一品目 ~豚の角煮~
ジョッキの中身はもう半分近く無くなっていた。
千川は学生の頃から飲食店で時間を潰すという行為が苦手だった。というのも目の前にある食べ物ないし飲み物には手を付けずにはいられない性格だからだ。青山のおしゃれなカフェに入っても、ブレンドコーヒーは五分で飲み干し手持ち無沙汰になってしまう。彼にとって物を食べるというのは生き物が呼吸をする、マラソン選手が走る、小説家が文章を書くのと同系列だった。
ここ、居酒屋「ミニマムロック」はいわゆる「せんべろ」のひとつだ。せんべろとは、「千円でべろべろに酔える」店のことである。サブプライムローン問題以降アメリカをはじめ日本でも不景気が深刻化し、低価格帯の飲食店がサラリーマンの昼食や仕事終わりの飲みニケーションを支えてきた。
ミニマムロックはビール特大ジョッキが700円で飲めるのを筆頭に、ほとんどのメニューが300円以下という懐が寂しいサラリーマンや学生に人気の店だ。
千川をはじめとする「せんべろ会」の面々は、ミニマムロックの常連であった。もうすぐメンバーの一人が来るとの連絡が千川に入り、なんとかビールの減りを最小限に抑えているところだった。せんべろ会とは、毎週木曜日に開催される千川やその友人たちの集まりの通称である。
お通しである、もやしのナムルの最後を口に放り込んだところで、向かいの席にパンツルックのスーツを着た女が腰を下ろす。
「またアンタ一人だけなのね、セン」
千川をセン、と呼んだのは高校の同級生、万田美沙だった。美沙は胸元まで長さのある一本縛りの長髪を括ったゴムを外し、ほのかに茶色を含んだ髪を自由にさせる。学生と思しき男性店員がおしぼりとお通しを持ってくると、すかさずビールの特大を注文した。
「マンが来てくれて何よりだ。ようやくメシを注文できる」
「まずはこんな遅くまで働いてた友人を労いなさいよ」
せんべろ会にはいくつかのルールがある。
まず、参加者は二名以上でなければならない。午後九時の段階で二名以上の参加表明がない場合、その週はお流れとなる。また会の名の通り、参加者一人につき上限は1000円。これにお通し代は含まれない。つまり今回のせんべろ会の会計は、もやしのナムルを除き2000円以内に収めなければならない。二人ともビールの特大をオーダーしたので、残金は600円となる。
すぐに特大のビールが運ばれてくる。先ほどと同じ店員が去りそうになると千川は慌てて呼び止め、見開きのメニューの左下を指す。店員は呼び止められたことに対し鬱陶しそうに「あい」と短く返事をし、足早に厨房へ消えていく。
「つーか勝手に決めんな」
「えーそれではマンの勤労に敬意を表し、乾杯」
「無視すんなっ、……乾杯」
ジョッキを鳴らし、二人は同時にあおった。千川は一口含んだだけだが、美沙は三分の一ほどのビールを一気に流し込んだ。
「……あーっ! うんまい!」
「お菓子メーカーの商品開発担当がビールうまいってどうなのよ」
「関係ないでしょ。つーか聞いてよ。来週商品の開発会議があるんだけどさ」
まずいと思った。「聞いてよ」のフレーズと下唇を少し噛むコンボは、延々と続く一人愚痴大会開幕の狼煙だからだ。美沙は高校当時から口元を見れば心理状態がわかると仲間内で言われていた。
「男性向けのポテトチップスを作るって企画なのよ。二十代のオフィスで働く若い男の人が食べるって想定なんだけど。確かにポテチは高齢者より若年層に人気のあるお菓子だからそれ自体は構わないの。……ただね」
喉を鳴らしながら再びビールを胃に流していく。ジョッキがハンマーのようにテーブルに叩きつけられ、鈍い音が響いた。
「ただね! 問題は内勤の男がポテチをそんなに食べるかって話よ! 全体的に見れば、チョコレートやガムの方が男性には人気なわけ。これらは個別包装されてるから食べやすいし、手が汚れないからよ。対してポテチなんか口に入れるたびにバリバリ音がして気になるでしょう。別に新商品を作るのが駄目ってわけじゃないのよ。問題なのは、社長がそんなことも知らずに『ウチの会社はスナック菓子が弱い。今年度は強化を図っていくぞ!』ってただ闇雲に言ってることなのよ! 自分の息子を次期社長にしようとしているくせに、肝心なところで変にしゃしゃり出て、知った風でワンマンするのよ! ふざけんな!」
美沙の勤める会社は、アルバイトやパートを含め社員が百名にも満たない中小企業だ。その社長はたまにテレビのドキュメンタリー番組に出演しているが、本人曰く「最初のアイデアが当たっただけの一発屋」らしい。確かに看板商品であるチョコレート菓子は日本では知らない人がいないほどの有名商品だが、他にどんなお菓子を作っているかは千川もよく知らなかった。
「おかげで今週は月曜日から日帰りの出張よ。朝の七時に札幌に入って夜の九時に東京行の飛行機。週のはじめから出張ってなによそれ」
「お土産は?」
「買う時間の余裕なんてなかったわよ。あーあ、私もセンみたいにニートしたーい」
「言っておくが、俺は一応働く気はあるからな」
「実際、転職までに三年間は経験を積めって言うじゃない? 来月で新卒から丸三年だし、そろそろ真剣に考えてもいいかなーって」
「おい、人の話を聞け」
「せんべろの会だって言いだしっぺはセンじゃん。一ヵ月くらいはゆっくりしたいかなー。旅行とか行きたいかもー」
「だから俺は……」
「お待たせしました~。こちら豚の角煮です~」
テーブルの中央、ビールとビールの間に置かれたのは豚の角煮。長方形の白いお皿にはとろとろに煮詰まった四つの豚バラ肉。上には醤油ベースの甘いタレがかけられ、ほうれん草が色を添える。脇に朴念仁のように佇むチューブのカラシがなんとも嬉しい。
美沙が四ブロックのうちの一つを手前に寄せ、二本の箸を縦に添える。箸は重力に逆らえずに肉と脂の層を真ん中から割って沈んでいく。
「社長の頭もこの豚の角煮のように真っ二つにしてやりたいわ」
「社長を豚野郎呼ばわりってそれどんなSMプレイだ」
「出た、ドM」
「ドは余計だ。俺はソフトMだ」
「あー、とろとろで美味しー。舌の上でほろほろとほぐれるのが気持ちいいわ」
「……」
美沙が人差し指と中指を二本、頬に当てる。本当に美味しいものを食べた時のクセだった。これも高校時代から変わっていない。
千川も箸でカラシを角煮に付けて、一口で放り込む。
ぎゅっと詰まった豚の旨味と絶妙な甘さのタレ。酒の肴としてバッチリなのはもちろんだが、ライスも欲しくなってくる。口の隅でびりっと響く辛みも心地よい。
「……ホントに、会社辞めちゃおっかな」
もう半分の角煮を飲みこんだ後、美沙はため息とともにつぶやいた。ほんのり顔が赤く染まっている。美沙はお酒を飲むことは好きだが、アルコールへの耐性はそれほど強くない。
そして美沙は酔うと、心の内に溜め込んだ本音が出てしまうのだ。
「……お前さ、進路相談の前に、俺に言ってたじゃん」
「うん?」
「家が四人兄妹で末っ子だったから、おやつはいつも兄貴にとられてた。ましてや家が貧しかったからお菓子なんてほとんど口にできなかった。だから将来はお菓子メーカーに入社して、家族みんなで食べられるお菓子で子どもを笑顔にしたいって」
「……それは」
「豚の角煮ってさ。客が食べる時には箸で簡単に崩れるほどにとろとろだけど、すごい手間かかってるんだぜ。下茹でして灰汁を除いて、ネギで臭みを取って、それから何時間も煮込んで、ようやくこの柔らかさと美味しさが実現できるんだ。でも俺たちはそんな苦労を知るよしもなくバクバク食ってる。要するにさ、作る側の苦労なんて客には関係ないんだよ。うまけりゃいい。逆に、客がうまいって一言言ってくれれば、それまでの苦労なんて簡単に吹っ飛ぶもんだぜ。だからきっと、今に苦労した分だけ後で喜びになって返ってくるさ」
「……無職のくせに生意気」
角煮を含みながら、美沙は口をすぼめた。
本当に美沙はわかりやすい奴だ。
口をすぼめるのは、感謝を素直に言い表せない時のクセ。
千川は苦笑いしながら美沙を見る。
そして目線を少し下げ、言ったのだった。
「何でお前三個食ってんだよ!」
皿にはもう角煮は一つも残されていなかった。
【本日のお会計】
・ビール(特大)……¥700×2
・豚の角煮……¥580
合計 ¥1,980
(お通し代 ¥300×2除く)