背伸び
お金が無いからお金持ちになりたい。それはそこに山があるからと登り続ける登山家のようにごく自然な感情。札束に埋もれ、豪遊し、満足感に浸りたい。イヤホンから微かに聞こえる重低音のように、それは心のなかで密かに、だがたしかに存在している。そしてそれがメインボーカルのように表に出てきた時、何かがふっきれてもう一人の自分が顔を出す。これこそまさに、背伸びというものだ。
一日の食費を五百円におさえられるかどうかを毎日考えるほどの貧乏大学生な俺には、対して仲の良い友だちがいることもなく、恋人もまたいない。適当に授業に出てはまっすぐ家に帰る毎日。バイト代と一応もらっている奨学金だよりの生活。これが健康で文化的な最低限度の生活なのだろうか。いや、大学に通っている段階でものすごく文化的で生活もいいほうなのだろうが。
そんな俺だが、一度でいいから叶えたいことがある。バブル期のちょっといい大学に通うような奴らにとっては当たり前だったかもしれないが、今の大学生はきっとやらないであろうこと。それは、一日で貯金を使い果たすこと。通帳を覗けば、今自分の手元には五十万円残っている。そのほとんどが奨学金だ。これを今日で無くしてしまったらどうなるだろう。きっとその後の生活が苦しくなる。きっとというより絶対。自慢ではないが心配性な俺。ここでいつものようにため息をついて帰ればよかった。だが今日は何かが違う。ATMの前から足が動かない。それどころか、手が勝手にタッチパネルを押していく。そしてあっという間に、手元に五十万円が現れた。その現実的な非現実に瞬きさえするのを忘れた。これが魔が差したという現象なのだろう。きっとそうだ。目の前にある五十枚の一万円札。だが俺の人格、といえば言い過ぎだろうが、心を濁らせるには十分すぎた。心が墨汁のようなもので膨らんで大きくなっていくのを感じつつ、その五十枚を財布にしまい込む。はじめてのぶ厚さ。踊る心を沈められるほど、俺は成熟してはいなかった。
一目散に街へと向かった。いつもなら下を向きながら俗世の波に隠れるように帰る大通りの通学路も、財布の中の五十万円が世界を変えてくれた。まずは欲しかった最新型のパソコンを見に電気屋へ。ずっと買いたいと思っていたものすごく薄いノートパソコンを即買い。それを持ったまま、次に本屋に入る。単価はものすごく安いので、棚ごと即買い。“こっからここまで!”を一度でもやってみたかったのだ。小さな書店だけに、店主が笑顔で嬉しがってくれて俺も嬉しくなる。本屋の店主は翌朝トラックで運んでやると言ってくれた。こういうのだ。こういう買い物を俺は一度してみたかったのだ。
それでもまだまだお金は余っていたので、今度は高級な料亭で一人で晩飯。腹もいっぱいになった頃、財布を覗けばまだ十五枚は残っていた。料亭を出て、ちょっといい服を買うためにデパートへ。似合わないかもしれないが格好良さげなスーツを即買いし、その場で着替えて近くのバーに行ってみた。バーなんて来たことがないし、そもそもお酒に関して知識もない。ちょっと背伸びして「オススメは?」なんて聞いてそれを頼んでみるが、残念ながら俺の口には合わなかった。大荷物の怪しい俺は、バーの独特の雰囲気になんとなく飽きて、もう遅いしと店を出た。
ここでやっとすべての一万円札が無くなった。残ったのは二千円ほど。ちなみに家はここから遠い。終電もない。タクシーで帰ろうかと思ったが、自宅までは二千円では帰れない。ここでやっと冷たい風に吹かれ、我を取り戻した。所持金二千円で、大荷物持ったまま徒歩で帰宅、か。明日提出のレポートもやってないし、そもそも朝までに家に着くのだろうか。不安がどっと押し寄せてくる。と共に、意外と冷静なもう一人の自分がいた。このまま明日の学校は自主休講。ゆっくり歩いて帰って、今日買ったパソコンを開けて、本を読み続けようか。帰宅と同時に本屋からの配達が来れば笑いものだ。いいネタになる。中身のない笑いが胸の奥から漏れていった。
寒空の下、星空はビルの影に隠れているが、川沿いの遊歩道は都会の明かりに照らされてほんの少し明るい。タクシー意外ほとんど車は走っていないせいか妙な静寂が寒さをうんと強くしているような気がする。とその時、雑居ビルのほうに一台の大きなトラックが見えた。酒も入っているせいか興味本位だけで近づいてみる。引越し屋さんのような人たちが、せっせと荷物を運んでいた。
「何してるんですか?」
たかが大学生の身分で業者に、それも深夜に、話しかけるというのは相当怪しく見えていただろう。だが業者のお兄さんは疲れてはいるものの威圧的な態度を見せず、爽やかな汗を拭って教えてくれた。
「東日本の震災、あるじゃないですか。それのチャリティオークションがあるんですけど、それの荷物を作ってたらもうこんな時間になっちゃって。あ、音とか迷惑でした?」
俺は反射的にいえいえと手を振り、一歩下がった。なるほど、そういうのもあるのか。復興のためにこういう所で頑張っている人がいるのかと思うと、さっきまでの自分がいかに浅い人間だったかわかったような気がした。と、同時に何が幸せなのか分かったような気もした。確かにお金があることで好きな事ができる。でも、お金では解決できないことだって多い。貧乏大学生だからお金がほしい、ではなくて、貧乏大学生だからお金がなくても幸せになれる方法を学ぶのが合理的ですぐにできそうな気がしたのだ。震災で財産をことごとく失くされた方々のために、震災から長い年月が経ってもこうして何らかの形で役だとうとする人々に、俺は本当の幸せとは何かを気付かされたような気がしたのだ。自分の好きなことを好きなだけするのは確かに楽しいが、それは人生の中で本当に短い期間のみそう感じることで、長い目で見れば、ああ若かったなぁで済まされるようなことだ。そうではなくて、人が人の役に立つ、どんなに小さな事でも悲しみや苦しみを共有しあい、そこから希望を共有する。背伸びしたっていいから、なにか人の役にたつことをする。それこそが幸せなのではないだろうか。そう思った俺は、その場に財布の残りと手に持っているすべての荷物をその場で業者のお兄さんに渡した。
「あのこれ、オークションに出しちゃってください! あと少ないですけどお金も足しにしてください! じゃ、失礼します!」
「えっ、あの」
返事を聞かずにその場を去った。怪しい人物に見られて荷物は没収されるかもしれない。でも、それでもいい。体が軽くなったのは、なにも荷物を全て置いてきたからではなさそうだ。
背伸びしても支援は支援。それを偉そうに語らなくても、自分の中に『自分はこれをやった』という形にならない形が残っている。それが大切なのかもしれない。
なんて、背伸びして考えていた。明日の暮らしを顧みずに。