09
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ブランジッタ皇国は北の大地に一番近い国である。
とはいえ北の大地に渡るには船を出し、荒れた海原を渡らねばならない。危険を冒してまで不毛の地へ渡ろうと思う人間はまずいない。
皇国は北に位置するだけあって、冬は長く、夏は短い。
そして今冬は例年にも増して天候が荒れ、田舎の方へ行けば行くほどに毎日のように凍死者と餓死者の報告がされていた。
北の大地へ一番近い港町、アシリル。
その隣町、クレイルのほぼ真ん中に町長屋敷があった。豪雪の中であっても煉瓦の赤色が埋もれることなく主張している。
ここでは町長が裁判長であり警察の長だった。それゆえ彼の屋敷には地下牢が設けられていて、捉えられた罪人は一旦そこへ拘留される。
石造りの牢は季節に関係なく冷える。
罪人の事情など考慮されていないから暖房設備はない。温もりと言えば毎日交換される蝋燭の灯りと、端のすり切れた薄い毛布。
今年になり魔族の大封鎖が行われたといっても慣習というものはすぐには抜けず、地下から蝋燭の灯りが絶えることだけはない。人間はまだ魔族を恐れている。町一番の権力者も魔族には敵わない。自宅の地下が魔族の温床になっては困る。
鉄格子で区切られた部屋の一つにハリーという男がいた。
ぼろ切れのような毛布の中で痩身を丸め、逃れようのない寒さに必死で耐えていた。
町長屋敷は罪人がぶち込まれる、町で一番最低な場所。町民ならば誰でも知っていることだ。
なぜそんなところに彼がいるかといえばもちろん、罪を犯したからだ。
牢にはほかにも捕らえられた人間がいて、みなハリーと同様の格好で寒さに震えていた。現在ここにぶち込まれているのはみな成人男性ばかりだった。
ハリーはぼんやり薄目を開けた。
くすんだ青い瞳で前を見る。床の上に空の皿が見えた。夕べの食事を思い出す。水のほうがマシだというようなスープの上にパン屑がかけられていた。惨めな気持ちでそれを皿から啜った。スプーンなんて上等なものは配られない。
ここに子供がいなくてよかったとハリーは思う。若い命が散る姿はみたくない。もっとも、ここに子供がいたとして自分が先に死なない保証などない。
壁に無理矢理爪で刻んだ印を見る。
ハリーがここに入れられて一週間が経つ。かつては輝くようだと人に誉められた銀髪はすっかりその色つやを失ってしまっていたが、鏡を見られない彼にはどうでも良いことだった。
(どうせ出られやしないんだ)
ここにいる人間に、大罪人などいないことをハリーは知っていた。彼はこの町の人間だから町長の人となりはよく知るところである。
町長は腐っていた。
彼が気に入らないものはしょっ引かれ、ありもしない罪状を言い渡され、刑に服さねばならない。
だから町の人たちは町長を担ぎ、波風を立てぬよう過ごすことを自然と心掛けていた。
ハリーだって少し前まではそうだった。
誰が自分から好んで日の差さぬ、一度目を閉じたら次はもうないかも知れない、そんな場所へ入りたがるものか。
そんな物好きはいない。
そう思っていたのに……魔が差した。冷静になれば莫迦なことをしたと思う。
私憤で町長の馬車の進路を塞ぐなんて。
(ふ、ふふ……)
最早寒いと考える思考さえ失われつつあるのか、思わず顔が笑みに歪む。が、凍り付いた表情筋がそれさえ許さない。
ハリーには妻がいた。
この国では毎年冬に流行る病がある。薬を飲み、滋養があるものを食べて養生すれば回復せぬことはないものの冬場に滋養のあるものを確保するのは難しく、また部屋を常温以上に保つ難しさから死者の数がゼロの年はない。
今年は町長の妻と子がそれに罹った。
町長は持てる権限を使い、薬や滋養のある食べ物を自分の所へ集めた。おかげで彼の妻と子は助かった。
けれどハリーの妻は死んだ。
手に入ったはずの薬は横から奪われた。せめて彼女の好物をと求めた果物は町長の所へ捧げられたあとだった。
庭先に掘ったお粗末な穴に妻を横たえ、ハリーは途方に暮れた。
(おれ、これからどうしたらいい……?)
応える声はない。
困ったときはいつだって一緒に考えてくれた。
いつだって一緒にいると結婚する時誓った。
(ごめん、まもれなかった……)
流れる涙は端から凍っていく。
彼女の上に土が降る。
声を殺して泣きながら、ハリーは彼女に土をかけていった。
それから自分がどう過ごしたのかは覚えていない。ぐるぐる渦巻いていた形のないものが一点で定まったとき、ハリーは町長が乗った馬車の進路に飛び出していた。
おそらくここで死ぬのだろう。ハリーは漠然と己の最期を予想する。
これまで地下牢から出てきた人間の話を聞いたことがない。自分もその一人になるのだ。きっと間違いない。
ああでもこんな死に方じゃ彼女に怒られるかな。……その前に逢えないかも知れないな。
揺らめく蝋燭の灯りを重い瞼をこじ開けて眺めていると、上の方で音がして、誰かが階段を下りてくる。
(……)
心当たりは一人しかいない。
「よろこべ諸君! おまえたちは北の大地の調査隊に選ばれたぞ!」
残忍な笑みを浮かべた町長その人だ。
調査隊とは名ばかりの島流しであることは船に乗せられる前からハリーには分かっていた。
大封鎖が行われてから、北の大地に近寄ろうとする人間は本当にいなくなった。以前は稀ではあるものの、冒険家や度胸試しとのたまう愚か者がいたのだが、それすら消えた。
今回の調査団派遣は、パラデウムから打診された領主がアシリル及びその近隣に触書をだしたことから起こったらしい。
きっと町長は趣味と実益がともに叶うと考えたのだろう。領主に向けすぐさま返事を送り、それは了承されたということだ。
このまま地下牢にいたのとどっちがましだろう。
今にも沈みそうな木船に押し込まれたハリーは考えた。周りにいるのは同じあの牢にいたものたちで、ハリーを含め総勢十一名、その顔はみな死んだように暗い。
船は魔法が操舵してくれるらしく、乗客はいても乗組員はいない。だから降りかかる困難は素人の自分達で排除せねばならない。
調査がしたいのならパラデウムの人間がすればいい。
だからこれは向かわせることだけが目的だけ、形だけの調査団、あるいは嗜虐思考のある町長のでっちあげた架空のどちらかである。
船に帰りの設定がなされているかは疑わしく、また船がまっすぐ行き着くかには波と天候も大きく関わってくる。
彼方の空は灰色だ。重い暗雲が垂れ込めているのがここからでも分かる。
そしてハリーたちは帰ってくることを求められていない。
おおかたの予想を裏切らず、船は出航から数時間後転覆した。
がちがちがち……。
幸運なことにハリーは生まれて三十余年、魔族を直に見たことがなかった。
暗赤色の毛並みのいい絨毯の上から見上げるそれは、恐ろしいほどに整った形をしていた。
揺れる肘掛け椅子に座るのは、一見すると色香漂う壮年の男だが、人ではない証に耳の先は長く尖り、瞳の色は灼熱の赤だ。爪の色はエナメルを塗った様な、濡れた黒。
一目で魔族と分かった。
魔族は絨毯に転がる人間たちを椅子の上から黙って睥睨している。
がちがちがち……。
妙な音がする。
はじめ、ハリーはそれが何の音か分からなかった。
海に投げ出された所までは覚えている。気がついたらこの石造りの部屋にいた。蝋燭はないが、両手で掬える大きさの光球が部屋の四隅に浮いていて、それで十分部屋の中は見通せた。
床の三分の一はほかより高さがあり、魔族の椅子はそこにある。
ハリーは視界に魔族を認めた瞬間いっきに覚醒したが、身体は思うように動かなかった。だから未だに床にうつぶせで転がったままだった。
自由に動く目だけ使い状況把握に努めると、自分の傍に同じ船に乗っていた男たちが三人、同じように転がっていることが分かった。みな覚醒しているものの、やはり起き上がれるものはいなかった。
動けないのは体力を消耗しているのと、ここが魔族の住み処だからだった。濃い闇は人間にとって毒も同じなのだが、この時のハリーは知る由もない。
てっきり海の藻屑となるのだと思っていたのに何の因果か、本当に北の大地に辿り着いてしまったらしい。
がちがちがち……。
やがてハリーはそれが己の歯が立てる音だと気付いた。未知なるものへの畏怖が自然と身体を突き動かしていたのだ。
「まだそんなもの眺めていたの?」
魔族の背後に忽然と新たな魔族が湧いて出た。
それは妖艶な女の姿をしており、狐に似た黒い尾を生やしていた。白い腕を男の首へするりと回し、しなだれかかる。
「愉しい?」
「ああ。人間が恐怖にじわじわと摩耗する様を見るのはいつだって心躍る」
男は表情を変えずにそう言い切った。笑みを浮かべない分、余計に恐ろしく聞こえた。どうやらこの魔族の嗜好のためにハリーたちはここにいるらしい。これからしばらく、時間と視線でもって嬲り殺しにされるのだ。
「もういやだあ、殺してくれ、殺してくれよ!」
誰かが叫んだ。
ハリーは肩越しに声の主を探した。どうやら一番近くで倒れている禿頭の男らしい、女魔族の視線がそちらを向いていた。
「ふふ、殺してくれですって。ねえ旦那様、あれ、わたしにちょうだいな」
「好きにするといい」
女は男の頬に軽く口づけして、彼から離れた。てっきりそのままこちらへ来るのかと思ったらそうではない。その場から、殺してくれと叫んだ禿頭の男を眺め、舌なめずりをした。
しばらくすると禿頭の呼吸が荒くなり、小さく呻いて、身体を震わせた。犬みたいにぜいぜい息をはいて、それがゆるやかになりかけたところでまた、その呼吸が荒くなる。
それが何度も繰り返された。
禿頭の身に何が起こっているのか分からぬほどハリーは鈍くない。この場にいる皆が分かっていた。
彼は強制的に発情させられているのだ。
女がうっそりと笑む。
禿頭の呼吸に悲痛な色が混じり始め、それはみなの精神を恐慌状態に突き落とした。このままでは禿頭は快楽で悶絶死させられる。羨ましいとは誰も思わない、なぜなら彼の声が少しも愉快に聞こえないからだ。
どうせ死ぬなら苦しまずに死にたい。多くの人がそう望む。
誰かが啜り泣きだした。
意味の分からぬ繰り言が聞こえる。
ハリーはぎゅっと目を瞑った。
地下牢にいたとき、海に投げ出されたとき。ここで死ぬんだろうなと抗うこともしなかった。それより前にも、ああもう駄目だと思うことは何度もあった。
けれど、今初めてハリーはこう思っている。
「……死にたくない」
こんなところで、とか、そんなことは思わない。
ただとにかく思った。
「死にたくない」
ハリーは願った。
請うた。
その言葉を耳に拾った男が初めて表情を動かした。微かに目を細めた程度だが、それは充分、傍で見ていた女の気を惹いた。
「……旦那様?」
答えず男は椅子から立ち上がった。ゆっくりと踵を慣らしてハリーの前までやってくる。
処刑人を前にした罪人の気持ちをハリーは知らないが、自分の心臓はこの男に握られているのだと思うと呼吸もままならなくなる。目の前が眩む。
男は立ったままハリーを見下ろしていた。
「おまえ、名は?」
「……」
答えようにも乾いた唇が貼り付いてうまくいかない。掠れた声でハリーは答えた。
「そうか、バリーか」
訂正しようにも口が回らない。そんなハリーを魔族は待ってはくれなかった。
うつぶせのハリーの顔の前に男が靴の爪先を向けた。
「おまえの願い、叶えてやろう」
爪先はそこから動かない。
何を言われているかハリーは理解した。
貼り付いた唇をゆっくり剥がし、黒く艶光りする爪先に舌を這わせた。禿頭の男があげた断末魔の声を遠くに聞く。他人に構う余裕はなかった。
これで死なずに済むのだ。
だったら何を構う必要がある?
ハリーは堕ちた。
深い闇に自ら飛び込んだ。
人間だった青年は、この日死んだのだ。




