兄貴はつらいぜ
俺の名はアレクサンダー、通称アレク。ここいらのボス猫だ。
今まで、喧嘩一筋に生きてきた。これまで、ボスの座を狙う若いバカ猫が何匹も挑戦して来た。だが、俺はそいつら全員を、力でねじ伏せてやったよ。そして、俺が最強であることをわからせてやったのさ。
今、俺が尻尾を立てて塀の上を歩くと……若いオス猫は尊敬の眼差しで、メス猫はうっとりとした憧れの眼差しで見つめてきやがる。本当に困ったもんだぜ。発情期なんか、身が持たねえよ。
そんな俺には、弟分がいる。名前はマコトだ。こいつがまた、どうしようもなく駄目な奴なんだよ。図体はでかい。俺よりも遥かにでかい。しかし耳が丸くて、ヒゲも尻尾も爪も牙もない。木も登れないし、獲物もとれない。本当に、情けない奴なんだよ。
可哀想だから、たまに外で捕まえた獲物を持って行ってやるのだが……こいつは、その度にキャーキャー騒ぎやがる。オスの癖に、情けないったらありゃしないよ。
一度、蛇を捕まえて持って行ってやった。そしたらマコトの奴、ビビりまくって家中を走り回ってたよ。仕方ないから、俺が蛇をきっちり仕留めてやったけどな。あん時は、家族みんなで大騒ぎしてたっけ。
そんな情けない弟分だが、今日はとんでもないことをしやがった。生意気にも、うちにメスを連れてきやがったんだよ。
マコトはメスを連れ、自分の部屋に招き入れた。俺は押し入れの中に潜み、じっと二人を観察する。
二人はちゃぶ台の上でノートや教科書を広げ、勉強とかいうものを始めた。もし、二人が交尾を始めたらどうしよう? 俺はちょっとドキドキしながら、二人を見守っていた。
しかし、会話がない。マコトのアホは、何をやっているのだ。まずは、会話だろうが。会話をしてメスの気持ちを解きほぐせ! と、俺は心の中で怒鳴る。
その思いが通じたのか、マコトはためらいがちに声をかける。
「あ、あのさ」
「え、何?」
メスが顔を上げる。ヒゲのないつるつるの顔。肌は白く、髪は金色だ。俺から見れば、とても間抜けな顔である。だが、マコトの目には、この上なく美しく見えるのだろう。
「あ、あのさ、ソーネチカちゃん」
「え? なあに、マコトくん?」
メスは顔を上げ、マコトをじっと見つめる。あのメスは、ソーネチカというのか。俺は、息をひそめて成り行きを見守っていた。ここからだ。とにかく会話を続けて、ソーネチカを楽しませると同時に、自分という人間を知ってもらうのだ。ただし、あまり語り過ぎるな。ある程度は、語らない部分も残しておけ。
だが、マコトはどうしようもないヘタレだった。
「あ、今日は暑いな、なんて思ってさ」
「え? ぜんぜん暑くないけど?」
「あ、そ、そうだね。ぜんぜん暑くないね……」
二人の会話は、聞いているこっちが冷や汗をかきそうなくらい盛り上がりに欠けていた。
俺は考えた。ここは一か八か、俺が出るべきかもしれない。そうすれば、会話の糸口くらいは掴めるだろう。ソーネチカが猫好きであるなら、そこから一気に会話が盛り上がるかもしれないのだ。
無論、ソーネチカが猫を嫌いである可能性もある。猫嫌いな人間というのは、意外に少なくないのだ。俺が出ていったために、かえってマズイ展開になることも考えられる。今までは、その可能性を考慮して押し入れに潜んでいたのだ。
さらに言うと、俺はここいらのボス猫である。武勇伝には事欠かないが、可愛げはない。少なくとも、人間のメスにキャーキャー言われるタイプではないのだ。
しかし、このままでは埒があかない。確実に、この嫌な空気のままで時間が過ぎていってしまう。ここは、一か八か勝負の時だ。
にゃあ。
俺は出来るだけ可愛い声を出しながら、とことことソーネチカの前に出て行った。立ち止まると、尻を床に付け、お行儀よく前足を揃えた格好でソーネチカを見上げる。
そこでもう一度、にゃあと鳴いた。可愛く見えただろうか?
しかしソーネチカは、驚いた表情でじっと俺を見つめるだけだ。仕方ないので、俺もソーネチカを見つめ返す。一体、どうなるのだろうか?
「き、き……」
ソーネチカは、確かにそう言った。き、だと? き、とは何だろう? もしかして、「キモい!」などと叫ぶのだろうか? それは非常にマズイ。この人間は、猫嫌いだったのかもしれない。俺は逃げようと腰を浮かせた。
だが、想定外の事態が起きる。
「きゃわいい!」
叫びながら、俺に飛びかかって来るソーネチカ。俺を絞め殺そうとでもするかのように、両腕を俺の腹に巻きつけて顔をこすりつけて来たのだ。俺はビビりまくり、必死で腕から逃れた。
「え? ソーネチカちゃんて猫好きなの?」
唖然とした表情で尋ねるマコト。だが、ソーネチカの目は俺に釘付けだ。
「う、うん、言わなかったっけ? それにしても可愛いね。何て名前?」
「え? アレクサンダーだけど、最近はアレクって呼んでる」
「アレク、か。アレク、こっちにおいで」
ソーネチカは文字通りの猫なで声を出しながら、俺に手招きする。だが、俺はすぐさま逃げ出した。あのメスは、意外と力が強い……付き合いきれんのだ。とりあえず、話の糸口は掴めたはず。あとは、マコトに任せよう。
俺は、部屋のドアに付いている、猫専用の出入口から逃げ出した。廊下で、ホッと一息つく。全く、マコトはだらしないオスだ。俺が居なくては、獲物も獲れないしメスとも仲良くなれないのだから、本当に情けない。
俺は廊下で毛づくろいをしながら、さりげなく部屋の中の会話に耳を傾ける。どうやら、二人の会話は盛り上がっているようだ。俺のことを話題にしている。
ならいいだろう。そういえば、帰って来てからシーザーの顔を見ていない。ちょっとからかってくるとするか。
「あ、アレク兄ちゃん! 大変だよ! うちに人間のメスが来てるよ! マコトさんの部屋に入って行ったよ!」
俺の顔を見るなり、わんわん吠えるシーザー。こいつは、最近もらわれてきたばかりのバカな雑種犬である。俺を兄貴として、やたら慕っているのだが……俺としては、うっとおしくて仕方ないのだ。
「何を驚いてる、バカ犬が。あれはな、マコトの友だちだ。そして今、彼女になるかどうかの瀬戸際にいる」
「カノジョ? 何それ?」
シーザーは、首を傾げた。俺は、後ろ足で自分の首を掻きながら答える。
「バカ犬が、そんなことも知らんのか。彼女とは、マコトのつがいになるかもしれんメスのことだ。もっとも、あのメスが彼女になるかどうかは、マコト次第だがな」
「へええ! アレク兄ちゃんて賢いね! いろんなこと知ってて凄い!」
そう言ったかと思うと、シーザーは急にテンションが上がり突進してくる。俺はひらりと身をかわし、奴の顔面に猫パンチを叩き込んだ。
「何をするか、このバカ犬が! お前は、体がデカイのだから気を付けろ!」
そう、このシーザーは体がデカイのである。しかも、テンションが上がると突進して来る癖があるのだ。一度、鏡に映る自分を他の犬だと勘違いして突進し……鏡を破壊してしまった前科まである。
このバカ犬の巨体が突進してきては、さすがの俺も対処しきれん。そこで、もう一度マコトの部屋に行ってみることにした。
廊下で毛づくろいをしながら、部屋の様子を窺う俺。しかし、会話は止まっているようだ。
これはもしや? 俺はそっと、出入口から部屋の中に入った。
だが、中の様子は惨憺たるものだった。二人とも、黙ったまま勉強をしている。会話が途切れ、糸口を掴めないまま勉強に移ってしまったらしい。マコトはちらちらソーネチカを見ているが、声をかける度胸がないらしい。
どうやら、またしても俺の出番のようだ。俺は、そっとソーネチカに近づく。
ソーネチカは俺に気づくと、満面の笑みを浮かべた。俺は、そんな彼女の前で仰向けになってみせた。出来るだけ、可愛らしい声を出す。
うにゃん。
「な……何これ可愛い! 凄く可愛い!」
ソーネチカはけたたましい声を上げながら、俺の腹をわしゃわしゃ撫でてくる。くそ、こんな姿を隣の三毛子に見られたら、俺はボスを引退しなくてはならん。
しかし、ソーネチカはお構い無しに、俺の腹を撫でてくる。今がチャンスだ。
俺はソーネチカの手を、両前足でキャッチした。さらに指を甘噛みし、後ろ足で蹴りまくる。俺の必殺技、猫キックだ。ただし、今は爪は立てていない。まったく痛くないように、加減して蹴っている。
だが端から見れば、かなり痛そうなのだ。当然、マコトは怒る。
「こ、こらアレク! 何をやってんだ!」
マコトは慌てて、ソーネチカの手を掴み引き離す。俺は、その場から離れた。
「ソーネチカちゃん! 手は大丈夫!?」
「う、うん……大丈夫。痛くなかったよ……」
そう言いながらも、ソーネチカの方は頬を赤らめている。一方、マコトは真剣な表情でソーネチカの手を握り、怪我がないか確かめていた。
が、ようやく今の状況に気づいた。
「あ! ご、ごめん! そんなつもりじゃなかったんだ!」
マコトはパッと手を離し、顔を真っ赤にしてうつむく。俺は、二人の様子をじっと見ていた。さて、ここからどうなるか?
「ソ、ソーネチカちゃん!」
意を決したように、マコトが叫ぶ。
ソーネチカは伏し目がちに、マコトの顔を見た。
「な、何、マコトくん」
「お、俺は……俺は……君のことが……す……」
マコトは真剣な表情で、ソーネチカの目を見つめる。そこだ! ズバッと言ってしまえマコト! と俺は心の中で怒鳴る。
だが、直後に恐ろしいことが起きた。
次の瞬間、俺の耳が別の音を捉える。すると俺の体は反射的に動き、玄関へと走っていた。
うちの帝王が、帰ってきたのだ。
「ただいまマコト! 友だち来てるのかい!」
大きな声とともに入って来たのは、うちの帝王であるヨシコだ。うちで、一番えらい人間である。めちゃくちゃ怖いのだ。
ヨシコは俺の出迎えも無視してのしのし歩き、マコトの部屋の前に来た。
何のためらいもなく、扉を開ける。
「マコト! 帰ったよ……あ、あれ?」
唖然とするヨシコ。部屋の中では、マコトとソーネチカが、お互いに背を向けた状態で正座していたのだ。
「あ、あれ、え、えーと……マ、マコト! あんた、彼女いるなら鍵くらいかけなよ!」
ヨシコは逆ギレし、部屋を出て行ってしまった。思春期の息子の部屋を、たまにノックもせずに開けてしまう……ヨシコは、そういうがさつな母親なのである。
「か、彼女じゃありません!」
慌てて叫ぶソーネチカ。その言葉に、マコトはガックリしていた。
「じゃあ、またね」
「うん」
玄関で見送るマコト。ソーネチカは帰る支度をしている。
仕方ない。俺が、もう一度行くしかないだろう。
にゃあ。
俺は鳴きながら、ソーネチカに擦り寄って行く。玄関で仰向けに寝そべり、腹を見せた。あられもないポーズで、ソーネチカに媚びを売る。
「え……アレク可愛い! こいつめ!」
叫びながら、ソーネチカは俺の腹を撫で回す。くうう、こんな姿を二丁目のマオニャンに見られたら、俺はボス廃業である。
しかし我慢だ。弟分であるマコトのためにも、我慢なのだ。
やがて、ソーネチカは立ち上がった。はにかみながら口を開く。
「ねえ、マコトくん……また、アレクに会いに来ていいかな?」
「え……あ……うん! いいよ! また来てよ!」
マコトは、嬉しそうに答える。
やれやれ、どうにか上手くいったらしい。俺はそっと、その場を離れた。
今日は、本当に疲れた。人間の恋愛というものは、何とも面倒なものだ。そして……こんな情けない弟分を持つと、兄貴である俺が苦労するのだ。
そんなことを考えながら、庭をのんびり歩いていた時だった。
「アレク兄ちゃん!」
わんわん吠えながら、いきなり突進してくるシーザー。俺はとっさにかわし、ぱっと木に登る。うかつだった。いつの間にか、奴のリードの届く範囲に入っていたのだ。
「アレク兄ちゃん! 降りてきて遊んでよ! 格闘ごっこやろ!」
シーザーは楽しそうに、わんわん吠えてくる。まったく、情けない弟分とバカな弟分を持つと本当に苦労する。
兄貴はつらいぜ。