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長らく「魔法」は魔族だけのものだった。
人間ができることはせいぜい、家の周りに篝火を焚き、たいまつを手にとって彼らを追い払う程度のことで、それも知能の低い、弱い魔族だけに限られていた。
誰が光子を発見したのか、魔法を初めて使ったのはどこの誰なのか――。
それは、幾度となく調査と議論が繰り返されても真実を突き止めることが出来ず、今日まで至る命題となっている。
とにかく、「光子」「魔法」という言葉がいつのまにか人間社会に定着しているのだけは確かだった。
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(……どう見ても俺だな)
エルネスはしげしげと己の身体を見つめた。
書架の傍で本を開いて突っ立っている自分の姿は、自分が世界を滅ぼしたとは露ほども思っていない、いたって普段の時の顔だ。
エルネスの通う魔法学校は図書を保管する専用棟を設けていないから、溢れた蔵書を収めるために図書室は第一から第三まであり、それぞれが隣接している。しかし部屋同士を繋げていないから、目的によってはいったん部屋を出て入り直さなくてはならない。面倒だという声が圧倒的に多いのだが、改修費用云々を言い訳に手つかずである。
エルネス――の本体がいたのは学術とは無関係の物もある第三図書室だった。第一は倉庫兼持ち出し厳禁の類が、第二はおもに学術専門書といった具合だ。
近年の印刷技術向上が書籍の部数を増やしているものの作家の数は一握りなので、実は書架にかなり余裕がある。これもこの学校が図書室を改修しようとしない要因になっている。
魔法学校は近年あちこちで乱立しており、その中身も、エルネスが通うところのように一般の学校をあとから魔法学校に作り替えたような所や、金儲けのために体裁だけ整えたところなど様々だ。魔法を最も効果的な学ぶ手段は魔法使いに師事することだが、魔法使いを見つけても弟子入りさせて貰えるかは奇跡並みのことだと言われている。魔法使いは探せば何とかなるが、人を教え育てられるだけの実力ある魔法使いは少ないのだ。
「……」
エルネスは興味深く、銅像のように動かない自分の頬をそっと指で突こうとした。しかしその指先は皮膚の奥に吸い込まれるように消えた。
「そうだ言ってなかったけど、人には触れないからね」
「……そうなのか」
頬から離せば指先はちゃんとあって、奇妙な気分である。
サイラスに誘われ地上に降り立ったものの、あれほど頑なに動かなかった足裏が学校の床を踏み、書架の間を歩いている感覚にまだ戸惑っている。
(動かなかっていうか、あれはそうされてたんだよな……)
サイラスの皮を被った神とやらをちらと見やる。
エルネスは別に信仰心が篤いほうではないが、困ったときやふとしたときに祈ったりするし、子供の頃は悪さをすれば「混沌に連れて行かれるよ」と脅されたもので、精神の奥にそれは根付いているといえた。
だからこそ、自称・神がすぐそばにいることにどうも違和感を覚えてしまう。手を伸ばして届く距離に神、である。
(……俺から近づいてるわけじゃないもんな)
寄ってきたのは向こうである。だからきっと何も問題はないはずだ。不敬だとか妙な因縁をつけ末代まで祟ったりしないだろう。そうであって欲しい。
「なに?」
「いいや、べつに」
エルネスは動かない自分の手元を覗き込んだ。
表紙の次、遊び紙をめくった次の紙に大きく「フィーディア旅行記・二」と記されている。
「……どうしてこの本なんだ」
「さあ? それはロワンに訊いてみないことにはねえ?」
「故人じゃないか」
肩を竦めてみせるサイラスに、エルネスはため息を吐きたくなった。
サイラスが言うに、発端はこの本の作者「ロワン・ミヤ」なのだそうだ。
「ある決まりで本を読んだら世界が滅ぶ魔法を仕込んだといってね、彼はぼくらと賭けをしたんだ。発動したら、自分も神にして欲しいってね」
なんだそれは――聞かされて、エルネスが最初に抱いた感想だった。
憤るには、眼下の光景は滅んだようには見えないし、何だか途方もない夢想を聞かされそれをどう受けてとめていいものか分からなかった。
今だってそうだ。
時間が止まったような室内を改めてエルネスは見渡した。そこにいる人々は人形のように不動だ。呼吸に胸が上下し、まばたきをすることもない。
けれどサイラスいわく、時間は決して止まっているわけではないのだそうだ。遅々ながら時間は動き、世界は滅びの最中にあるのだという。
本当なら一瞬の出来事を、神はその力で間延びさせているのだ。
賭けを覆すために。
「ほらほら、これまでなに読んできたか思い出してよ」
「そうは言うけどな……」
催促されても、エルネスは途方に暮れるだけだ。
自分が読んだ本と言ってもそれがいつからの分なのか、始まりはここへ入学してからの分なのか。サイラスから、それに関する助言はない。
だけどもおそらく、神は答えを知っている。なのにエルネスにやれと言う。
なんだか不可解で訊いてみれば、できないのだと、サイラスは言った。
確かに賭けをしたのは神である自分だけれど、自分達は直接手を出せないのだと。もしも賭けをした時点でロワンが人間でなかったなら、それは可能らしい。
(神ってのも難儀なもんだな……)
どうもサイラスの皮を被っているせいで、人間と同じ感覚で見てしまうエルネスだ。
「あのさ、ちょっと寄り道していいかな?」
「いいけどあんまり遠いところはだめだから。時間の無駄遣いは極力避けてくださいな」
「はーいはいはい」
「なにその返事……いいけどさ、……寄り道ってどこに?」
一人で向かうつもりだったエルネスは出鼻をくじかれ、サイラスを振り返った。
「……ついてくるつもりか?」
「もちろん!」
「まあ……そうなりそうな予感はあったけど」
サイラスを振り切ってまで行くつもりはないし、たとえ振り切ってもひょっこり前からやってきそうな気がする。何と言っても神だ。
エルネスは図書室を出た。
自分の隣をサイラスが鼻歌を混じりに歩くというのはなんとも奇妙な心地がする。すれ違いざまに嫌味を吐かれたり、廊下でわざわざこちらを見つけて嫌味を吐きにくる、そんな彼しか知らないからだ。
「それで、どこに行くの?」
「どこっていうか……人に、会いに行く」
口にしてみると心まで弾むのだから不思議だ。
人の姿はあるのに静かな廊下を歩けば、するはずの足音が、呼吸の音が、なにかもが時間に吸い取られたように響かない。
自分の知る世界なのに、初めての場所に来たみたいだ。もしきっと一人きりだったらエルネスは遅かれ早かれ発狂しただろう。そうならないのは……と考えて、隣を見れば視線に気付いたサイラスがこちらを向く。
「どうかした?」
「いやあ……まさかサイラスと連れ立って歩くっていう貴重な機会を得るとは思わなかったから」
「ああ、仲良くないもんね」
「……知ってるなら、なんでこいつにしたんだよ?」
「んーそうだね……親しすぎても、君が話を聞き入れてくれるか怪しかったからかな。どっちにせよ、君が端から聞く耳持たないような石頭じゃなくてよかったよ」
「……つまり、俺にとって効果的な人物を探したらこいつだったってことか」
「そういうことになるね」
さらっとした説明に、エルネスは肩を竦めた。サイラスという外見に関してはもうなにも言うまいと決めた。
道なりに進んで廊下の角を曲がり、階段を使って一つ上の階へ進む。
目指しているのはエルネスが籍を置くクラスの教室だ。目的の人物がそこにいるかは分からないが、エルネスが教室を出たときはまだそこにいたから、用がない限りそこから出ていないはずである。今のところ廊下にその姿はない。
廊下に突き出した表札の文字がはっきり読めるようになると、エルネスは無意識に唾を飲み込んだ。
教室の手前の出入り口は開いているようで、誰かの靴の爪先がそこからのぞいている。
その茶色く丸い輪郭に、エルネスはどきっとした。
まさか――……早足で近づけば、予感は的中した。
戸口で、今まさに教室を出ようとして後ろの友人を振り返った姿勢で固まっている少女がいる。年頃の少女のなかでは小柄で、華奢で、愛くるしい顔をした彼女は見たものの庇護欲をかき立てる。
エルネスもそうなった一人だ。
「……」
少女の視線の先を確認して、エルネスはその間に割り込んだ。分かっていたことだが、その瞳に自分が映り込むことはない。彼女の瞳は友人を映した時で止まっているのだから。
「きみが会いたかったの、その子?」
「ああ」
エルネスは臆すことなく頷いた。
誰にも、彼女へのこの気持ちを隠すつもりはない。言葉にしたことはないが、いつだって態度では示してきた。
エルネスはそろりと息を吐いた。
これから自分がすることを勇気づけるために。そして、どうにもならなくて世界が滅ぶしかなくなったとして後悔しないために、彼女の姿を目に焼き付けておきたかった。
「名前はええと……クレアドール・セルシュ、だっけ。あ、ねえ、ひょっとして、この子の方がよかった?」
言葉にしなくても、神は彼女がエルネスにとってどんな存在か手に取るように分かったらしい。今からでも変えようかと提案してくるから、エルネスは大丈夫だと断った。
クレアドールはクレアドールだからいいのだ。それを汚すようなことは断じてあってはならない。
そんなことを彼女に言ったなら可哀想なものを見るような目をされることは間違いなかった。しかしそんな仕打ちもエルネスにはご褒美だ。無視や黙殺でなく、ちゃんと態度に示してくれるというのは自分を相手にしてくれている何よりの証拠。自分は彼女にとって有象無象じゃない、エルネスとして認識されているのだ。
こんなことを思う自分が気持ち悪いことをエルネスはちゃんと理解している。それでも彼女を想う気持ちは止められないのだ。
惚れてしまったのだからしょうがない。
クレアドールがどう思っているかは知らない。自分に都合よく解釈したいところだが、人の気持ちだけはどうすることもできない。
できることなら彼女も自分を想ってくれていたらいいのだが――。
(……滅んだらそれも分からないのか)
曖昧な今の状態もそれはそれで悪くないけれど、やっぱり……知りたい。
「……」
エルネスは目線をさげた。クレドールの、流れるスカートの裾をじっと見つめる。
「あの、さぁ……」
「なんだい?」
「これ、めくれるか……?」
「……神妙な顔で何を言うかと思えば……、できないよ」
「あっそ」
落胆はしない。けれど、諦め悪く手を伸ばせば指先は布地に触れずに透けた。
人には触れないと言われたが、その人が身につけていたりするものならいけるのではと思ったのだ。多少、下心もあった。
エルネスはクレアドールのつむじにそっと鼻先を近づけた。時々そうやっては、耳まで真っ赤になった彼女に怒られていたが、今日はその声は聞こえない。
そっと鼻から息を吸って、落胆する。こんな非常時だからか、いつもの彼女の匂いがしない。
――ああだめだ。
これが最後だなんて嫌だ、許せない。
自分以外を目に映したまま彼女が死ぬのは耐えられない。
クレアドールを抱きしめたい、その甘い匂いを心ゆくまで嗅ぎたい、堪能したい。
だったらすることは一つだ。
何が何でも世界を救ってみせる。エルネスは決意した。
(きみの……いや、俺のために!)
クレアドールを前に、そう固く誓った。




