5.戒縛と呪紋
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魔法屋のカウンター奥にある階段から地下の一室へと案内され、そこでいざエルフ救出のために準備をしようかというときに俺の腹が盛大に音を立てた。
やはり小さなパン一個と飴玉一個では腹は満たされなかったようだ。
その音を聞いたネメアから干し肉でも食べるかいと言われたのでありがたく頂戴することにした。
しかし不思議な味がする肉だ。牛でも豚でもないその味は僅かな苦味と奇妙なまろやかさを併せ持っていた。何の肉だこれ。そう思った俺はネメアに訊ねることにした。
「これ、食べたことが無い味だけど何の肉?」
「グリドの肉の薬草漬けさ」
俺の質問にネメアは素っ気無く答えた。
「グリド?グリドってなに?」
「別に不味くはないだろう? ただでやったんだから黙って食べな」
グリドなんてものは前世の記憶には存在しないしレイノルドの記憶の中にも存在しなかった。
しかも薬草漬けって何だ。もしかして苦いのはその所為か。それとも薬草に漬けなきゃ食べられないものなんじゃないだろうな。
結局何の肉か分からなかったが腹が減っていたのでそのまま食べることにした。独特の風味があるが確かに不味い味ではない。
「で、これからいろいろと準備をするわけだが、まずあんたには《戒縛/ゲアス》を掛けさせてもらう」
「ゲアス?」
「《戒縛》というのは魔術の一種で、まあ簡単に言えば双方の同意のもとに行われる約束を破れなくするためのおまじないみたいなものさ」
へえ、そんなものがあるのか。
確かに俺とネメアは出会ったばかりでお互いのことを良く知らない。
俺がエルフの救出を放って逃げ出したり闇市組合に捕まってネメアのことを話してしまうことの無いように掛けておく保険のようなものだろうと俺は解釈した。
「でだ。その約束の内容は《今回の件に関してお互いに裏切るような行動はとらない》なんだが、これでいいかい?」
「へえ、一方的に縛るのかと思ってたけど自分にも掛けるのか」
「一方的に縛ってほしかったかい?」
ニヤリと口唇を歪めてネメアが笑う。それは嗜虐の笑みだった。俺はその笑みを目にして背筋が凍りつく感覚に襲われた。
もし一方的にこの魔女から戒め縛られるとしたら命令には絶対服従みたいなことを約束させられるかもしれない。
そうなってしまうと俺は奴隷だ。奴隷にされた俺は一生こき使われるだろう。
いやそれだけならまだいい。この魔女が開発したさまざまな魔法や薬品の被検体にさせられ身も心もぼろぼろにされてしまうかもしれない。下手すれば狂死してしまうかもしれない。そうなってしまえば何もかもおしまいだ。そんなことを思い起こさせるような笑みだった。
俺はその想像に体をぶるりと震わせて首を横に振る。
「い、いや、それだけは、それだけは勘弁してくれ……」
「だろう? まあ信頼関係を築くためなら自分にも誓約を掛けるのは当たり前さ」
「わかった、その条件で頼む」
俺が言うとネメアは満足げに頷いた。
「よし、じゃあ食べながらでいいから右手を出しな」
俺が左手に干し肉を持ち替えて右手を差し出すとネメアはそれに自身の左手を組み合わせ、呪文を唱え始めた。
すると、繋がれた俺たちの手をぼんやりとした光が包み込む。
魔力の光だろうか?
ネメアが呪文を唱え終えると光は消えその代わりにお互いの手の甲に黒い紋様が浮かび上がっていた。
戒縛が成立したのを確認したのかネメアは組み合わせていた手を解いた。
うお、すげえ。これが魔術か。
初めて目にする魔術に驚いた俺は自分の手の甲をまじまじと見つめた。
「よし、これで完成だ。この刻印がある限り今回の件に関してお互いに裏切るような真似は出来ない。じゃあ次は魔法だね」
そう言うとネメアはどこからか綴じられた紙の束を持ってきて机の上に置いた。紙には先ほどの戒縛の刻印に似た紋様が描かれている。
「それは?」
「紋紙。魔術を人体に刻むためのものさ」
紋紙。レイノルドの知識によると、紋紙とは魔法を封じ込めた紙のことだそうだ。
紋紙には魔法の発動に必要な呪文や儀式などの魔術工程を一定の法則にしたがって圧縮・簡略した《呪紋》と呼ばれる魔術的な紋様が描かれており、それを体に刻印することで呪紋に込められた魔法を使うことが出来るようになるという。
「へえ、それが紋紙か。初めて見たな」
「まあ、非売品だしね……っと、これとこれ、あとこれか」
ネメアは束の中からいくつかの紙を抜き出したかと思うとそれを机の上に広げた。
広げられた紙に描かれているそれぞれの紋様にはひとつとして重複したものは見られない。
この紙のひとつひとつにそれぞれ別の魔法が封じ込められているか。すごいな。
「さ、今から刻印してやるからさっさとそれ食い終わって左手をこの紙の上に置きな」
俺は言われるがままに干し肉の残りを全て口に突っ込み、差し出された紋紙の上に左手を置いた。
そして先ほどと同じようにネメアが呪文を唱え始めると紋紙に描かれた呪紋が白く輝き、俺の手がぼんやりとした光に包まれた。
呪文を唱え終えると光は消え、その代わりに俺の手の甲に紋紙に描かれていたのと同じ紋様が黒く浮かび上がり、そしてすこしすると手の甲に溶け込むようにして見えなくなった。
「……消えちゃったけど、大丈夫なの?」
「大丈夫だともさ。魔力が注がれると刻印が浮かび上がるようになってるから心配しなくてもいい」
ん?戒縛の刻印は残ってるんだがどういうことだ?
俺が首を傾げて右手を見ているとネメアが続ける。
「ああ、戒縛の刻印が残っているのはその刻印そのものが魔術の結果だからさ。魔術の工程を圧縮した刻印とはまた別のものだよ」
そうだったのか。
残念なことにレイノルドの知識は完全なものではない。なので紋様を刻印すると魔法が使えるようになるということは知っていてもこういう細かい知識は知らなかったのである。もっと勉強しとけよレイノルド。そんなんだからスラム堕ちするんだ。
しかし感慨深いものがあるな。
俺は自分の手の甲をまじまじと見つめる。
これで前世からの悲願だった魔法が使えるようになったのだ。
ここに来るまですごく長かった。前世ではネットで調べたり魔術書を買ってきたり怪しげな儀式に手を染めたりしていろいろと試してみたのだけれどもその中のどれも使えなくて絶望したものだ。
だが今は違う。憧れだった魔法が文字通りこの手の中にあるのだ。
何の魔法が入っているのかは知らないが魔法は魔法だ。ただその事実だけが喜ばしい。
俺は表情には出さなかったが内心はすごく興奮していた。
「よし、わかった! とにかく魔法は使えるってことだな! じゃ、じゃあ早速試してみるんだぜ!」
「その前にそのにやにやと締まりのない表情を何とかしな。気持ち悪くって見てられないよ」
ネメアが呆れたような口調で指摘した。
自分では普通の顔をしていたつもりだったがどうやら顔に出ていたようだ。思い返してみれば口調もどこかおかしかった気がする。
反省した俺は顔を引き締めた。
そして刻印を浮かび上がらせるために魔力を注ぎ――ってどうやって注ぎ込むんだ?
「先生! 魔力の注ぎ方が分かりません!」
俺が学生のように言うとネメアは苦笑した。
「まだ先生になったわけじゃないんだけどねぇ。まあいいか。刻印に魔力を注ぎ込むには刻印を強く意識すればいい。そうすれば自然に魔力がその場所に集中する」
「はい!」
言われた通り手の甲に刻まれた見えざる刻印に意識を集中してみると、にじみ出るようにして黒い刻印が浮かび上がってきた。
「先生! 出来ました!」
「そのノリはもうやめな。鬱陶しくて仕方ない」
ネメアが吐き捨てるように言った。
仕方がないので俺は素の状態に戻ることにした。
まあ自分でもこのノリは無いと思っていたのだが。
気持ちを切り替えて俺は問い掛ける。
「で、ここからどうするんだ?」
「……えらく切り替えが早いな。まあいい。そこからは魔法を発動させるという意志と発動させたい場所に意識の糸を伸ばすことが必要だ。魔法の発動させる意志は心の中で思うだけでもいいし何か言葉にして唱えるのもいい」
なるほど。
意識の糸を伸ばすというのは恐らく身体の外に意識を集中させるということを表現した言葉だろう。
「まあ、刻印に意識を集中させなくても『魔法を発動させる』という意志があれば自然と刻印に魔力が注ぎ込まれて魔法が発動するのだが、そっちは上級者向けだな。慣れないうちは発動までに時間が掛かって発動させたいタイミングから遅れて発動することが多い。タイムラグってやつだ。それだと最初から刻印に魔力を集中させておいて待機状態にしておく方がマシだな。あ、あと物体の場合は魔力を刻印に流し込んだだけで魔法が発動するものが多いから取り扱うときに注意する必要がある」
そうか、二種類の発動方法があるんだな。
俺はまだ初心者なので魔力を集中させてから発動させる方法で行くことにした。
それと、魔力を身体に注ぎ込んだ場合と物体に注ぎ込んだ場合とで魔法の発動する仕様が違うのは恐らく安全のためだろう。
火炎魔法の刻印が刻まれた手のひらに魔力を集中させた次の瞬間手のひらが火達磨になるとか嫌過ぎるもんな。
しかしこんなに丁寧に教えてくれるなんて意外だったな。
見直した、いや、見損なったぞ。
そうだ、こんな丁寧なのはネメアじゃない。ネメアはもっと傲岸かつ不遜でなければならないのだ。俺に「囚われのエルフを連れて来な」と傲慢に言い放ったあのときのネメアはいったいどこに行ったのか。頼むネメア、正気に戻ってくれ!
俺がそんなことを考えているとネメアがじろりと睨めつけてきた。
「今なんか失礼なこと考えてなかったかい?」
「いいえ、何も」
納得していない様子のネメアだったが俺が平然とした顔で否定すると追求を諦めて話を戻した。
「まあこの件についてはあとからじっくりと話し合うことにして、今はあんたに刻印した魔法だ。あんたに刻印したのは《治癒/ヒール》という。まあ言葉どおり回復の魔法だ」
回復魔法か。
エルフが負傷していたときのために必要だな。
動かせないようなレベルの怪我をしていた場合には役に立つかどうかは分からんが。
「ちょうど都合のいいことにあんた怪我してるだろう。取り敢えず一番痛いところに使ってみな」
「よくわかったな。俺でも忘れかけてたぞ」
ネメアに指摘されて自分が負傷していることを思い出した。
そういえばそうだった。レイノルドがスリに失敗したときに負った打撲傷があったんだった。思い出したら再び痛み始めた。
思わずレイノルドに暴言を吐きたくなったがいなくなった人格にそんなことを言っても仕方ない。
今は《治癒》が実感できる機会を与えてくれたことに感謝しておこう。
俺は最も痛む場所である左わき腹に意識を集中。
そして魔法を発動させる意志の補助として呪文を唱えた。
すると光のエフェクトが負傷部分を柔らかに包み込み痛みが軽減された。
すげえな、さすが魔法だ。
ちなみに光といっても辺りを照らし出すような強い光ではなく、色は違うが蛍の光のようにその部分だけが光っているという感じだ。
「先生! 上手くいきました!」
「そのノリはやめろと言っているが、まあいい。残りの呪紋もサクッと左手にぶち込むぞ。我々は急がねばならんからな。これ以上ぐだぐだやってる暇はないよ」
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