばたばたと騒がしい音を立てるようになる。
じめじめして、時々ひどくひんやりとして気分の悪い季節だ。
僕はいつもの場所で休む。
雨音に交じって、今日も妙な音が僕の耳に届き始める。
二階から聞こえてくる。
ぼそぼそと誰かがつぶやいている様なそれは、はっきりと聞きとれない。
だから僕は脚をひきずりながら二階に続く階段の下へ行く。
それから見上げる。
――階段の突き当たりには見慣れた木の扉。
怪しい物は何も見当たらない。
「……」
僕はじっとその扉を見つめる。
いつの間にか奇妙な音は止んでいた。
僕以外に誰もいない家の中。
雨だれの音だけが家の中に響いていた。
◇
僕は家族の帰りをひたすら待つ。
雨が屋根を打ち続ける音が響く家の中で、いつも通りの見回りに出かける。
残念ながら二階には上がれないから一階を巡る。
台所。
何もない。
玄関。
鍵がかかっている。
寝室。
何もない。
念のため、階段の上を見る。
何もない。
元気だった頃は二階に駆けあがって遊びに行っていたけれど……。
随分長い間、彼女の部屋に入っていない。
家族の中でも一番仲良くしていた女の子の部屋に入れないのは、少し寂しい。
僕は居間に戻ってきた。
少し目を瞑って休む。
雨は止まない。
それどころか強くなっていく。
突然の稲光。
天窓から入った光はうす暗い部屋の中を照らす。
雷は怖くない。
それでも、この重苦しい天気にため息がでた。いつもの場所に寝転んでぼんやりと台所の方を眺める。
時折、びりびりと家が震えるくらいの轟音。
同時に光がカーテンの隙間から鋭く射し込む。
――ふと、見慣れたはずの家の中。
違和感に視線を巡らせる。
――台所の片隅に、あるはずの無い影が伸びている。
見間違いかと思って目を凝らす。
雷の光が影を洗い流す。
――猫だ。
ぎらぎら光る金色の目が暗がりからじっと僕をじっと見つめている。
おかしい。この家の入口は閉まっていたはずなのに。
僕は思わずうなり声を上げた。
どこから入ってきたというのだ。
僕達の家になぜ入ってきた!
身を低くしたその時、黒猫は奥の部屋に向かって走って行った。
僕は脚をひきずりながら後を追う。
廊下の先、寝室の扉が少しだけ開いている。
僕は姿勢を低くして、扉の開いた部屋におそるおそる入る。
部屋の真ん中には――見た事も無い机が一つ。
机の上には火が灯っているろうそくが立っている。
前に見回りした時は無かった。
異質な臭いがする。
見た事も無い家具。これが意味する事。
(――この家に誰かが居る)
部屋の外から雨のものとは違う物音が聞こえてきた。
また二階からだ。
僕は階段の方へ向かう。
慌ててしまい、かしかしと板敷の廊下をひっかいてしまう。
階段の先。
二階を見上げる。
あいつだ。
暗がりから、感情の無い目でじっと僕の事を見降ろしていた。
二階の部屋から聞こえてくる音がさらに大きくなる。
――人の声?
猫が、にゃおと鳴いた。
途端に声が聞こえなくなった。
そして猫の姿も消えた。
僕は頭がおかしくなったのだろうか。
わからない。今までにこんな事は無かった。
僕はいつもの場所に戻り、震えるしかなかった。
皆、早く帰って来てほしい。
帰ってきて!
◇
僕は落ち着いて考える。
……寝室に置かれたあのテーブルの事はどう考えても怪しい。
あのテーブルはいつから寝室に有ったのだろう。
僕が寝ている隙に誰かが忍び込んで置いて行ったのだろうか。
しかし、玄関の扉には鍵がかかっていたはずだ。
目を開けると、雨は止んでいた。
随分静かだ。
僕は身体を起こす。
そして――それを見つけてぎょっとする。
黒猫。
僕が目を覚ますまで僕の事を見ていたのだろうか。
僕から距離を取って、冷たい目でじっとこちらを見つめている。
何者だこいつは。
なぜ家に入り込んでいるのだ。
うなりながら立ち上がると、黒猫は背を向けて走って行った。
僕は動かない脚を再び必死に動かして追う。
黒猫は時々振り返る。
上手く動けない僕の事を馬鹿にしているのか!
我慢ならない。
追いかけた挙句、そいつは白い扉の隙間に滑り込む様に入って行った。
僕は立ち止まる。
駄目だ。ここは駄目だ!
ご主人との約束を思い出す。
ここには絶対に入ってはいけないと言われた。
――地下室の入口。
少しだけ開いたその隙間に闇が潜む。
油断していたら、何かが飛びだしてきそうな気がする。
向こう側から誰かが僕を覗いているようにさえ感じる。
地下に続く暗闇の向こうはうかがい知れない。
この家は何かがおかしい。
僕は家族の安全を守るために家族との約束を破るべきだろうか。
それともこのまま寝床で彼らの帰りを待つべきだろうか。
いや。
ここは僕達の大切な家だ。
家族の帰って来る場所なのだ。
家を守るのは、僕の役目だ。
扉の隙間に身体をねじこみ、慎重に地下へ続く階段を降りる。
長い時間を掛けて、獲物をゆっくりと追い詰めるように、音を立てないように。
僕の鼻に土臭いような、かび臭いようなにおいが届く。
下ったところに有ったのは小さなテーブル。
寝室にあった物と全く同じだ。
僕は侵入者の形跡に苛立って静かに唸る。
ふと、壁際の戸棚に見つけた。
――懐かしい。
そこにはご家族と僕が一緒に遊んだビニールプールが折りたたまれてあった。
他にもぼろぼろになってしまった僕のおもちゃがかご一杯に入っている。
子供の頃に使った小さな犬小屋も置かれている。
使われなくなってしまったこれらは捨てられたものと思っていた。
でも家族は取っておいてくれたのだ。
嬉しい。
色々な事を思い出す。
小さい頃は皆でよく遊んだ。
両親はよく、僕にいたずらする女の子を叱った。
でもそのあと、彼女は僕のお腹の上で泣きながらも眠っていた。
僕は大好きな家族に囲まれて幸せだった。
地下室に置かれていた物全てに思い入れがあって、とても懐かしい気持ちになる。
だけど、僕は部屋の隅を見て凍りついた。
――あいつだ。
こんどは姿をくらますことなく地下室の片隅、床の上。
そいつは一つ長く鳴くと、傍らの小さな木箱に手を掛けた。
箱が開く。
僕は箱の中身を見て――全てを理解した。
そこにあるはずの無いそれ。
家族からもらった贈り物。
――僕の名前が書かれた首輪。
その周りに小さな白い欠片。
僕の強い匂いがするそれら。
どうして忘れていたのだろう?
どうして気が付かなかったのだろう?
僕がこの地下室に入ったのは初めてでは無い。
これで――三回目。
そして今日初めて『転げ落ちず』に降りることができた。
僕はご主人に言いつけられた事を守れなかった。
だから彼らの想いを全て台無しにしてしまった。
ごめんなさい。
……僕はただ、みんなと一緒に居たかっただけ。
――だけど、その願いは今ここに叶った。
姿は見えないけれど、皆のにおいを感じるよ。
ありがとう――さようなら。
◇
「――彼は行ってしまった。去り際に……貴方達へお礼を言っていた」
穏やかな表情を浮かべた霊媒師の女性は、裸電球のスイッチを入れ、ろうそくを吹き消した。
暖かいけれども無機質な明かりが地下室を照らす。
家族は何もしゃべることができなかった。
懐かしい彼の唸り声が聞こえたかと思えば、その次の瞬間悲しげな鳴き声が聞こえたのだ。
全てを明らかにしてしまった女性の悲しい表情。
直視したくない事実。それでも家族に伝えるために、彼女は言葉を慎重に選びながら口をひらいた。
「お嬢さんが居なくなったと思って、不安になったみたい。家を離れるという事を理解できなかったのね……だから探したの。入ることを禁じられていた地下室も」
彼女の言葉に応じるかのように、黒猫が目をつむった。
「彼は家を守るという役目を果たそうと、皆が居なくなってからも、ずっとここで待っていた。この家を、あなた方を大切に思っていたのね――その事は幸せだったと思うわ」
彼の家族達は静かに涙を零した。
◇
霊媒師の女性にお礼を言う。
私達家族に頼られた彼女が力を貸してくれたのは、かつて一緒に暮らしていた犬が何を想っていたのかを明らかにするためだった。
「……私達は見たいものしか見ようとしない。そうやって大事な事からお互いに目を背ければ、すれ違うにもかかわらずね――私はそれに気付けるよう、少しお手伝いしただけよ」
彼女はそう言うと優しく微笑みながら私達からの謝礼を断り、黒猫を抱いて夕暮れの町に去っていった。
私も帰る時間だという事を思い出す。
「私も……そろそろ」
「ああ、次に帰って来る時は間違ってここに戻って来ないように」
父が冗談めかして笑いながら言う。少し寂しそうに見えた。
彼は強がっているだけだ。私は泣きそうになるのを堪えた。
もう二度と、この家に戻ってくる事は無い。
振り返って、私達家族の思い出がいっぱい詰まった家を見る。
私が出て行き、彼が居なくなったこの家は両親二人で住むには広すぎた。
両親が引っ越した後も、空っぽになってしまった家には現状を受け止められない彼だけが彷徨っていた。
私が新生活を始めてしばらくして、両親から彼が死んでしまった事を告げられた。
留守から帰ってきた時、たまたま開け放していた地下室に首の骨を折ってひとり冷たくなっていたらしい。
脚が悪かったから階段から滑り落ちてしまったのだろう。
かつて大怪我をした場所で死んでしまうなんて、とんだ皮肉だ。
……彼女の言う通り、家を出た私を探していたのかもしれない。
『――見たいものしか見ようとしない』
彼女の言葉を思い出す。
自らが死んだことを認められなかった彼。
私達の場所を守り続けていた事を思うと胸が詰まる。
きっと今日を境に奇怪な現象も無くなるだろう。
こうして私達は家族同然に可愛がっていた彼の事に一応のけじめをつけたのだから。
もちろん、彼女の言った事を全て真に受けている訳では無い。
地下室で彼の声のような音が聞こえたのはびっくりしたけれど、それは彼女のトリックで全部作り話かも知れない。
――だけど、そんな事はどうでも良かった。
私達家族は彼女の勧めで、彼との思い出をたくさん思い出し、そして彼を見送るために数日間をあの家で過ごした。
彼の遺物を持ち込んで彼の写真を見たり、彼の話をしたりと、私達の過ごした時間は感傷をなぞるだけのつまらない過程だったかも知れない。
だけど、私が今日、彼の死をようやく受け入れることができたのは事実だ。
それで十分だった。
帰り道、彼の首輪を胸に抱く。
かすかに甘い香りがした。
彼のふわふわの毛に顔をうずめた時に嗅いだ、お日様のようなあの懐かしい匂いだ。
もう涙は出なかった。
かわりに優しく笑う事ができた。
私は水たまりだらけのよく知った道を彼のようにゆっくりと踏みしめて帰路についた。
雨上がりの夕陽。柔らかい光はいつもよりも優しい色に見えた。
――ふと、わたしは思い出す。
……そう言えば、滞在中に二階から時々物音がしていた。
あれは何だったのだろう。
彼は何を伝えたかったのだろう。
霊媒師の彼女に聞くのを忘れていた。