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混沌の娘  作者: 霞初月
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23


 * 


 声がする。

 くすくすと、笑みを含んだ女の声が囁きかける。

 自分にだけ聞こえる女神の声。


「ホラ、逃ゲナイト捕マッチャウヨ?」


 分かっているさ、それくらい十分承知している。

 悲鳴をあげる村人たち気付かれぬよう、村の外を目指す。

 機を見、村から村へ、街から街へと移ろうのは物売りをする彼の仕事には常で。けれどいつもは黙ってお暇するようなことない。挨拶は明日を繋ぐ信用だ。物売りなんていう不安定な仕事に人脈は欠かせない。

 そんな分かりきったことを蔑ろにするくらい今は、切迫した事情があった。


 その声が聞こえるようになったのはいつからだったろう。


 ひとところに留まらない生活を続けることに妙な焦燥感を抱くようになったころだ。

 何気ない瞬間、このままでいいんだろうかという漠然とした思いが脳裏を掠めた、ため息が零れる。二十歳を幾つか過ぎていた。寄り添う相手もいない。これといって何かあるわけではない。日々は同じ事の繰り返し。涸れていく心。不安は日々ふくれあがる。

 待ち構えていたかのような底のない穴に落ちた男は先の見えない己の未来に恐怖した。

 この仕事は親から引き継いだ仕事だった。ついて回って傍で見ていたからやり方だけは分かっている。手っ取り早くて簡単だと思ったし、継ぐのは自然の流れだと思っていた。

 いつもはそんなこと考えもしないのに。

 いいや、目を背けていただけだったんじゃないのか?

 ――胸のつかえがとれず、悶々として三日ほど過ごしたころ。


「ネエネエ、遊ボウヨ?」


 幻聴というには熱っぽく。それは必ず夜中に囁きかけてきた。

 不思議なことにその声を聞くとなぜか、心が羽が生えたように軽くなった。幻聴を疑ったのは最初のうちだけで、男は声との会話を楽しむようになった。


「デキルヨ。ダイジョウブ。キットタノシイヨ?」


 聖堂を壊してみたら、と声は言う。


 大丈夫やり方は教えて上げるからそのとおりにやればいいの誰もきみを疑ったりしないよ大丈夫わたしを信じて、ね、ね、ほら上手くいったでしょう――?


 なるほど確かに、彼女の言うとおりにすればみんな上手くいった。

 ああとんでもないことをしている。なのに不安に揺れるやつらを見ていると愉快でしょうがない。

 高揚感に酔いしれる。

 吹くのは追い風。つまらない日々が満たされていくような、そんな気さえしていた。

 そうして男が次に足を向けたのはベレルカという田舎の村。

 どうやら魔族がいるらしい。事が起こればどうせそいつらのせいになるよと彼女が言う。実際そうなって、しめたものだと嗤う。

 騒ぎを高みの見物、素知らぬ顔で村を出て行けばいい。いつもどおり上手くいくはずと高を括っていた。

 けれど、おまけが待っていた。

 揺れる大地を必死になって蹴る。

 聞こえる雷鳴。

 なんだこの天地の異常は。

 まさかまさかまさか――俺が聖堂を壊したからなのか?

 口の中が乾く。男は這ってでも村から逃げようと決めた。

 なのに、踏んだはず地面が消えた。

「――っ」

 わけも分からずしたたか尻を打ち、己を見下ろす影に血の気が引いた。顔があげられない。

 ここはどこだ。

 手に触れるざらつく感触に、見れば、白い砂礫の山の上に自分は座っている。

 白、という単語が彼の思考を突き動かした。

 白は聖堂の色だ。

 途端に不安が彼を襲った。ここはもしや――。

「自分がどこに座ってるのか気付いたか」

 影がぼそりと喋った。

 恐る恐る顔をあげる。綺麗な男だった。正面しか見えないから、背後で黒い尾が逆立って怒りを主張しているなど知りようもない。

 男は魔族の話は聞いていたが、オリガの配慮で彼らと鉢あわないようにされていたからどんな容姿かを知らなかった。

 風が吹いてもいないのに、ぱらぱらと小山から砂礫が舞い上がる。

 ひときわ大きな雷鳴に肩が震えた。

 表情もなく自分を見下ろしてくる青年の双眸に、男は言いしれぬ闇を見た。恐ろしいのに目がそらせない。

「……どれがいい?」

「え?」

「八つ裂きか? じわじわと嬲るか? それとも業火でぱっと消し炭にしようか……?」

 淡々と告げられる内容が、自分に対して言われているのだと気付いた時、男の毛穴という毛穴からどっと汗が噴き出した。

 どうやってかはしらないが、彼は男が何をしたか知っているのだ。その上で問うているのだ。

 ひょっとして彼は熱心なルクス会の信徒なのか。

 しかしそれにしては様子がおかしいような……。

「ああでもこんな誰も見てないようなとこじゃだめだよな」

 彼がそう言ったあと、見えない力に引っ張り上げられ、男は無理矢理立たされた。

「行くぞ」

「!」

 まさか村人たちの前に引きずり出そうというのか。

 彼が道を引き返すのに合わせ、ぐっと首元が引っ張られる感触に男はよろめいた。思わず手をやっても、首に想像したものはない。けれど青年が歩くほどに首元はひっぱられ、男は歩くことを余儀なくされる。もちろん青年の手は空っぽだ。

「…………しっぽ……?」

 青年の尾にようやく気がついて、男は小さく悲鳴をあげた。

 人間じゃない、こいつは魔族だ。途端に身体に怖気がはしる。

「た、たすけてくれ」

 うめき声に青年が振り返る。男はつんのめって何もない所で転んだ。いつの間にか大地の揺れが収まっていることに、この時初めて気がついた。

 黒々とした双眸が見つめてくる。

「たすけて? なにを言うかと思ったら。全部おまえが招いたことだろうに」

「し、知ら……っ、だって声が……っ」

「戯れ言はやめろ」

 見えない枷がしまり、男は呼吸に喘ぐ。冷たい目に見下ろされながら、なぜ、と嘆く。いやだ苦しい死にたくない殺さないで。

「ひ、ひぃ……」

 だらだらと脂汗をながし口端から涎を垂らし、それでも生を望めば、頭上で呆れたようなため息をつかれた。

「もういいや、ここで終われ」

「――っ」

 あっけない死の宣告だった。

 絶望を抱え気を失う間際、男は目もくらむような清冽な光を見た気がした。



 *


「アーカイヴ、応えて――」

 輝きを纏ったビッキーに、バリーは目を眇めた。

(……目が痛い)

 彼女の足下から白銀の鎖が飛び出し、宙で幾本にも分かれ、ヴァルへと向かっていく。しかしそれらはヴァルが一瞥しただけで消え失せてしまう。

「……っ」

 ビッキーが顔に似合わぬ大きな舌打ちした。

 ヴァルは足下に転がる男を忌々しげにみやり、その襟首をつかんで聖堂だった残骸の上へ雑に放り投げた。粉塵が舞い上がる。

「……生きてるの?」

 男はぐったりとして動かない。

 案じる声に、ヴァルが鼻を鳴らす。

「ああ。おまえが邪魔したせいでな」

 ほっとしたようにビッキーが息を吐く。

 すんでの所で駆けつけたビッキーは稲光もかくやという眩く清冽な光を焚いて、ヴァルの注意を男から逸らしたのだ。気が削がれたヴァルは据わった目を今度はビッキーへと向けた。

 大地の揺れこそ収まったものの依然として、上空を厚い雲が覆い、雷鳴が轟いている。

 ヴァルの怒りに天地が呼応しているのだ。

 やっぱりただものではないのだとバリーは確信を深める。

「そのひとが聖堂を壊したの?」

「……ああ、」

「じゃあ尚のこと死んでもらっては困る。こっちに渡して」

「……嫌だっていったら?」

 ビッキーは一息吐いて、

「アーカイヴ――」

 呼びかけに応じてどこからか聞こえてくる古き詞――。

 さきほどの鎖が瓦解した聖堂の小山の下から伸びる。けれどヴァルはそちらを見もせず、口端でにやと歪めた。嫌な笑い方だった。

 伸びた鎖はぼろぼろと崩れていく。

(うーん、どうみてもビッキーさんに勝機は見えませんが……)

 傍で眺めるバリーはそれでもひょっとしたら、いや何かあったら面白いかも、などと不謹慎なことを考えていた。もちろんバリーの一番はあるじだから、ヴァルがここで人間どもに恐怖を植え付けるのもアリだと思っている。

 バリーは盲目的にヴァルを人間より優位な存在だと信じて止まないが、けれどヴァルがどれだけ不完全な存在かも知っている。

 ヴァルはこの世に生まれた一番若い魔族なのだ。

 ビッキーが次から次へと繰り出す攻撃を、ヴァルはその場から動かず、容易く蹴散らしていく。

 肩で呼吸する彼女とは対照に、ヴァルの顔は愉快げだ。

 あ、とバリーは小さく声を上げた。

(元に戻った?)

 怒りだなんだといって無表情で据わった目をしていたのが嘘のように、今は晴れやかな顔つきをしている。

「なんだ、もう終いか?」

 からかうような声にようやくビッキーも気付いたようだ。徒労を感じたのか項垂れる。

「……」

 ぼそぼそと何か言った。

 バリーの耳はそれを正確に拾った。なんなの、ふざけないで――何にも取り繕っていない素の、怒りの声だ。

 地を這うような声がしたかと思うと、あたりで小さな光が弾け出す。ずいぶんと調子の重たい謳がビッキーの口から直接紡がれ。

「これは……」

 やかましいとヴァルが言うのが初めてバリーにも理解できた。

 ビッキーが謳うのに呼応する小さき声がいくつもいくつも重なって、輪唱、いやそんな綺麗なものじゃない。

 ただでさえ眩しいのにバリーは耳をふさぎたくなった。

 ちらとヴァルを見れば顔をしかめつつもどこか面白がっているふうで。

 バリーはやれやれとため息をついた。あるじがそうなのだから、じぶんもそれに従おう。それに今謝ってももう遅い気がする。

「――全員頭を冷やしなさい!」

 溜まりかねたような絶叫の後。

 目を覆っても焼き付くような鮮烈で真白き光が村を満たした。



 事情を知らぬ村人たちは我に返って、神が降臨したと、大地にぬかずいてむせび泣いた。




 *


 木々の隙間から覗く一対の青灰色の瞳。

 見たものを咀嚼するようにゆっくりと瞬きを繰り返す。

「あーあ、終わっちゃった……」

 大好きなお菓子を食べきってしまった子供のような不平の声を聞く者はここにはいない。

 ここにはたった一人きり。

 ミニィが潜むのはベレルカの背後に広がる林だ。ミニィの足下には片付けた野営道具一式を詰め込んだ鞄が一つ転がっている。

 ミニィは観測者、ここからずっと村を見ていた。もちろん木々の中から何もかも見通せるわけもなく、魔法を駆使してだ。それでいて、見ていることを悟られないようにするのも忘れない。今回は、いや今回も、強力な味方がいたからそこのところはあまり心配していない。

 うーん、と声を上げて可愛らしい伸びをした。

「でも面白いもの見られたし、いっか。ふふ。綺麗な光だったな」

 無邪気に笑ったかとおもうと、すっと真顔になる。

 まるで別人だった。

「――観測終了です。帰投します」

 


 ナイアの役に立つのならミニィはなんだってやる。


 それがたとえ神話の悪役の依り代になることだったとしても。







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