01
その地を人間は「北の大地」と呼ぶ。
年中暴風雪が吹き荒れる真白の地。
作物の育たぬ不毛の地に人や動物、その他生き物の姿はない。そこにありながら人間から存在を無視される土地、それが「北の大地」だ。けれどこの呼称は正式名称ではない。それでも不便に思わないのだから、いかにこの地への人の認識が共通しているかが察せられる。
この地の価値は永久不変かと思われていた。
しかし人は、人間は利用価値を見出した。
――彼の地へ魔族を封じ込めるのはどうか。
人間に暴利を働く、人ならざる闇のもの。奴らさえいなければ、人は平和に暮らしていけるのに……。
知恵を絞り、犠牲を払い、人間はその夢を叶えた。
不毛の地へ魔族を閉め出した。
以後、人はこの事変を「大封鎖」と呼称し、大地から影を追い払うことに努めた。街灯の普及、大陸縦横断鉄道計画、科学と魔法の融合……
徐々に魔族の脅威など忘れていった。
――それから千年。
魔法の権威であり、大封鎖の実質的管理者たるパラデウム魔法学院の長は告げた。
長きにわたる封鎖を解除する、と。
*
その地を魔族は「アルブム」と呼ぶ。
年中暴風雪が吹き荒れる真白の地。
人のような食事を不要とする身体であれば不毛な土地であろうと住み処にするには問題はないようでひとつ、問題があった。
この土地には人間がいない。
人間とは魔族が存在を確立する上でなくてはならない要素の一つで、魔族がその重大さに気付いたのは「大封鎖」のあとだった。
閉じ込められた千年の間に、魔族たちは少しずつ数を減らしていった――。
奈落まで続くような大きな穴が空いている。
アルブムの中央から西南に進んだところにそれはある。なぜそんなところにあるか現在を生きる者の中に識る者はない。知らなくても生きることに何ら差し支えはないし、知ったとしてまた同じ。
そこはただの空虚な「洞」。
どんなに目を凝らしても底の見えないその中。張り出した棚岩の一つに足を下ろせば、岩肌に把手のない扉があるのを目にするだろう。天然の岩模様でも、誰かが悪戯に壁画を描いたわけでもないことは触れてみれば分かるだろう。冷たい岩肌と同じ手触りながら、明らかに意図を持って加工された痕を見つけられるはずだ。
扉の先にはいわゆる「部屋」と呼ばれる空間がある。
把手がないのは訪ねてくる存在を想定していないからだ。
「――なあバリー」
大地の中にあるとは思えない広い空間だった。いやこの空間が異常なのだ。富豪の私室のように上にも横にもゆとりがある。
三人はゆうに座れるソファーには何の動物のものか不明だがとても触り心地の良さそうな毛皮が敷かれ、その上に手足を投げ出して寝そべる者がひとり。
絵に描いたような美しい青年がそこにいた。
思わず触れたくなるような白い肌をさらさらと音を立てそうな黒髪がより際立たせている。肌に影をおとすほど長い睫に縁取られた瞳は冷たい黒曜石のような色をしている。
一枚布を羽織っただけの姿は煽情的であり、彼を人間に見せてくれるものの、彼は「闇のもの」だ。
魔族、とは魔人や魔族を「人間」が総称してつけたもので、彼ら自身は決して自らをそう名乗らない。
青年が背もたれに手を掛けて気だるげに身体を起こす。
縁をつかむ指先、その爪はエナメルを塗ったかのように黒い。足の爪もだ。纏った布の隙間から黒猫の尾のようなものが顔を見せている。
バリーと呼ばれたものが「なんです」と振りかえる。
二足で立つ狼がいた。否、上半身が獣で、下半身が人間というのが間違いが少ないだろう。毛色は銀灰色で、手指は獣のそれがそのまま人のように伸びたような有様である。獣人と分類されるものの一種だが、彼に獣の尾はない。
その右手には杯が一つ握られていた。
木目調の室内において一つ、不釣り合いで不思議なものがある。壁際に置かれた銀色の大きな筐体。そこから銀の蛇腹管が壁をはしって部屋をひとめぐりし、その先はバリーが持つ杯の上にあった。
筐体が弱々しく震えたかと思うと、ややあって管からぬるい湯を吐き出される。
バリーが差し出す杯を青年はごく自然に受け取った。
「もしも今日、ここに人間が訪ねてきたらどうする?」
至極真面目な顔で言い放った主人の顔をバリーは無言で見つめた。そしてふっと笑みを浮かべる。
「ヴァルさま、その話、昨日もしましたよ」
「知ってる」
「おとといもその前も」
「そうだな」
「おそらく明日も明後日も」
「そうだろうな」
ヴァルは鷹揚に頷いて杯の中身、白湯を口に含んだ。飲食など不要の身体だがこうやって人間の真似をして愉しむという、ちょっと変わった癖を彼は持っていた。
「この展開ももう何度目ですかねえ」
「さあな」
棒読みのバリーに投げやりに答え、ヴァルは目を眇める。
尽きた話題を仕方なく引っ張り出しては繰り返す毎日。それにも限界がある。無視できない綻びを前に足掻いている無様さは自分が一番自覚している。
何とも言えない閉塞感が焦燥を駆り立てる。
きっかけはひと月前。
人間側からの一方的な封鎖解除通告。
望んでいた者にとっては待ちに待ったその時が来たと、ヴァルの知り合いなどは面白勇んでこの地を出て行った。
そんなにあっさり信じていいものかと、今日も今日とてヴァルは自分の自分の城に篭もっている。
(だって……だって怖いじゃないか!)
大陸の外が、ではない。
人間が怖い。
千年もの間、それまで虐げる側だったを自分たち闇の者を世界の隅へ追いやって閉じ込めた。それを恐れずに何とする。
封鎖を契機に、かつてはあらゆる場所に存在し、人間より数が多かった魔族も今は大きく減少している。おそらく大陸の外に出れば自分たちは希有な存在になっている。いやそうだ、そうに違いない。
その昔が自分たちがそうしていたように、今度は自分たちが人間たちから取るに足らない家畜を見るような扱いをされるのだ。
もっともヴァルは封鎖後に生まれたので、人間への恐怖は全て想像がもたらすものなのだが……。
ああ、想像するだけでありもしない胃が痛む。
「眉間にしわ寄ってますよ」
「あ?」
「何考えていたか当てて見せましょうか」
「いらん」
図星を指摘されることほど面白くないことはない。これでもかと渋面なヴァルを見て、バリーがやれやれと肩を竦める。
「もっと自分に自信持ちましょうよ」
「……うるさい」
羽虫を払う仕草で一蹴する。
この従者は、バリーはヴァルに自信を持てという。あなたは凄いのだ、きっと闇のものたちを統べる王になれると熱に浮かされた者のように、事あるごとにぬかす。
根拠のない自信ほど愚かしいこともないというのに。
だがここに閉じこもっていてはその根拠も得られないのだと、それはヴァルにも分かっている。
ヴァルとて、外の世界に興味はある。
あるのだが……。
「――」
寝ていた尾の先がぴくりと持ち上がる。ヴァルはにやりと笑みを浮かべた。
「バリー、客だ。面白い客が来たぞ」
「おや」
バリーの視線が奥の、蔦模様の扉に向かう。
ややあって、扉が外から叩かれた。
扉が勝手に横に滑る。
把手がないのは訪問者を想定していないからだが、この扉は押して開閉するのではなく、横にずらして入り口が現れる。しかも手を使わなくても魔法で勝手に開閉する。
ぽっかり空いた四角の向こうに立っていたのはまばゆく輝く髪を持った少女だった。十代中頃だろうか。新雪のような真白いローブに肌の白さが負けていない。
可憐の言葉が似合う。
ソファーの上で無表情を装いつつ内心、ヴァルは感心する。美少女が単身、自分たち闇のものの住み処に訪れたのだ。たいしたタマである。
「あのう、一応確認しますけどここがどこだか分かっています? あなた方の言う、魔族の住み処ですよ?」
「承知しています」
親切心から訊ねるバリーに答える少女はしかし、淀みない。獣人を目の前にしても動じる所のない彼女にヴァルはひっそり唸る。
「ふーん。俺はそっちに用はないんだけどなあ……」
少女の視線がバリーの後ろ、ヴァルへ飛ぶ。その視線がバリーに戻り、それからまたヴァルへ。
「あなたがヴァルさん……ですか?」
「だったら?」
ぶっきらぼうに聞き返す。
少女が小さく「あ」と声をあげる。
なんだどうした。尊大な態度はそのままに、ヴァルは座り心地をさがすように身じろいだ。
「挨拶を忘れていました。わたし、パラデウムよりブラッドボーンさんの紹介で参りました」
事務的に淡々と告げられた名にヴァルはバリーと視線を交わす。
「BBの紹介?」
封鎖解除宣言を聞くなりこの地から出て行った知り合いの名をこんなふうに聞くとは思わず、ヴァルもバリーもそれなりに驚いていた。
「……やつは人間の手先になったのか」
「友好的な協力関係です」
「……」
事務的口調でばっさり言い切られ、言葉に詰まる。
(……こいつ軽口とか通じないタイプか)
いや、その判断は後にしよう。意識を切り替えるべく、小さく息を吐く。
「バリー。客に茶を用意しろ」
バリーは僅かに瞠目するも「かしこまりました」と客人を中に招き入れる。
「お前はそこ」
扉と一番近い、一人掛けのソファーを指差す。
「……失礼します」
音をほとんど立てず少女が腰をおろす。隙のない動作だった。それがまたただの人間でないことをまたひとつ裏付けていく。
まあだからなんだ、というのがいまのヴァルの腹の中だった。どうであれ、ここは自分の城で、二対一の状況は変わらない。
やがて茶の匂いを纏わせてバリーが戻ってくる。手にはカップが一客。それをテーブル、少女の前に静かに置く。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
礼をいうものの少女はすぐには手をつけない。湯気を立てる表面をじっと見つめ、
「……お茶、ですか」
「もらい物だ。ちと年代物だが、飲む分に支障はないはずだ」
……そういえば香り付けに柑橘がどうとかやつが抜かしてたっけな。思いだし呟いていると、バリーが口を挟んできた。
「ヴァルさま、そうじゃないですよ」
「は? なに?」
「この方が気になったのはそうじゃなくて、我々が茶を飲むのかってところですよ、きっと」
そうなのか、と見れば、少女がこくりと頷く。
「そうだな。飲むか……と訊かれりゃ飲まねえ」
闇のもの、いわゆる魔族の好物は月光と、あとは個々の問題だ。好みは千差万別あるが、おおむね人間には食せないようなものばかりである。
「飲まないのに茶があるのですか」
「もらい物っつったろ。BBの野郎が置いてったんだ。よく知らんが、茶といえば客に振る舞うものなんだろ、人間の世界じゃ」
ヴァルは合わせた手のひらを上下に開く。現れたのは茶葉の入った缶。
「時間凍結してあるから腹壊すってことはないとないと思うぞ」
言って缶を揺すってみる。さかさかと茶葉がふれあう音に満足して、押しつぶすように手のひらを合わせる。もうそこに缶はない。
「飲んでみようとは思わなかったんですか?」
「味が分かるならそうしただろうな」
酒も茶も白湯もヴァルの舌にかかれば皆同じ。味のない液体だ。養分にはなり得ない。
「そうですか……」
納得したかは不明だが、少女はカップへそろりと手を伸ばした。
(……なまっ白い手だこと)
掴んだら容易く折れてしまいそうである。
だが、こんなところまでやってきてたやつがそうであっては困る、というかつまらない。さあ、いったいどんな用件でやってきた?
「BBの紹介って言ったな」
「はい。我々の活動を理解なさってくださいまして、あなた様をご紹介していただきました」
「活動?」
「はい。封鎖解除によって起こりうる魔族のみなさんの生活支援を行っているんです」
「へえ……そりゃまた」
ヴァルの唇が弧を描く。
「閉じ込めた元凶が支援してくれるとは笑わせてくれる」