28
*
タマラは車掌室の中で両手を握りしめた。
祈りを捧げる対象が神でなくなってもう数十年、けれどそれを人には言えず、ここまで生きてきた。
最後の最後にその傍で死ねるなら本望だ。
タマラは制帽を脱いだ。
女だろうが一人の人間として扱う公社の姿勢にはいつも感謝している。決して甘い世界ではないが、努力に応えてくれるから仕事をしても張り合いがあった。
……それも今限りだ。
何度も悩んだからもう後悔はしない。
(これがわたしの夢だから)
――タマラには夢がある。
かつてのように、魔族が人間を虐げる世界。そんな混沌とした世界で魔族のもとに傅いて、虐げられたい。
だけどそんなこと、他人どころか家族にだって言えない。ずっと後ろめたさを抱えて生きていた。
きっとこの夢は叶わない。そう思っていた矢先、大封鎖が解かれた。
束の間喜びに浸ったタマラだが、現実はそう簡単でないことはすぐ知れた。
やはり夢は叶うことはないのだ。
諦めの境地である所に、声が聞こえた。
『ねえ、それでいいの?』
叶わないからと、なにもしないまま終わるのかと声は言う。
『あなたの信じるものの偉大さを世に知らしめてあげるのよ』
きっと彼らの手助けになるといわれては、心が動かないわけがなかった。
自分だけが彼らを救える――心が震えた。
タマラは室内に隠しておいたナイフを取り出した。その切っ先を服の上、心臓の上に押し当てる。
鼓動の高まりを感じながら、唾を呑んで、そっと囁く。
「ほんとうに……叶えてくれるのよね」
今更だが、確認せずにはいられなかった。
『もちろんよ』
いつもの声が応える。
「……なら、いいの」
それさえ知れればいい。タマラは目を閉じた。
――彼女の命とひきかえに、照明が消える。
それはダリオへ事前に知らされていた合図だった。
彼が暴れてもいい合図。
車掌の彼は先頭、機関車から客車へと戻ってきたばかりだった。暗闇に紛れて制帽を脱ぎ、襟元をくつろげる。
ズボンのポケットからカードを取り出し、破り捨てると暗視の魔法が展開した。これで暗闇も関係ない。
尻ポケットからコインを二枚取り出して、無造作に床に投げた。
なにも持たないダリオの手の中、立派な両手剣が現れる。
「――」
掌中のずっしりした質量にやりと口端を吊り上げ、短く歓喜の口笛を鳴らす。
視界に入った乗客の後ろ首へ刃を振り落とした。ぶん、と空気が割ける。鈍い感触を後押しするように力を込めると血しぶきが上がった。周囲を濡らす赤色はダリオの顔も汚して、唇に撥ねたそれを舌で舐め取る。
(……血だな)
それ以上以下でもない。
ひょっとしたら甘美かな、と思ったがそんなことはなかった。つまらない。
隣に座っていた客がわけも分からず狼狽えながら、自分の足下に転がってきたもの拾い上げて悲鳴をあげるから、その口に切っ先を突っ込んだ。潰れた悲鳴に目を眇め、剣を引き抜く。ぐったりとした客の服に剣をなすりつけ血を拭った。
暗闇の中、車内はにわかに騒然となる。
「落ちついてください!」
ダリオの後ろ、悲鳴を聞きつけたのだろう、入れ違いに機関車に向かったはずの憲兵隊員の声がする。わかっていたが反応が早い。
そのうち後部車輌の隊員たちもやってくるだろう。
ダリオは舌なめずりした。
餌は活きがよいに越したことはない?
強い者と殺りあいたい。そう思って公社に入った。憲兵隊員になるのはその足掛かりだった。描いた筋書き通り隊員にはなれた。強そうな奴の目星もつけていった。きつい訓練も夢があれば楽しい。
ある日、上官に呼び出された。
『お前は強い。どうだ、車掌やって見る気はないか』
はじめ、意味が分からなかった。
憲兵隊員は不測の事態に備え列車運転技術を叩き込まれるし、車掌見習い研修もある。隊員から実際そちらに転向することもないことではない。
だけど、ダリオの筋書きにそれはなかった。困惑した彼はその場ですぐ断れなかった。それがいけなかった。断るきっかけをなくしたまま彼は車掌になり、ずるずる続けている。
そんな自分が許せない。
俺はこんな弱い人間だっただろうか。
そんなわけがない。
そうだ。
俺の夢はなんだ。
俺はこんなところで終わる人間じゃない。
『そうよ。あなたはここで終わっちゃいけないわ』
囁く声があった。
その声が、彼の背を押す。
『さあ、いまよ』
ダリオは笑って頷いた。下げた剣先を後ろへ、弧を描くように振り上げた。
「ふひ、っひ」
運転室の中。
ガエルは豚が鳴くような声でわらった。
さっきまでうるさかった戸を叩く音が止んでせいせいする。誰も乗り込んでこられないよう扉には封印と扉そのものを強化する魔法がかかっている。簡単に解けるものではないと聞いているし、それを信用している。
何と言っても女神がそう言った。
女神は彼の頭の中でいつも笑っている。優しく、無邪気な声であなたは間違っていない、あなたは正しいのだと囁く。
だからガエルは自信を無くさない。
胸の中にある憤りをパラデウムにぶつけてやるのだ。
――どうして大封鎖を解いたりしたんだよ。
魔族など百害あって一利なし。この世に闇は要らないのだ。
光だけが世界を救ってくれる。
だというのにどうして世の中は、光と闇は同じくらいあった方がいいとかいう、妙なやつらがはびこるようになったのだ。
おかしい、間違っている。
(だからぼくはパラデウムの奴らにぶつけてやるんだ……!)
鼻息荒く操縦桿を握りしめる。速度計の針は最高値へと近づいていく。
『そうよ、がんばって』
頭の中の声援に、ガエルは力一杯頷いた。
彼女は三者三様を高みから眺め、くすくすと嗤う。
愚かしげに、また、愛おしそうに。
「うんと面白いもの、わたしに見せてちょうだいね」
*
「よし、できたぞ!」
意気揚々と言い放ち、ヴァルはグレーテルに手鏡を差し向けた。
水月邸の一階にある広間、その一角で椅子に座ったグレーテルの背後にヴァルが立っている。彼女はおとなしく鏡を受け取ると覗き込んだ。椅子の後ろに立つヴァルが映り込むのを角度で追いやって、自分の耳裏あたりが映るようにする。
「どうだ……?」
「ほわあ……ヴァルさん上手くなりましたね」
グレーテルは感嘆す、鏡を膝の上に置いた。耳の下からのびる三つ編みされた自分の髪を撫でた。以前は不格好な編み目にくわえ、後れ毛が余っていたがそれもない。掛かる時間も半分以下になった。
「もー練習しなくても大丈夫ですよー」
くるりと振りかえると、ヴァルの尻尾を喜びに上下するのが見えた。
「そうか? ほんとにそう思うか?」
興奮気味にしっぽが揺れる。
「はいです。こんなことで嘘言わないですよー」
「そうです、そういうことはできないんですよ」
用事を終えて広間にやってきたヘンゼルが一言付け加えた。
「ふうん、そうなのか」
「ええ、人形ですから。仕える者を騙すことは出来ないんですよ」
「覚えとく。おまえら他のやつより喋るから、そういうのだったってすぐ忘れちまうんだよなあ」
ヴァルは背後のソファーにどかっと腰を下ろした。壁に沿って並ぶソファーはここに最初からあるもので、グレーテルの座ってる椅子はよそから引っ張ってきたものだ。
ヴァルが座ったのを見てもう用は済んだと考えたグレーテルが立ち上がる。ヘンゼルがさりげなく姉のおさげを手にとった。
「……似合ってる」
「えへへ」
弟に誉められて、得意げにグレーテルが笑う。
いや編んだの俺だけどな、と思ったが、姉弟の微笑ましい空気に水を差すのも悪いとヴァルは口を挟むのを控えた。
こういう場面に遭遇するたび、ああグレーテルが姉だっけと再認識するヴァルだ。世の中見かけ通りでないといういう見本である。
温度のない声でヘンゼルが訊いてきた。
「……あの、バリーさんは?」
「部屋。本読んでるから置いてきた」
バリーは時間があると教授の部屋から持ってきたらしい本を読んでいる。といっても教授の研究に関わるような専門書ではない。教授の仕事は魔族研究だ、その対象がそんな本を読んでも意味はない。ではバリーが何を読んでいるのか、ヴァルは知らない。答えられない。訊けばバリーは本の内容を教えてくれるものの、興味がないから頭に残らないというのが正解だ。
ひと仕事終えた気分で、ヴァルはソファーに深くもたれた。
カーテンで塞がれた窓の向こうには闇が広がっている。
何気なく瞬きをした視界に影がちらついて、ヴァルは瞬きを止めた。
(あ?)
影を払うように意識して瞬きをする。
誰かが自分と「視界」を繋いでいる。
ヴァルは広間を見渡しながら少し考え、部屋に戻ることにした。
がちゃ、と物理的に錠の下りる音にバリーは顔をあげた。
ノックもせず入ってくる者はヴァルしかいないので本来なら気にもとめず読書を続けるところだったが、そうもいかない。
バリーは椅子に座ったまま、ヴァルを見上げた。
あるじの様子がおかしい。
表面上は落ちついて見えるが、尻尾を見ればやや興奮しているのが分かる。
「ヴァル様?」
「……ああ、」
すぐには答えず、ヴァルはベッドの縁に腰かけた。いつもは無造作な仕草が、何故か見ていて危なっかしく感じる。
続きん読む気にはなれず、バリーは読んでいた本にしおりを挟んだ。
ヴァルが後ろ手についた腕に体重を掛けたせいでベッドが音を立てて軋む。
「……BBだ。あいつが俺と視覚を繋ぎやがった――」
そう口にするヴァルの声は、語尾が興奮に掠れていた。
「あの方は確か東に行かれたんじゃ……」
「ああ、どこだかは知らないが……いや、列車には乗ってるみたいだぞ。どうやら妙な騒ぎに巻き込まれてるらしい」
視覚を繋ぐ――BBは魔法で自分の見ているものをヴァルにも見せているらしい。それも強制的にだ。ひょっとするとヴァルの方から断ち切ることもできるかもしれないが、どちらにせよ、ヴァルはこの状況を楽しんでいるようだった。
あるじが楽しいのなら、それでいい。どのみちバリーにはどうすることもできない。BBはバリーには到底太刀打ちできない格上の存在である。
BBの方も面白いものを共有したいという軽い気持ちからやっているこいとなのだろう。
ただ一つ気がかりなのは。
(はあ、妙な騒ぎ、ですか。……こちらに飛び火しないといいのですけど)
杞憂に終わればいい――……そんなバリーの願いは叶わない。
ぶわっと全身の毛が逆立った。
「あ――、これ、は……」
バリーは助けを求めるように喘いだ。しがみついたせいで椅子ごと後ろにひっくり返りそうになり慌てたら、どっと汗が噴き出した。高鳴る鼓動が焦りを加速する。
どこに視点を定めていいのかわからず、意味をなさない言葉をあげていた。
にや、といたずらっ子のように笑うヴァルが視界に映って、ようやく伸ばされた手に気付いたような安堵を得た。
(これは……)
バリーの目は部屋の中を映しているはずで、バリーにもそれは感じ取れている。だけどそれとは別に、誰かの見ている光景が自分にも見えている。
これがヴァルの見ている、BBの視点か。
感慨深くその光景に浸ろうとして、バリーはそんな自分が情けなくなった。巻き込まれたくないと考えた自分は何だったか。
そうだ、蚊帳の外にはなりたくなかった。
何のことはない。無力なバリーは、いかようにでもあるじの関心をひけるBBが妬ましいのである。




