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ぱちり、と目を開けたエルネスはその目を瞬かせた。
確か、自分は図書室にいたはずだ。
「……どうなってるんだ」
どういうわけだか靴底は地についておらず、眼下には普段は見ることのかなわない彼の生活圏である街並みが広がっている。
エルネスはそこにある魔法学校のいち生徒で、昨年の年間優秀生の一人選ばれるくらいだから、自分でもそこそこ出来がよいことを自覚している。だがその見た目は地味なほうで、ぽやっとした風体だから、とても出来るやつには見えないというのが周囲が抱く第一印象だ。話してみれば芯のある男だとわかり、なるほど年間優秀生に選ばれるのも納得だと手のひらを返す。己の見てくれには自覚があるエルネスだから、批評にいちいち腹を立てたりはしない。自分は自分だと思っている。
(……これ、硝子か?)
あるのかないのかわからない床の上を、おっかなびっくり移動しようとして、靴底が張り付いていることに気付く。
わけが分からない。だが身体は動くのだ。
だったら脱いでしまえばいい。
「……なんで、だ……っ?」
靴を脱ぐ、そんな簡単なことが出来ない。何度やっても足を靴から引く抜けない。ひくらはぎをつかんでひっぱりあげてみようとしても、無駄だった。エルネスの知らぬうちに足裏は靴と一体化してしまったらしい。
お手上げだと、しゃがみ込む。
そんなことをしてもひっくり返って街へ落ちることがないのだから、やはり床のようなものが足下にあるのだろう。
(……魔法か……?)
見当をつけて足下を見据えながら、そっと手を伸ばす。
指先は何にも触れず、空を切った。
「……やっぱり魔法か」
もしくは夢だ。
起きていたとばかり思っていたが、本当は図書室で居眠りして、これはそうやって頭の中で見ている夢の中なのかも知れない。
それがいい証拠に、周囲に他人の姿はない。
いや、他人がいたらそれはそれで問題があるのだが……。
(……俺疲れてんのかな)
はあ、とやるせなく息を吐く。
「悪いね、夢じゃないんだこれ」
はっとしてうつむけていた顔をあげる。
手を伸ばせば届きそうで届かない距離に立って、エルネスを見下ろす存在がいた。ついさっきまで誰もいなかったのに、それは忽然と、音もなくその場に立っていた。
まばたきも忘れて、エルネスはそれを見上げた。
「……サイラス?」
それはエルネスのよく知る顔。
何かにつけてエルネスをライバル視して因縁をつけてくる鬱陶しい輩だ。
鬱陶しいがいちいち関わると面倒だし、実力は紛れもない本物だと知っていたからエルネスはいつも好きにさせていた。貴族の次男坊だとかで、容姿もいいから中身を知らない女子からはモテていた。
「……おまえ、サイラスじゃないな?」
ゆっくりエルネスは立ち上がった。本当は後退って距離を取りたかったが、出来ないのだからしょうがない。立ち上がったのはせめてもの防御策だ。
「そうだね」
あっさり目の前のサイラスは認めた。
やっぱりな、とエルネスは頷いた。おかしいと思ったのだ。自分が知る限り、サイラスはこんな頭の軽そうな喋り方をするやつではない。
「この姿は君の記憶から拝借したんだ、どう? そっくりでしょう?」
得意げにはしゃぐ子供みたいな科白が、できれば関わりたくない男の顔から出てくるかと思えば自然、エルネスの表情は厳しいものになる。
「……見てくれは、な」
「あれ、お気に召さない?」
どうせ夢で会えるのなら好きでもない男より、女、それも惚れた女なら尚嬉しい。
が、口にするのはやめた。惚れた女がこんな頭の悪そうな喋りを披露してきたら泣いてしまう。
「ま、いいや。無駄話はこのくらいにしないとね。時間は惜しい」
「時間? 夢じゃないのか……?」
「そうじゃないって最初で言ったじゃないか」
聞いてなかったの、と唇を尖らせ、目を眇めたサイラスに非難される。
「……」
偽物なのに本人同様腹が立つのはなぜだろう。やはり外見が大きいのかな、とエルネスは頭の片隅で結論を出した。違う見た目だったら多少なりとも受ける印象が異なっただろう。
「あー……そういえば、言ってたような」
「言ったんだよ。君の足下にあるのは現実だし、君がいる場所も現実の空さ」
「……俺、空に浮いてるの?」
じゃあやっぱりこれは魔法なのかと結論づけようとするエルネスだったが、サイラスはそれを言下に切り捨てた。
「正確に言うと、今の君は身体から抜け出た精神体なんだ」
「……なんだって?」
言葉が耳を滑った。
サイラスは行儀悪くエルネスを指差して、
「君は死んだも同然なんだよ」
「……」
唐突すぎて理解が追いつかない。
こいつは何を言っているんだ――その思いがありありと顔から読み取れたのだろう、サイラスが肩を竦めた。その仕草がまた上手い具合にエルネスを苛つかせる。
「この世界は今滅びようとしている真っ最中なのさ。きみのせいでね」
サイラスの口から飛び出した話は、さらにエルネスを困惑させた。
「…………言ってることが分からないんだが?」
死んだ覚えもなければ、世界を滅ぼした原因だと言われる覚えだってない。
「そうだね、君の反応は正しいよ。なんてったって、君は本を読んだだけだからね」
ますますわけが分からなくなり、エルネスは額を押さえた。
本……図書室にあってしかるべきもので、確かにそれを目当てにして自分はそこにいたはずだ。だがどうしてそれが世界が滅びることにつながるのだ。
――それにどうしてこいつはそんなことを知っている?
「……おまえ、サイラスの格好して何を企んでるんだ」
「企むも何も、お願いしに来ただけだよ」
「……は、おねがい?」
「そう。ぼくらにはできないから。いやほんとはできるんだけど、約定でね、手が出せないんだ。だから君にやってほしいんだよ」
「……俺のせいとか、やってほしいとか、言ってること矛盾してないか」
「そう? 説明がまずかったかな?」
「そうだな、俺ちっともわかってないから」
え、そうなの? とでも言いたげな顔に、エルネスは頭が痛くなった。本物のエルネスの言いがかりも聞いている分には疲れたが、こいつはもっとかもしれないとさらなる予感にそなえ、息を吐いた。
「……困ったな、何から話せばいいんだろ」
「まずはお前が何かから教えてくれ」
「あれ、言ってない?」
「聞いてない」
「そっか、ごめん。それじゃ改めて、ぼくらはきみたちの神です」
朝食をとりながら夕食について予告するような軽い告白だった。
こいつは何を言っているんだろう、エルネスはうろんげにサイラスを見やった。ぼくらと言うがサイラスの身体は一つしかなく、目を擦ってもエルネスにはそうとしか見えない。
――すると。
「だからいったじゃないないか、絶対信じないって」
「そうだけど、見知った奴の方が話が通じるって思ったんだからさ、そっちだって結局妥協したんじゃないか」
「そうだけどさあ――」
一人会話劇を繰り広げ始めたサイラスにエルネスはぎょっとした。
(え、ひょっとしてホントに……?)
子供でも知っている話が脳裏に蘇る。
――全ては「無」から始まった。
無から「光」「闇」「混沌」が生まれた。
光と闇、二柱の兄弟神はああでもないこうでもないと言い合いながら世界を創っていった。妹である混沌はいつも兄たちの邪魔ばかりするから、怒った兄たちは妹を深い穴底に閉じ込めたという――。
信仰云々はさておき、この物語は世界中で広く知られた神話だ。
「まさか……光と闇の、神?」
思わず人差し指を向けた。
サイラスが微笑んだ。
「そうだよ」
本物のサイラスは常にエルネスに仏頂面しか見せないから、偽物とはいえ貴重な瞬間だったが、それにエルネスが気付くのはかなり後のことだ。
それよりもうっかり指差してしまったことに慌てて引っ込める。どうしよう天罰とか下るだろうかと嫌な汗をかくも、サイラスの表情は穏やかで少しほっとする。
「想像してたのと違ってがっかりしてる?」
「……ああ、まあ、」
神相手に正直に言うのはどうかと思ったが、これまでの態度を思い返せば今更かと居直ることにしたエルネスだ。
「いいよ、難しく考えなくて。ぼくらも考えすぎて空まわっているからね。この喋り方もね、どうやったら君を驚かさないか考えた末なんだよ。俗っぽい感じ出てる?」
エルネスは返事の代わりに頷いた。
「よかった、そこは成功だね。じゃあ質疑応答に戻ろうか。次は何が知りたい?」
「何というか…………全部」
「もっともな意見っちゃ、そうだけど……そうだな……」
いつの間にかサイラスの手に一冊の本が握られている。
「これは君が死ぬ前に読んだ本なんだけど、覚えてる?」
表紙には見覚えがあった。というか距離が距離なので、たとえその場から動けなくとも表紙は充分に読み取れる。
「フィーディア旅行記の二巻がどうしたっていうんだ」
全五巻構成の大衆娯楽小説だ。内容は、王位継承権を捨てた少女が幼なじみらと各地を巡って繰り広げる珍道中を描いたものである。
それがどうしたというエルネスに、うん、とサイラスは神妙に頷いて手元を見やり、表紙を開いた。
「ねえ、エルネス・エトワイル。実はね、きみがこの本を開いた瞬間、この世界は滅びることが決まったんだよ」




