18
*
残されたバリーは車窓を眺めながら遠い昔を思い出していた。目に映るセピアめいた景色が彼を感傷的にさせるのだ。
アルブムの、彼らが住み処としていた「洞」。
バリーは最初、その場所を知らなかった。闇のものとなったばかりの頃は、きっかけとなった場所から出ることができなかったからだ。
バリーが闇に堕ちる契機となった場所はガーブという闇のものの居城であった。
出入りを禁じられていたわけでないのだが、闇に堕ちたばかりのバリーには自分の身体の違いに馴染むことの方が先決で、城の外はこれから先の生活を考える以上に未知の領域だった。
人間だった頃は何もない不毛の地であると教えられ、大封鎖によって魔族もとい闇のものの住み処なったことでより口にすることが憚られる地――バリーの認識はそうだった。
闇のものは群れず、意味なく互いの縄張りを侵すこともしないと識っていたら違っただろうか。いやそれでもバリーは外には出なかっただろう。
ガーブの居城にいれば当面他の闇のもの脅威からは逃げられる、そう考えていた。
ありがたいと言うべきか、城の片隅でおとなしく潜んでいるバリーを彼らは空気のように扱った。進んで従僕になりたいわけではなかったからこれは助かった。
城というがガーブのそれはバリーが知る町長の邸と広さは大差なかった。とはいえ町長の邸は町でも一等贅をこらした、バリーも含めた町民が垂涎する代物である。
――ところでガーブの城にはほかにも闇のものが暮らしていた。
苦渋に呻く中でバリーが見た、狐に似た黒い尾を生やした女だ。メアリという可憐な名を持っていた。
彼らはいわゆる番いであった。人のようにむつみ合って子をなす闇のものがどれほどいるのか、バリーは今も正確な知識はない。バリーが知っていることはガーブとメアリが同じ闇のものでも違う種であり、自分達が子をなすとは欠片も思っていないことだ。
ガーブの城にバリーが棲みついてどれくらい経った頃だったか。
彼の城に時を計る物はなく、窓の外を観察した結果と体感でバリーは一日の長さを計っていた。アルブムは年中暴風雪が吹き荒れ、日の光とは縁遠い。精確さとは無縁だが、気にしなくなったら何かが終わるような焦燥感だけは常にあった。
『――おい貴様』
普段は見かけても素通りする彼らが揃ってバリーの元へやってくる。その時点で異常事態である。特にメアリの方は興奮状態にあるのが逆立つ尾を見れば明らかだった。
ついに出ていく日が来たのか。いや、それとも……。
本能的な恐怖に襲われた。
歯こそならさないものの、恐慌をきたしそうな精神を必死に宥めながらバリーは彼らと向き合う。逃げ出したいがどこへ逃げればいいのかわからないし、背を見せた途端襲いかかられたらひとたまりもない。自分と彼らとでは格段の差があるのだから。
『あたしの腹が膨れて、もうこれ以上ないってくらい膨らんで――』
『赤い光をまとったなにかがこやつの腹から生まれ――いや、飛び出していったのだ、城の外へとな』
彼らの言い分をまとめると「おまえ、様子を見てこい」に尽きた。
不安を押さえ込もうというのか腹をさするメアリの肩を抱くガーブ。その光景を目の当たりにし、バリーは珍しいと感じた。
いつだって彼らは自信に溢れた顔をしている。
赤い光の何が彼らを不安にさせるのか、少し興味が湧いた。
それに、気になるなら自分達で行けよとは格下のバリーに言えるはずもない。口が裂けても言えない。
その日初めてバリーは城を出た。
気がついたときにはもうガーブの居城だったから、ようやく自分の意志で北の大地、いやアルブムの土地を踏んだことになる。
出たところで背後を振り返ったが、城の姿は暴風雪の中どこにもなく、全ては魔法でできていたのだと気付かされた。
(そうだ、不毛の地……)
そんな場所に城を築けるだけのまともな建材があるはずがない。
バリーは光が飛んでいったという方角を見据えた。ガーブがただそちらだと指差しただけであるが、彼が言うにはそこに「洞」があるらしいから、黙々と進めば辿り着くに違いない。
バリーは変わってしまった己の姿を眺める。今だけは毛皮を纏っていることに感謝したい……そう思っていられたのは数分間だけだった。
確かに人間より体温は高いが恒常性というわけでなく、歩く端から降り積もる雪が毛を濡らし、濡れた毛は冷たい風によりまたたく間に凍てついてしまう。
ぶるっと身震いすると積もった雪が飛び散るも、またすぐ元通りになってしまう。
魔法と縁遠い人生を歩んだバリーは自分がそれを使う発想が欠けていた。
こんなところでほかの闇のものに遭遇すればあっけなく自分は散るだろう。
(その前に寒くて死ぬかもな……)
ここに布の一枚でもあればいいのに。そうしたら雪よけになるのだが、ないものを出すことはできない。
『……ふふ』
一人おかしく笑ったところで、ガーブの城が頭を過ぎった。
さすがにあんなのは無理だろうけれど、自分にも魔法が使えたら――。
(できるだろうか)
この風雪をしのげたら、それだけでいい。
ぎゅっとにぎった拳にふわっと何かが触れた。驚き視線を足下からあげたバリーは、透明の幕のようなものが頭から自分に覆い被さるように広がるのを見た。
幕の中のバリーに風雪は触れられない。
(これは……魔法……?)
けれどそれが自分でなしたことなのか、バリーには今ひとつ分からなかった。たまたま何かの力が働いただけかも知れない。
それでもとにかく、助かったことは間違いない。
ありがたいことだと、本当は自分の魔法なのだけれど、事実を知らぬバリーは見知らぬ誰かに感謝して歩みを再開した。
見渡す限りの殺風景に心が折れそうになりながら歩いた。
音と言えば唸る風と自分がたてるものくらいで、足音さえも暴風がかき消してしまう始末だ。
どこかでほかの闇のものと遭遇するかもしれないと最初のうちは身構えていたのだが、ちっともその気配がなく、誰にも見られていないと思ったら警戒心は次第に緩んでいった。
当時のバリーは知らなかったが、闇のものは大封鎖後から減少の一途を辿っていた。
闇のものは文字通り闇から生まれる。だが彼らは虐げる者があってこそ存在できるという因果な生き物だった。退屈を覚え、それを埋める術を見出せなかったものは存在を放棄した。
元の闇へ還ったのである。
(……あそこか?)
闇のものとなってバリーの視力はあがった。人であった頃には見えなかったものが離れたところからよく見える。
遙か先に微かに赤い靄が見えた。
きっとあそこだ、あそこへ行けばいい。
『よし』
あえて口に出した。目的地が明確になるとやる気も出ようというものだ。
辿り着いた「洞」を前にバリーは立ち往生した。
覗き込むことさえ躊躇う、落ちたらひとたまりもない大穴が地面に空いている。穴の直径は、両腕を広げた成人男性が横並びに三人では足りない、その数十倍は必要だ。
中に件の「赤い光」があるのだろう、光の端が穴の外へ漏れ出していた。
立ったままでは危ないので、地面に伏せ、淵から中の様子を窺う。その際地面とバリーの間に魔法の幕がするっと入り込む。おかげで腹が直に雪に触れずに済んだ。
覗き込んでバリーは息を飲んだ。
奈落まで続くような深い深い闇の中、それはあった。
闇に燻ることなく主張する鮮やかさは確かに不気味に感じる。赤い光の塊、いや光に包まれた何かが洞の中で浮かんでいる。
脈打つように光は明度を変えた。
脈動するのが光なのか、はたまたその中身かは、近づいてみないことには判別不可能だった。
(……あそこまで行けって?)
むき出しの地表を伝っていくのはいいが、手足を滑らせた時のことを思うと気が引ける。
はたしてそこまでする必要があるか。洞の中に留まっていると報告するだけで事足りるのではないだろうか。
(……どうだろう)
様子を見てこい、にどこまでが含まれているのだろう。求めていたのと違うと首を刎ねられたら? 用済みだと気まぐれにひねり潰される可能性は?
(……いやいや待って、別に帰らなくてもいいよな?)
従者でないのだ。真面目に報告する義務がどこにある?
ちょっとでも悩んだ自分が愚かしい。バリーはごろんと仰向けになった。
じっと目を凝らすと、降り注いでいるはずの雪が、灰色の空へと吸い上げるように見えてくる。
突然、洞がうなり声を上げた。
びくりと肩を震わせたバリーは、ばねのように身体を起こした。
一体何だと再び中を覗き込めば光の大きさが倍ほどに膨れている。うなり声の正体は洞でなく、こっちか……?
バリーは喉を鳴らした。
ガーブの所へ戻らないのはいいとして、かといって新しい住み処があるわけでない。
『――』
行き場がないならもう、行くしかないではないか。
そろりそろりと地表むき出しの壁伝いに下りていくうち、バリーの不安は強まった。
本当に底はないのかもしれない。
バリーを染める赤い光が強くなるにつれ、目的に着実に近づいているのだという安心感を得られるのが救いだった。
近づくにつれ、光るそれの巨大さを識る。抱えることは無理だろう。
脈打っているのは光の中身のようで、だとすれば光はそれを保護する繭だった。光の中へ頭でも突っ込まない限り中を見通すことは不可能だった。
次の足場を探し、少し先に辛うじて立てそうな石を見つけ、片足で頑丈さを確かめてからそこへ移る。
ほぼ真横から繭を眺める。
それに生命の胎動を想像したバリーはぞっとした。
この不毛な地でうまれるものがあるというのか。
(……それも魔族の腹の中からだって?)
繭が一際強く光り、その眩しさにバリーはとうとう目を開けていられなくなった。全身が赤に染まる。
洞が蠕動するようにうなり声をあげた。あとでバリーは知ることだが、それは大地が祝福と歓喜に上げた声だった。
うなり声が止んだところでそっと目を開ける。
『……』
黒々とした双眸がバリーのことをじっと見ていた。
――この生き物はなんだ。
バリーはしばし惚けたようにそれを眺めた。小さな存在に圧倒されていた。
光が消え去った代わりにそこに浮いていたのは小さな赤子だった。ただし髪も目も爪も真っ黒で、臀部から尾が生えている。しかしそれさえ除けば、とても人の子に似ている。
がたがたと身体が震えだした。
闇のものが生まれる瞬間に立ち会えたことに感動したとかいう単純なものじゃない。
これは本能的な畏れだ。
目の前の小さな生き物は只者でないと直感が告げる。そしてそれは間違いでなかったと、彼の成長に合わせてバリーは実感することになる。
「……ただいま」
音もなく、空席だったそこにヴァルが座っている。彼の気配を察するなんてバリーにはとてもできやしない。バリーは紛い物だが、彼は本当の闇のものだし、そうでなくとも格が違いすぎている。
「早かったですね」
「やー……面白いやつ見つけたんだけど」
後半は口の中でごにょごにょと喋るので聞き取れない。
(……訊き返さない方がいいですかね)
そう判断したバリーは「そうですか」と無難な返事をする。ヴァルは何も言わない。代わりにすっと、手のひらを上向けて右手を差し出してきた。
「あ、はい」
渡されたときとは反対に右手をかざせば、手のひらから預かった力が抜けていく。すっかり渡し終えると、そこには元通りいつものヴァルがいた。黒い。
「……はあ、」
思わず息を吐いたバリーに、ヴァルが眉を顰める。
「……なんだ?」
「いえ、やはり見慣れた姿は安心するなあと思いまして」
「ふうん……」
言われてまんざらでもないのか、ヴァルは自分の髪をいじり、手指を眺める。
「――まもなくギーバリィです、お忘れ物のなきよう……」
放送があってしばしすると車窓から見える景色に建物が増え始める。それが街の形を為していき、その中でも一番しっかりしてそうな建物、駅舎へと列車は滑り込んだ。
乗降の際、乗客はドアを自分で開けねばならない。
どうやら誰か乗ってくるようだ。進行方向側にあるドアが外からの力でぎいと鈍い音を立てる。
どんな闇のものが乗ってくるのか。
期待混じりに値踏みの目を向けたヴァルたちだったが、思いがけないことに乗ってきたのは人間だった。




