21
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ビッキーは来た道を振り返った。
光球が道を照らすように等間隔で浮かんでいる。日が落ちると点るようになっているのだろうとビッキーは考える。魔法と分かればそれがどんなふうにできているか等々考えてしまうのはもう、癖だ。魔法を見て単純に浮かれた日々はとうに過ぎ去った。
どうかしたのかとユニが横目に問うてくるのに、何でもないとゆるく頭を振る。
視線を前へ戻せば、明かりを手にした案内役が先導をきっている。橋を渡った先で出迎えてくれた彼は心許ない様子で「お待ちしておりました」と口にした。
点々と灯る家々の明かりが暗闇の中だと安心感よりなぜか不気味に感じる。案内役が提げる明かりも光量がいまいち足りない。彼に会うまではビッキーたちも自分達で照明器具を提げてきたのだが、一つあれば十分かと自分達の方は仕舞っていた。
いっそ魔法を使おうかと考えたが、それで相手方の機嫌を下手に損ねてもいけない。かといってご機嫌取りに来たわけでもないから、過剰な接待は禁物だ。
パラデウムや大都市では夜間でも街灯が煌々と周囲を照らしている。きっとそれに慣れているからこうも不安になるのだろう。魔族対策に人々は夜でも明かりを絶やさないよう心掛けているが、それにも限界というものはある。世界中に影響力をもつパラデウムも、世界中を光で満たすことだけはかなわない。
「……こちらです」
今晩からしばらく滞在することになる宿へと通される。
「遠路はるばるおいでくださりありがとうございます。当宿の責任者、オリガと申します」
挨拶をして出迎えてくれた彼女は自分達と同じ歳くらいだろうか、と考える。
「しばらくお世話になります。わたしはビッキー、そしてこっちはユニです。先にいくらか聞いているかも知れませんが、もし疑問があるならできる範囲でお答えしますから」
「ユニです、お世話になります」
「あ、はいっ。何でも申しつけてください」
おざなりではなく、きちんとこちらの目を見て話すものだから、ビッキーたちは彼女に好感を持った。
「ところでこちらへ先に魔族が到着していると思うのだけれど」
「ああはい、バリーさんですか? なら今、別館の温泉の方へ行かれてますよ。ご案内しましょうか?」
「いえ、ありがとうございます、あとでまたお願いします」
「はい、わかりました」
「……それともうひとつ訊きたいのだけれど」
「はい?」
「私たちとその魔族以外で、泊まり客がいるなら教えて欲しいのだけれど」
「ええと……」
案の定、オリガは言葉を濁した。
もし村を発展させたいと彼女が願っているのなら、ほかに泊まりのものはいないと答えるのは苦痛だろう。客が少ないのは今日だけに限ったことでないと外の人間に知られるのは。
いくら温泉目当てといえど、それ以外にめぼしい物の見あたらない田舎の村に訪れるものがそうそういるものか。冷たいかもしれないが、ビッキーたちはそう考えている。特別な事情でもない限り、私用で赴く先の選択肢にはいれない。
「お一人だけ、いらっしゃいます」
恥ずかしそうにオリガは答えた。
意外な答えにビッキーは驚いたが、顔には出さない。けれど注意深く見ていれば微かに瞠目していたことがわかっただろう。
「詳しく教えてもらえます?」
「あ、はい。物売りの方なんですけど、夕方いらっしゃって。こっちの方へは初めてみたいで、一晩泊まって明日また、よそへ向かわれるみたいです」
「そうですか。協力ありがとうございます」
「いいえっ。じゃあ、お部屋にご案内しますね」
それでは失礼しますと、オリガが静かにドアを閉める。その足音が完全に聞こえなくなったところでビッキーは大きく息を吐き出した。
「……温泉ってほんとに疲労回復するのかしら」
「謳い文句にするくらいだから本当なのじゃないかしら」
「そうよね……」
辺境とまではいわないが、特に面白味もなさそうな村にビッキーたちがやってきたのは、学長に命じられたからだ。
ただし直接言われたわけではない。
『急ぎ、ベレルカの街へ行きなさい』
副学長に渡された手紙にはその一文と学長の署名だけ。
なぜそこへ行かなければいけないのか、何をしなければならないのか。それは行った先で見つけてこい、ということなのだろう。ビッキーはそう受け取った。
命令を理不尽だと思いもするが、反抗する度胸もないことは自分がよく分かっている。
こういうときはそっと目を閉じて息を吐き、何も感じなかったことにする。流してしまう。
街に関する情報を集め、最短航路を探した。
手紙を見たときから街の名前には引っかかっていた。確かベレルカというのはヴァルたちの旅の目的地でなかったか。出国申請の手続きに立ち会ったから間違いない。
気になるのは、ベレルカからやや外れた域で、ルクス会の聖堂が壊される被害が相次いでいるという情報だ。
何者の仕業かは分かっていない。
分からないという事は人を疑心暗鬼にする。ルクス会はその教義ゆえ光と闇の均衡云々を語るトリア教を好かないし、大封鎖を解いたパラデウムにも不信感を持っている。
ベレルカの住人の信仰の度合いは、着いたばかりのビッキーが察するには材料が不足しているが、田舎の村に魔族の来訪は刺激が強すぎるくらいのことは容易に予想がつく。
現に出迎えの男は、心許ない様子ながらビッキーたちの顔を見るなりほっとした顔を見せた。
学長は自分達にヴァルたちのお目付役をさせたいのだろうか。
けれど魔族がどこかへ出かけるのにわざわざ人を割いて監視させたことは今まで例がない。
『やつは魔族にしちゃ出来過ぎだと思わなかったか?』
脳裏に幾度となく蘇るは教授の言葉だ。
もし学長の意図が想像どおりとしたら、ヴァルは特別だということになる。一時ほどの勢いはないものの、世界中がその動向に左右されるパラデウムの学長が気に掛けているとなれば、彼がただの魔族でないことの証明みたいなものだ。
(そんなまさか……)
ただの魔族さえ未知なるものなのに、特別……?
けれど学長はそれを見抜いている。報告書を読んで、たった一度面会しただけなのに。
ああでもだからこそ彼女は学長なのだ。そう考えたとき、いつもビッキーは途方に暮れる。自分がその跡目を継げるとは到底思えない。力も意志も足りない。
なぜ学長は世襲制なのだろう。
(そうじゃなかったらきっと今頃母さんは――……)
そこまで考えたところでビッキーははっとした。
いつの間にか正面にユニが立っている。金の環が浮かぶ瞳に、暗い顔をした自分が映りこんでいた。何も言わないが、こちらを覗く瞳は心配している。
「……ごめん、余計なこと考えちゃった」
多くを伝えなくとも、思考共有がユニに伝えている。
うん、とユニは頷いて、ビッキーを抱きしめた。
「わたしがいるの、忘れないでね」
「……ごめん」
なされるままのビッキーはユニの背中に手を回し、抱きしめ返した。
いつだったか思考が深みにはまりかけたとき、ユニはこうやってビッキーを抱きしめた。びっくりして振りほどこうにもユニはしがみつくようにして離さない。そのうち抵抗するのがばからしくなって、ビッキーは笑った。おずおずと拘束を緩めたユニがビッキーの顔を見てほっとしたように息を吐いて、それを見てビッキーは申し訳ないやらありがたいやらで泣いた。
それからユニは、やはりビッキーが思考の沼に嵌まりかけると、こうして抱きしめる。
(こんなところに来てまで……だめね)
ビッキーは自省した。
エトワイルの血に自分は囚われすぎている。ふっと息を吐き、思考を切り替えた。
「……ヴァルたちってちょうど今、別館の方にいるのよね」
「ええ、温泉ね。どうする、わたしたちも入る?」
「入るには入るけど、そうじゃなくて、ひとまず挨拶しておこうかと思ったの」
「じゃあやっぱり別館の温泉に行くべきじゃないかしら」
「そうだけど……ねえこの温泉って男女で別れていると思う?」
「え?」
神妙な顔で訊ねられたユニは返す言葉に詰まった。
温泉がどういうものか、二人はそれとなく調べている。入浴の作法らしきものもそこには含まれている。
彼女らが暮らすパラデウムに温泉はなく、そして浴槽に湯を張ってつかる習慣がない。優等生を目指すビッキーが初めての温泉について調べないわけがなかった。そしてそこで出てきた単語が「混浴」だ。
「だってどう考えても彼らはその、男性型でしょう?」
「……ええと、ねえビッキー。その心配はまず、オリガに別館の様子を聞いてからにしましょう?」
「そ、そうね」
「だけど……もし混浴だとしたら湯につかる魔族を見られる貴重な機会よね」
ね、とユニは同意を求めてビッキーを見たが、あからさまに気乗りしない表情で「そうね」と返された。その目は何故かユニの胸の辺りを見ている。
不審に思って問うても、はぐらかされる。
思考共有の妙なところで、ビッキーに何か不満があるらしいことは何となく分かるが、それが何かまで伝えてくれるわけでない。ユニは思考と経験でそれを探り当てねばならないのだが、解をだすことが必ずしも良いことでないことを知ってもいる。
だからユニは、ビッキーが自分の、いわゆる女性的な身体つきを嫉妬していることに未だ気付いていなかった。
部屋を出るに当たり、ビッキーは室内に魔法結界を施した。
仮に建物が壊れたとしても、この部屋だけは無事残る予定だ。部屋は外から鍵が掛けられるようになっているが、その鍵を盗まれては無意味なので魔法で二重に鍵をするのだ。
オリガによれば、別館の温泉は男女で部屋をわけてあるらしい。
うら若き乙女が男の前にみだりに肌を出してはならぬ、と言われて育ったビッキーに男女混浴は敷居が高い。なにより自分では貧相だと思っている胸を誰かに見られたくないのが本音だ。しかもヴァルには以前『ちっせえな』と評価を受けている。なのにまた晒し者になるなんて死んでも御免だ。
バスタオル類は貸してくれるというので、ビッキーたちは着替えだけ持って部屋を出た。
ユニも、人形にはあらゆる負荷の耐久試験を経て出荷されているから、温泉につかることは可能だ。
ビッキーは少し浮き足立っていた。
それはそうだ、選抜だなんて言われても彼女は学生をやっている十代の子供。どんなに体裁を取り繕ったって本当は初めての温泉に興味津々なのである。
「――っ」
視界に急に現れた影にびくりと足を止める。
行く手が曲がり角になっていることを知っていたのに忘れていた。
予定外の遭遇にビッキーの心臓が早鐘を立てる。
こちらを見下ろす黒い双眸は、なんでお前らが、と訴えている。その後ろで「なるほど、お客さんというのはあなた方だったんですね」と狼の顔が口にする。
「え、ええ。近くに用事があって」
「……ふうん」
ヴァルの返事は今ひとつビッキーの言を信じていないようにも聞こえる。
わざわざ監視しに来たのかと思われてもしょうがないことはビッキーたちも分かっているから、余計なことは言うまいとした。
「行くぞ」
ヴァルはバリーを一瞥しそれだけ言うと、さっさと行ってしまう。やれやれというようにバリーが苦笑する気配にビッキーたちは気付いた。多少はその顔にも慣れたがやはり人間ほど表情が分かりやすくないのだ。
「あの、言っておきますけどヴァル様は怒ってないですからね」
すっとバリーがビッキーたちの背後を指差す。振りかえると遠ざかるヴァルの姿がある。
「ヴァル様の尾は感情と直結してますから、困ったときは見てみるといいですよ」
暗がりでわかりづいらいがゆらゆらと尾は左右に揺れているようにみえた。
「今はちょうど……あれですね、あなた方も何かに集中しているときや、関心がほかにあるときは気心知れたものの言葉でも耳を素通りするでしょう? そんな感じといえばいいのでしょうか。闇の……魔族という生き物は、興味がない事物にはとことん、どうでもよい生き物なのですよ」
「……つまり、わたしたちは今、空気みたいなものと?」
「少なくともヴァル様は――……あ、いや、待ってください。それは興味云々の話で、だからってあなた方を蔑ろにして無茶をするような大それたこと、ヴァル様はしませんからね」
言い募るバリーだが、魔族相手に「はいそうですか」で済むようならビッキーたちは普通の学生だったろうし、パラデウムは歴史に名を残さなかっただろう。
けれど頭からバリーを疑うこともできないビッキーだ。
「…………油売ってていいんですか?」
ビッキーがそういうとバリーははっとして「お引き留めしてすいません」と急いでその場を立ち去った。
「……どうして従者なんかしているのかしら」
遠ざかる後ろ姿を眺め、ぽつりとユニが呟く。その通りだと、ビッキーは小さく頷いた。
魔族は、種族に寄っても異なるが、基本群れない生き物だとビッキーたちは教えられた。畏敬を払うのは強者に限るとも。それも人間のそれとは違うと聞いている。
ヴァルの何がそんなにバリーの心を引きつけて止まないのだろう。
そう考えたときビッキーが行き着くのはあの、教授の言葉だった。
微かに色がつき、とろみのある湯を堪能し部屋に戻ってきたビッキーたちは、思い思いに寛いでいた。
物見遊山だったらよかったのだが、これは仕事だからあとは寝るだけといっても寝間着ではなく、即座に有事に対応可能な軽装でいる。
ビッキーは机で日誌を書き、ユニはベッドに腰掛けてレース編みをしていた。
ユニの時間つぶしはいつも手芸で、行程などを鑑みて刺繍だったり、パッチワークだったり、作品の完成しそうな物を選ぶ。今回は作るのは肘まである長手袋だ。
ビッキーの日誌はいわゆる備忘録で、あとで作成するレポートの参考用のものだ。
どうせ帰還報告をするわけだからレポートはおざなりだという者もいるが、ビッキーはそれを聞いて羨ましく思っても実行することができない。
書き物をする音が際立つくらい、静かな室内だ。
こんこん、と唯一の出入り口である扉が外から叩かれた。
ビッキーたちは目配せし合う。
いっさい足音がしなかった。
万一忍び寄る者がいた場合をと、気配を増幅する魔法を部屋周辺にかけていたのだが、それもない。
そうなると来訪者は限られる。
ビッキーはそろっと椅子から立ち上がり、扉の方へ向かった。返事がないからか、再び扉が叩かれる。
「どちらさま?」
「……俺だけど」
気だるげに、そんな答え方をするのは彼しかいない。
「……何の用かしら?」
顔が見える程度に開けた扉の隙間から問いかける。今時分は、人間だったら来訪を躊躇う時間だ。特に、女性の部屋に行くのなら気を使うところである。
(……バリーさん、そういうの教えなかったのかしら)
扉の前で佇むヴァルを見て、ビッキーはそう思った。
ヴァルは、容姿が人間に近い。そして女性受けする方だと、客観的に見てビッキーも思う。その見てくれを前に、部屋に招き入れる女性はきっと多いだろう。
「なんだよ、用がないとだめか」
言うなりヴァルは扉の隙間に片足を差し入れようとする。
「な……っ」
慌ててビッキーは閉め出そうした。隙間の広さを考えればそれは簡単に思われたし、扉はあっけなく閉まった。しかしビッキーは凍り付いたようにそのままの姿勢で、自分の右肩の方へ視線を動かした。
なぜかヴァルがいる。
「ふうん、中は変わらないんだな」
部屋の中をぐるっと見渡してそんなことを言う。勝手に入ってきた事への謝罪は一言もない。
(……ああもうわたしなにやってるの、人間相手にやることを魔族にやってどうするの!)
ビッキーは軽く混乱していた。ヴァルは魔族なのだ。人間なら通れそうもない隙間だって通れたって不思議じゃない。
(ちょっと待って、もしかして壁とかすり抜けられるの……?)
今更浮かんだ疑惑にぞっとする。ヴァルに対して、というよりは魔族という存在に、だ。
「……おい、こいつ大丈夫か?」
急に黙り込んで、しかし目だけは自分を見てくるビッキーを気味悪がってか、ヴァルがユニに問う。ユニは困ったように微笑んで、
「……ああうん。そっとしておいてあげて。ちょっと頭の中を整理をしてるんだと思うから」
「なんだそれ」
「ビッキーって頭はいいのだけど柔軟性に欠けるというか、想定外のことに出くわすと頭の中が爆発しちゃって、ぐるぐる考え出しちゃう癖があるんです。しばらくしたら落ちつくと思うから」
「ふうん……わかった」
ヴァルは、ビッキーが使用していた物書き机の椅子を引っ張り出して、背もたれが左側、肘置きになるようにして我が物顔で座った。
「……もしかしてだけど、本当にただお喋りしたくて来たの?」
まさかと思いつつユニが問えば「ああ」と素直な返事が返ってくる。
「温泉はまあ楽しかったけどそれだけだし。何か面白いことないかなって。そういやお前たちには世話になってるけど、あんまり色んな事話したことないなあと思ってさ」
「そういえば、そうですね」
魔族との間に、人間と同じような友好関係を築く意志がビッキーにないから、これまでユニも進んで会話を持とうとは考えなかった。そうすると事務的会話しか生まれないのは必然で。
「おまえのそれ、なに?」
「これ……ですか?」
編みかけのレースを少し持ち上げて、見せてやる。
「手袋を作っているところなんです」
「その細っこい糸が手袋になるのか?」
「ええ」
「へえ、器用……というか、気が長いんだな。俺だったらやり始めてすぐ嫌になって放置しちまうな」
肩を竦め、ヴァルが膝を組む。
ようやく思考が落ちついてきたビッキーはふらりとベッドへ向かい、ユニの隣に座った。
「もう平気なのか?」
魔族に気遣われている。急激に羞恥心を刺激され、ビッキーの耳が熱を持つ。素直に礼を言うべきか迷って結局、小さく頷くだけに留めた。
「そうだ。おまえ、あれどうやってんの?」
「あれ……?」
「あれだよ、なんだっけお前がいつもやってるやつ。バリーに訊いたのに忘れたな……」
ヴァルはビッキーを指差し、それから自分の襟足に両手を伸ばしてそこから何かが伸びるような仕草をする。
「ひょっとして、三つ編み……?」
「そう、それだよ。あれどうやってやるんだ?」
「どうって……」
ビッキーはヴァルの襟足を見た。編むには髪の長さが足りない。足りていたとしても編んでやりはしないのだが。
そうして今はおろしている自分の髪を見る。風呂上がりということもあり、今は結んでいない。
短く息を吐き、ビッキーは身体を少し捻ってヴァルに作業が見えやすいようにした。それからいつもそうするように自分の髪を三つにわける。やり方を見せるだけだし、何ごともなければあとは寝るだけだから、ざっくりと緩く編んでいく。
「……こんな感じだけど」
顔をあげて振り返ったら、存外近い所にヴァルの顔があった。知らぬ間に接近されていたことに驚く余り、声が出ない。
「なるほどそうなってたのか。ためになった、ありがとな」
ひとしきり編み目を見つめてから感心したように椅子へと戻っていく。
ビッキーの顔は沸騰する湯にも負けぬくらい熱い。
(ななななんなの……?)
ヴァルの容姿が人間寄りでいわゆる美形の括りだとわかっていたが、いつも一定の距離で見ていたからそれほど特別思うことはなかったのだ。けれど簡単に手が届く距離で見せられると、いつにはなく心臓がやかましい。
影が落ちるほど長い睫、すっと通る鼻梁、肌荒れとはなんぞやと言わんばかりの肌。
なにより吸い込まれそうな黒い瞳――静かな夜空を閉じ込めたような色。
「――ねえ、あなただけが大封鎖後に生まれた魔族って本当?」
気付けばビッキーの口はそう喋っていた。
ヴァルは胡乱な顔で、
「俺の知る限りじゃそういうことになってる。……教授か?」
ビッキーは頷いた。ごまかす意味はない。
「あなたには意味があるんじゃないかって」
「あー……そんなこと言ってたっけか」
「あなたは、自分でもそう思う?」
口にしてから愚かな質問だと気付いた。教授の話でもそんなことは話題にならなかったし、彼の行動に自分を特別だと思っているもの特有の自惚れ感は見受けられないというのに。
きっとビッキーは自分の中にある答えのないものをどうにかしたかった。自分の中だけに留めておくには限界が来ていた。
「……そういう話ならバリーとやってくれ。たぶん、何時間でも付き合うぞ。何だか知らないが、あいつも俺は特別だと思っているからな。俺には世迷い言にしか聞こえないが」
嫌そうにヴァルが言う。
なぜバリーが従者のように付き従うのか、その理由の一端をここで知るとは思わなかった。どうやら、正誤はともかく胸のつかえをとるためにはバリーと一席設けたほうがよさそうだ。
しかしこうなるとバリーのことも気になってくる。
「バリーさんは今は部屋にいるの?」
「ん? ああ、お前らのとこに行くって言ったら遅いからやめとけって言い出したから、一人で来た。なんかため息ついてたけど」
きっと諦めたのだな、と二人は思った。追いかけてこない当たり、変なことにはなるまいと考えたのだろう。
今からバリーを呼べと言ってもヴァルは嫌がるだろうし、彼らの部屋に行くと言っても時間を考えれば辞退すべき時間だ。魔族である彼らに睡眠がどれだけ重要かは分からないが、ビッキーたちには死活問題である。
そんな時、背もたれを使って器用に頬杖をついたヴァルが小さくあくびをした。
「なんか眠くなってきた……」
「ちょっと、ここで寝ないでしょうね?」
「心配しなくても部屋に帰る」
追い立てられてむっとした顔のヴァルがもう一度あくびをして立ち上がる。
――静かな村に轟音が響き渡ったのはその直後だった。




