07
無意識にヴァルは己の首に手をやっていた。
昨夜は用意された人間の宿舎で夜を明かした。なんでも教職員用宿舎の一角らしく、連れて来られた闇のものの借宿がここらしい。
部屋までは茶を給仕してくれた少女が案内してくれた。
ビッキーらとは学長室から出たところですぐ別れた。彼女らには彼女らの用があるらしい。別れぎわ、どこかその顔は、ヴァルには清々しく見えた。ああやっぱり自分たち闇のものは嫌われ者なんだなとヴァルは改めて思った。しかしだからなんだ。こんなことで人間みたいに傷つく心は持ち合わせていない。
……とヴァルは思っている。
そんなあるじを子供のように見守っているのがバリーで。
彼には、あるじがしっかり傷ついていることが分かっていた。当人は無自覚もいいところで、バリーの方は常々思っている。ヴァルは普通の闇のものとは少し違うと。
闇のものなのに、どこか人間ぽいのだ。
バリーがそんなふうに思えるのも、ほかの闇のものより人間に詳しいからだろう。
「――なあ、名前は?」
先行する少女にヴァルが問いかける。往来で見かけた美人に声を掛ける軽薄野郎と肩を並べる気安さで。
「それは今必要ですか」
視線は進行方向、歩きながら少女が問う。
「そりゃあ……今訊いてるんだから、今だろ」
「…………。承知いたしました」
少女は足をとめ、くるりと振りかえる。
「学長からはピアという名を賜っております、汎用型非戦闘用人形形式通番――」
つらつら名乗りはじめた少女にヴァルはぎょっとした。
「い、いや、それはいいわ」
「そうですか?」
「ん、よろしくピア。俺はヴァル。こっちの毛むくじゃらがバリーな」
「せめて狼とか獣人って言ってください」
「はいはい」
ピアは無表情で彼らのやりとりを眺め、
「……お部屋まで案内します」
さっさと背を向けて歩き出した。
「あ、おい。こら、待てよ、待てってば」
しかし歩き出した彼女は止まらない。
「……変なやつ」
ぼやくヴァルは人形の本質を分かっていない。
ユニが特別なのであって、汎用型人形は感情というものが最初から搭載されていない。それなりに思考学習するが、ユニのように自己を発露する段階に及ぶには相当な時間が必要と言われていた。
人形とはまだまだ発展の余地を残した、これから先の、未来のためのものなのだ。
そうしてヴァルたちが案内されたのが、機械仕掛けの照明器具に加え魔法まで働いている、光の洪水をせき止めたような部屋――教職員用宿舎の一室、だった。
(なにが信頼と歩み寄りなんだか……)
ヴァルはまばゆさと騒音に目を眇めた。騒音はもちろん、バリーには聞こえていない。
魔法を学ぶ場所だからか、どこにいてもそれは聞こえている。
それだけだろうか。いや、とヴァルは考えをあらためた。
これはきっと枷のせいだ。意識して首筋に触れる。一見そこには何もないがしかし、存在は確かに感じられた。
『申し訳ないけれど、あなた方に枷をつけさえてもらいます』
学長は魔法を使い、ヴァルたちに見えない首輪をつけた。緊急時に居場所を特定するためのものだと説明されたが、ヴァルは信じていない。
人間の魔法のくせに、この魔法には少しだけ闇の匂いがするのだ。
バリーにそう言ったなら「わたしには計りかねます」と言われてしまった。そのあと「やっぱりヴァル様は違いますね」と感心するものだから横っ面を張り倒してやりたくなったが、やめた。無駄な体力消耗は避けるべきである。それに、変に大声を上げたりして人間に駆けつけられても困る。
ほかにもいくつか我慢していることがある。
その気になれば部屋どころか建物中を暗闇で満たせないこともないが、反抗的に取られるのは本意でない。
だからヴァルたちはおとなしく与えられた部屋で夜明けを迎えた。
寝台の上でごろりと寝返りを打ち、ヴァルは天井を見上げる。
ここまで来たけれど、これからどうしようか。
(まずは……そうだな、人間の街がどんなのか見て)
列車では窓のない貨物車輌や魔族専用車輌に押し込められた。魔族専用車輌もまた窓がなく、外の景色を見ることはかなわかった。それに専用車輌を利用するものはいないのか、ほかの闇のものに会うことはなかった。乗り換えの際の駅構内の移動でも見かけるのは人間ばかりだった。
実は引き籠もっていたヴァルはあまりほかの闇のものの顔を知らない。
闇のものの総数が年々減っていたのは感じとっていたが、実態は知らない。
基本的に闇のものは群れないから、だからヴァルが知らない闇のものがいるように、ヴァルを知らない闇のものがいてもちっともおかしくなかった。
(……で、BBにも会って)
そこから先はちっとも思い浮かばなかった。しかしまあおいおい何か思いつくだろうと楽観的に思考を打ち切った。
部屋の外、近づいてくる気配がある。
バリーも気付いたようで、そちらを見ると頷き返される。裸身に布を纏って寝転んでいるヴァルと違い、バリーはとっくにきちんと身支度を整え、暇つぶしにと所望して手に入れた人間の書物を椅子の上で優雅にめくっていたところだった。
どうやら知らぬ気配ではない。
既知の存在の来訪にヴァルは身体を起こし、魔法で服をさっと身につけた。
コンコンとドアがノックされる。「どうぞ」とバリーが応える。
中から鍵をかけられない仕組みだから、このノックに意味はない。律儀な子だな、とバリーは彼女を評価した。
「入りますね」
宣言とともにドアが開き、ビッキーとユニが入ってくる。ヴァルはゆっくり目を瞬いた。昨日と違ってビッキーが髪を編んでいない。
(……あれどうやってんだろうな)
人間の髪型ことなどさっぱり分からない。あとで聞いてみるかとヴァルは思考を切り替えた。
人間が使う文字が理解でき、話せたとしても、それを正しく読み書きできる魔族は少ない。稀だと言っていい。
だからヴァルがなんでもないように「できる」と答えるのを、ビッキーらは懐疑的に思った。
「ああでも古語になるかもしれませんね。わたしの知識は千年前のものですから」
そう付け加えたバリーに、ビッキーらは耳を疑った。
この毛むくじゃら、ただものではないようだ。いや、魔族である時点でただ者ではないのだが、千年昔であっても読み書きできた魔族は稀少だったはずだ。できなくとも力さえあれば人間を従わせることは十分できるのだから。
しかしまたそれが、魔族が人間に「大封鎖」という敗北を喫する一端でもあったのだが。
「まあ……いいわ。――これは私たちの理念に賛同してくれた魔族全てにお渡ししているものなんですけれど……」
ビッキーが目配せすると、ユニが手提げ袋から分厚い冊子を取り出す。冊子と言うより辞書というほうが正しい。椅子にかけているバリーの方に差し出した。
「これは?」
「困ったときの手引書、といったところです。支援すると言っても私たちは四六時中あなたたちと一緒にいるわけにはいきませんし、あなたたちだって嫌でしょう?」
「まあな」
「分からない時はそれをめくって、緊急時は私たちを呼んでください」
「わかった。……けどさ」
「はい?」
「これ、読めないやつはどうすんだ?」
「読めない方には読めるようになってもらいます」
「どうやって?」
「そのための魔法がありますから」
「ふうん、便利だな」
ヴァルの反応は薄い。その内心は例のごとく「うわあ人間怖い」の嵐だったが。
「あなた方は読み書きできるということなので必要ないと判断しますけど?」
「ええ、結構です」
バリーの返答に同意するようにヴァルがこくこくと頷く。その姿を見た二人の感想は共通していた。主従と言うよりなんだか親子みたい……。
「わかりました。では本題に入らせてもらいますね」
するとユニが意を汲んだように手提げ袋から何か取り出した。幾重にも折りたたまれ掌大になった紙片だ。それを持って部屋の角まで歩いていき、腕を下から上へと振り抜き、紙片を放り投げた。
魔族、もとい闇にものだけに見える魔法の輝きを零しながら紙片がひとりでに広がり、壁に貼り付く。
「地図だ」
ヴァルが興奮した声をあげる。
それはパラデウムを中央に据えて描かれた世界地図で、上辺が北、右辺が東となっている。ビッキーはユニの手提げ袋から指示棒を取り出した。
「今から簡単な世界情勢を説明します」
「お、おう」
「現時点において、局地的な小競り合いをのぞけば大きな武力紛争はどこの国でも起こっていません」
「あ、うん、そう……なんだ?」
「ええ、誰だって堕ちたくありませんから」
「ああ、なるほど」
「ん? どういうことだ?」
「ええとですねヴァル様、人間の方々は暴力行為は野蛮かつ本能的だから、そういうことを率先してやるのはわたしたちに近づくことだと思ってるんですよ。……そういうことですよね?」
バリーがビッキーを見る。
「……そうです。論理的で平和的な解決をわたしたち、いえ、パラデウムは特に望みますし、そう国際的にも主張しています」
「ふーん……」
理解しているのかは不明だが、ヴァルの返事は軽い。
「ですからあなた方にもお願いします、どうか火種になったり、煽ったりしないでくださいね?」
「そこは大丈夫だと思います、ヴァル様はこう見えてもお優しい方なんですよ」
淀みないバリーの発言をどう受けた止めたものかと、ビッキーはユニと視線を交わす。
気だるげにベッドの上で説明を聞いてるやつのどこを見て優しいと思えばいいんだろう。人は見かけじゃないというが、彼らはそもそも人間じゃない。
(冗談なの、本気なの?)
反論もせず言うがままにさせているヴァルもよく分からない。
バリーの獣顔から本気の度合いを読み取るにはビッキーらの経験値は足りなさすぎた。そう、ビッキーだけでなくユニも。彼女は確かに特別仕様の人形だが、だからといって人間以上のことが何でも容易くできるわけではない。
そっと息を吐き出して、ビッキーは気を取り直す。今はとにかくこの「説明」という仕事に専念しよう。
「世界には大小さまざまな魔法学校がありますが、パラデウムと対をなすのは東のリベル、この辺りですね。で、鉄道管理公社の本部があるのがここ――」
知っておいて間違いは無い場所を次々に指していく。あらかた説明したところで、ビッキーは一旦、指示棒を下げた。
「もう終わりか?」
「まだまだ続きますよ。今までの言ったことは大事だけれど重要度は中、といったところ。もっと大事なことがほかにたくさんあって――ユニお願い」
頷いたユニが地図に触れると、世界が赤と青の二色で塗り分けられた。
「なんだこれ」
「信仰の分布図というか。ルクス会とトリア教、いくつかある思想団体の二大派閥の勢力図といいましょうか」
「思想? よく分からんがそいつら、なにが違うんだ?」
「へえ、ルクス会まだあるんですねえ」
魔族の異なる感想に二人は顔を見合わせた。「……ええとですね」とユニが説明を引き継ぐ。
「ルクス会は昔からある団体で、あなた方、魔族の全盛期に世界中で信仰されていました。兎にも角にも光の神を崇めているところです」
説明にうんうんと頷いているバリー。大封鎖前からいる魔族にはやはりこちらは馴染みがあるようだ。
しかしそうなるとヴァルの反応が気になってくる。
彼はこれまで人間の生活など関心がなかったのだろうか――ビッキーらがこう考えるには理由がある。
今日まで居残った魔族というのはそれなりの知能を有したものばかりで、人間の生態に関心を払わず好き放題やっていたものはみな消滅してしまったことを知らないからだ。
「トリア教は近年特に活動的なところで、光と闇はおなじぐらいであるべきだ、というのが彼らの主張です。彼らの勢力圏内ならばあなた方の行動も割と自由にできると思います」
「ふーん、寛大なやつらだな」
「だからといって何をしても許されるわけじゃありませんから」
「……分かってるよそれくらい」
釘を刺したビッキーに、鼻白んだ顔で応えるヴァル。
「ええ、その調子でどうか自重なさってください」
何だか腹が立ってきて、ビッキーはにっこり笑い返した。
平然顔のヴァルだが「あ、やばいどうしよう何か地雷踏んだかも」と内心青ざめていた。バリーはそんなあるじを「あーあ、言わなきゃいいのに」と憐れんでいた。
その横でユニの説明は続く。
「ちなみにパラデウムでは誰が何を信じようとも、それが他者を傷つけたり、周囲に害や悪影響を及ぼさない限り許容しています――」
*
世界に思想、教えの類は数あれど、それらには共通している事項がある。
それは世界の成り立ち。
全ては「無」から始まった。
無から「光」「闇」「混沌」が生まれた。
光と闇、二柱の兄弟神はああでもないこうでもないと言い合いながら世界を形創っていった。妹である混沌はいつも兄たちの邪魔ばかりするから、怒った兄たちは妹を深い穴底に閉じ込めた――。
信仰云々はさておき、この物語はおおよその人間が知っている。
混沌は、幼子を戒める教訓の喩えに使われる。
悪いことをすれば混沌のいる穴に閉じ込めるよ。暗くなったらお家に入りなさい、でないと混沌に連れて行かれて穴から一生出られないよ……等々。
さて。
人も魔もあずかり知らぬ場所で。
彼らは――光と闇、兄弟神は呑気に語らいあう。
「ああもう起きちゃったの?」
「ずうっと寝ていればいいのに」
「あーあ。どうして起きちゃうのかなあ」
「しょうがないな」
「しょうがない妹だ」
「……うふふ。だって、ねえ。退屈なんだもの――」