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彼女と同棲するまでの話し-The story until live in with her-  作者: クランボラム豊田


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9/11

来客

4月1日引っ越してきてもう1週間経つ。

この1週間、自宅周辺の地理を把握したり、大学までの通学路の確認だったりと外に出かける機会が多かった。

他にも引っ越し荷物の受け取り、荷開きしたことによって殺風景だった部屋が実家に居た頃の自室とそう変わらない状態になった。

鶴見も今日から関東に引っ越してくると昨日グループチャットで連絡があった。県境を跨ぐので近い訳ではないが、電車で1時間も掛からない距離に居るのでその内、こちらで会う約束をするかもしれない。

今日も今後の生活に役に立ちそうな場所を探すために散策に出歩こう。

まず向かったのは先日行ったばかりの喫茶店兼Bar。

ここに来るのは初日以来二度目。心地よい雰囲気が気に入ったのでここで朝食兼用の昼食を取っていく。

今日はというか朝はマスターが一人で経営してるのか、他の店員は見当たらない。

店の中に入ると空いているお席にお座りくださいと書いてある立て看板が置かれている。


「いらっしゃいませ」


マスターに挨拶されたので、軽く会釈をして前回と同じ席のカウンターに座る。他の客は俺以外に一人だけ。

メニュー表を見て何を頼むか考えた後にモーニングセットを注文する。ドリンクはコーヒーではなくミルクティーに変えてもらいホイップクリームを追加してもらう。つまりウイナーミルクティー。

前回のウイナーコーヒーも美味しかったけれど、選べるならコーヒーよりも紅茶。

暫くすると注文がしたモーニングセットが届いたので早速いただく。


「美味い」


トースト1つ取っても普段食べている食パンとは違う、お店のクオリティー。


「それはよかった」


俺の独り言が聞こえたのがマスターが返答してくれたので改めて感想を述べる。


「このトースト美味しいですね」

「仕入れ先のパン屋が美味しいんだよ」


なるほど。市販のパンではなくパン屋から仕入れているのか。

今気づいたのだけれど、マスターの服装が夜のパーテンダーのような服ではなく、喫茶店の店主って格好だった。昼と夜で服も変えているのか。

トースト以外の料理も食べるがどれも美味しい。

食事を終えると地図アプリを開いてこのあとのプランを練る。

既に寝具以外にも冷蔵庫や洗濯機といった大型家電を購入済みで生活上で必要な物はすでに揃っている。

なので今日は娯楽施設を中心に見て回りたいと考えている。大学に入ってからどれだけ忙しくなるか分からないけれど、息抜きできる場所を見つけておくことも大切だと思う。

近々、速水も近くに引っ越してくるはずだから行くかはわからないが、一応ゲーセンの場所も把握しておこう。

速水といえばあれから義明さんとは何回かやり取りをしたが、当の本人とはまだ一度もやり取りが出来ていない。俺から挨拶の文を一度送ったものの返信が来ていない状況だ。

裁判所で会ったとはいえ、直接話したわけでもないし、向こうは俺が居たことを認識していたかすら怪しい状態で音信不通。本当に近所に引っ越してくるのか少し怪しくなっている。


「おはようございまーす」

「おはよう。ちは今日もよろしく」

「だから千晴だっててんちょー」


1時間近くお店に居座っていたらちはれさんが出勤してきた。

思ったより長居してしまったな。そろそろ帰ろうと席を立つと……


「あれー?君は確かこの間のナポリタンのお兄さんじゃん」

「どうも」


声を掛けられたので軽く挨拶だけして伝票を手に取ろうとしたところ。


「嬉しいねぇ。また来てくれたってことはこのお店気に入ってくれたんだ!今日は何食べたの?」


横からちはれさんに伝票を奪われた。


「あっちょっと」


意外とおせっかいなお姉さんだな。客が何食べたなんて一々把握する必要なんてないだろうに……


「どれどれモーニングセットにウインナーミルクティー……ミルクティー!?ちょっとこれどういうこと?」

「えっ?」


ミルクティーの文字を見てから俺の事を問い詰めるかのように顔を近づける。


「なんでミルクティー?そこはウインナーコーヒーでしょ」

「いや、あの実はコーヒーが苦手でして」

「はぁ~」


深いため息をつかれてしまった。


「10分後、もう一度来て下さい、本当のコーヒーを飲ませてあげますよ」

「いや、だから苦手で……」

「てんちょーコーヒー一杯よろ」


演技じみた声と謎のキメ顔で勝手にコーヒーを注文する。

この人、話しを聞かないタイプの人間だ。思えばマスターの事もずっとてんちょーって呼んでるしなぁ。


「ちは!勝手に客の注文を取るんじゃねえよ。あと着替えてからフロアに立て」

「てんちょーお代は私のバイトから天引きしていいから作ってあげて」


マスターにお願いしてからちはれさんは着替えをしにバックヤードへと消えた。


「うちの店員がすみません。コーヒーをお作りますがお代は結構です。一口飲んで苦手であれば残していただいて結構ですから少しだけお付き合いしていただいてもよろしいですか?」

「あ、はい」


好き好んで飲まないだけで無料ならいただこう。

ちはれさんの暴走は良くあることなのかマスターが溜息をつきながらコーヒーを作り始める。


「おっ待たせ―千晴ちゃんの再登場ー!」


端から聞いていれば面白い人だと思っていたのだけれど、当事者になると一気に面倒くさ……愉快がすぎる。マスターがヤレヤレ系になってしまうのも少し頷ける。


「今、千晴さんのエプロン姿素敵だなーって思ったでしょ」

「いえ全く」


全然違う感想を抱いていた。


「このお店、お昼と夜で制服が違うの。面白いでしょ。服を着替えるの私の発案なんだ」


昼と夜でコンセプトが変わり、服装まで変えるのは確かに面白いと思う。エプロンの可愛い感じとバーテンのようなスタイリッシュな感じのギャップが上手く演出出来ている。春から経済・経営学を学ぶ立場として勉強になる。


「千晴コーヒー淹れたから提供して」

「はーい」


マスターに声を掛けられるとキッチンに戻り、コーヒーを持って俺の前に置く。


「こちらが当店自慢のブレンドコーヒーになります。一口目はブラックのままどうぞ」


先日のコーヒーはホイップクリームが上に乗っていたせいか、あまり香りを感じなかったけれど、今日は上に何も乗っていないので香りが直に届く。味はともかくコーヒーの香りは嫌いではない。

ちはれさんは提供した後も俺の反応を見る為に早く飲めと言わんばかりにそのまま席に座って待っている。相席を許可した覚えはないんだが。

香りを楽しんだ後、一口飲む。


「苦い」


砂糖やミルクも入れずにそのまま飲んだので当然の如く苦い。なんなら前回よりコーヒー自体が濃い。


「苦い、だけ?」

「はい。あの、コーヒーなら前回も飲んだし、何だったらクリームが乗っていた分。前回の時の方が飲みやすかったです。そもそもさっき言ってた本当のコーヒーとはなんなんですか?」

「ふーん。そっか」

「いや、答えてくださいよ」

「まぁまぁ無料だから。あ、砂糖やミルク入れて飲んでみなよ!甘いと美味しいかもよ」


このままブラックで飲むのはきついので、言われた通りに砂糖とミルクを入れて飲む。……それでも前回のウインナーコーヒーの方が断然好みだ。


「どうかな?やっぱり駄目?」


パッとしない俺の表情を見てちはれさんが声を掛けてくる。


「はい。飲めなくはないんですけど、好ましくはないです」

「そっかー。うん、なんかごめんね。てんちょーの淹れたコーヒーならコーヒーが苦手な人も大丈夫だと思ったんだけどね」

「あれ、前回もてんちょーさ、いやマスターが淹れてくれたんですよね?」

「うんうん前回は私が淹れたんだよ。分量や蒸らす時間は同じで注ぎ方もほとんど同じなんだけど、どうしても味が違うんだよね。私の方はコクが浅いというか全体的に味がぼやけてるように感じてしまう」


なんとなく理解した。コーヒーが苦手な俺からすればTheコーヒーとしたマスターが淹れたコーヒーよりもちはれさんが淹れたコーヒーの方が飲みやすいんだ。


「俺はちはれさんの淹れたコーヒーの方が飲みやすいです」

「え、嘘!そんなこと言ってくれたの君が初めてだよ」


それは俺がコーヒーを苦手としているからだけど、俺以外にもコーヒーが好きじゃない人はマスターが淹れた本格的なコーヒーよりちはれさんが淹れたコーヒーの方が案外ウケるかもしれない。


「そっかそっか嬉しいなぁ。そんな君にはサービスしてあげないと」


あかねさんは一度キッチンに下がってしばらくした後、ホイップクリームを持ってどうぞと渡してくれた。


「今日もウインナーミルクティー頼んでたからホイップクリームは好きだよね?」

「はい」


既に多めに砂糖を淹れているし、甘くなりすぎるような気もするけれど、折角の好意なので受け取りたい。

全て投入してグイっと飲む。うっ…甘い。

その後、ちびちびと飲み干し、席を立ち会計を済ませる。


「ありがとうございました。また来てね」


料金はモーニングセットとミルクティーに付けたトッピングのホイップクリームの料金だけ。

追加のコーヒーとホイップクリームは料金に入っていない。


「あの、本当にコーヒー代払わなくてもいいんですか?」

「?最初からそう言って飲んでもらったから勿論だよ」

「そうですか」

「代わりにまた来てね。待ってるよー」


そう言って笑顔にウインクでお見送りをしてくれた。

このお店を気に入ってるのでまた来るつもりでいる。……ただ、少しだけ頻度が高くなりそうだ。

喫茶店を出た後、娯楽施設をはしごし、3軒目に移動中、少し長めに携帯が震えたので携帯を取り出すと画面には意外な相手からの着信……

鶴見から電話が掛かって来た。一体何の要件だろうか?

とりあえず出てみるか。


『ごめんなさい。今お電話大丈夫ですか?』

「今、外にいるから静かな場所に移動してから掛け直す」

『すm』


鶴見が喋っている途中だったが、途中で切ってしまった。

緊急な要件だと感じたので、混雑している大通りを抜けて人通りが少ない裏路地まで走って移動する。

ここなら問題ないだろう。携帯を操作して折り返し電話をする。


「移動した。それでどうしたんだ」

『実は今日、私の引っ越しの日で』

「ああ、知っている。グループチャットで言ってたな」

『それで今、東京まで来たは良いものの、トラブルで家に入れない状態なのでその……今夜、泊めてもらえませんか!?』

「は?…………は?」


トラブルで家に入れないのは気の毒だけれど、それがどうしていきなり俺の家に泊めてもらおうという流れになったのだろうか?


『いきなりで困りますよね。でも頼れるのは筒井くんしか居なくて』

「話しが飛躍していて理解が追いつかない。とりあえずゆっくり順を追って説明してもらえるか?」

『ご、ごめんなさい。私もテンパってて』


落ち着いていないのは話し声から聞いてて分かる。

まずは落ち着いてから話してもらおう。……俺の方も一度落ち着かないと。

電話口から深呼吸する音が何度か聞こえる。俺も肩の力を抜いてゆっくりと呼吸する。


『お待たせしました。えっと、どこから話せばいいのかな……まず、今日家を出るときに財布を忘れまして、気づいたのが駅に着いてからだったんです。財布を取りに帰ろうにも出発の時間に間に合わないということでお母さんが魔法のカードを渡してくれたんです』


魔法のカード?


『でもその魔法のカードは家族でも本人以外が使うのはどうやら違法らしくて私が使ってはいけないみたいで』

「すまん。魔法のカードって例えがよく分からないんだけど、クレジットカードのことでいいか?」

『あ、はい。そうです。分かりづらい例えしてすみません』

「財布を忘れて貰ったクレカが使えないのは分かったけど、電車はどうやって乗ったんだ?」

『切符をあらかじめネットで購入していたので携帯を改札機に翳せば乗れました』


そっかオンライン決算済みならいけるか。

俺の場合は出発時間が未定だったのもあって、券売機当日購入していたのでネット購入のことが頭から抜けていた。


『東京についてからは事前に連絡していた不動産に行って鍵を受け取る予定だったんですけど、お店が締まってて担当の方にも連絡が通じない状態なんです』

「もしかして休みなのか?」

『はい、そうです。ただ、お休みなのは事前に知っててそれでも鍵の受け渡しだけならと対応してくれる手筈だったんですけど、音信不通の状態です』


不動産は水曜日に一番休みが多いらしいが、火曜日が定休日になっているお店も割とあるらしい。


「財布がなくとも携帯で支払いできるなら対応しているホテルに入ればいいんじゃないか?」

『実は残高が残り2000円ちょっとしかなくて……』

「両親に連絡は?」

『勿論してあります。カードの事を話したら緊急事態なんだから良いでしょって言ってるんですが、私は納得出来ずに口論になってしまって……それで友達が近くに住んでるから一晩だけ面倒見てもらうって言って切ってしまいました』

「確認するけど、利用停止されててカードが使えないって訳じゃないんだよな?」

『はい。利用していないので正確には分かりませんが、使用はできるはずです。ただ法的に駄目みたいで、家族の許諾を得ていても詐欺罪に当たるとか』

「そうか」


直接カードを使わないにしても両親にホテルの予約を取ってもらってそこで一晩過ごせばいいような気もするが、既に友達に面倒を見てもらうと言ってしまった手前、引っ込みがつかないのかもしれない。だとしても、気づいていない可能性もあるので確認してみよう。

俺を頼ってくれたのは嬉しいが、付き合っても居ない男女が一晩同じ部屋で二人きりで過ごすのは良い行動じゃない。


「なぁ、カードを使わなくても親にネットでホテルを予約して貰えばいいんじゃないか?」

『あっ、筒井君流石です。その手がありましたね。早速お母さんに連絡します。ありがとうございます。それでは失礼します』


そう言って電話が切れる。やっぱり抜けていたか。

鶴見も他の選択肢が思い浮かばなかったから俺に連絡してきただけで、できれば俺の部屋に一晩お泊りたいと思って連絡してきたわけではないだろう。

携帯をポケットにしまい、本来の目的地に行くための正規ルートへと戻っている途中でまたすぐに携帯が震える。

ポケットから取り出すと着信は予想通り……鶴見だった。


「どうした?」

『何度もすみません。今、お母さんに連絡したら』

「悪い。1分ほど待ってくれ、静かな場所に移動する」

『分かりました』


今度は電話を繋いだまま、元に居た場所まで走って戻る。

「待たせた。それで?」

『はい、お母さんに連絡したら御冬から友達を頼るって言ったんでしょって言われて取り合ってもらえませんでした。1つ前の連絡で喧嘩するような形で私から電話を切ってしまったのが原因なんですが……』

「そ、そうか」


どうにも母親の方が意固地になってしまっているらしい。困ったな。


「泊まるかは置いといて一旦家に来るか?」

『迷惑を掛けてしまいすみません』

「住所を送っておく」」

『お願いします』

「困ったときはお互い様だ。俺も今外出中だから一時間経ってから来てくれ」


予定を中断して鶴見に住所を送り、俺も急いで帰る。

まだ引っ越して来てから1週間しか経っていないので部屋は汚れていないが、迎える上で掃除くらいはしておきたい。


マンションの前まで戻ると初めて住人らしき人と遭遇する。

しかし帽子にサングラスとマスク、まるで芸能人が身バレ防止に変装するかのような姿で挙動も怪しく、不審者感があったので関わってはいけない人だと思い、挨拶はせずに横を通り抜ける。


「あっ……」


一瞬、声を掛けられたのかと思ったが、続く言葉がなかったので振り向かずにそのままマンションの中へと入って行く。

部屋に戻り、しばらくするとエントランスからのインターホンが鳴る。

鶴見?早いな。もう着いたのか。

客人を招き入れても恥ずかしくないくらいには奇麗になっているものの、準備が終わっていないので通話ボタンを押して解除ロックのナンバーだけを伝えて準備に戻る。

しばらくして部屋前のインターホンが鳴ったのでドアを開けると……そこに居たのは先程マンションの前で遭遇した挙動不審な女の子だった。


「えっと、どちら様で……?」


鶴見……じゃないよな?

今目の前に居るのはキャリーバッグを持った長い黒髪の女の子。彼女はサングラスは外していたものの、深く帽子を被って俯いているので顔が見えない。


「あたし……」


あたし?オレオレ詐欺的な?んな馬鹿な。だとしたら宗教の勧誘とか?どっちにしろ今は構っている暇はないのでお帰り願おう。


「ええっと……?あの、勧誘とかは要らないんで帰ってください」


エントランスがオートロックになっているのに解除して入れたのは誰だよ。……俺か。鶴見だと勘違いして顔と声を見ず、聞かずに解除ナンバーを伝えたのは不用心だった。


「……筒井が来いって言ったから来たのになんで?」

「俺が?」


俺の名前を知っているということは、えっ鶴見?ってんなわけない。体格も声も違う。

知り合いにこんな女はいない。

俺が困惑していると女の子は帽子を脱いでマスクを外し、素顔を晒したことでようやく答えに辿り着く。


「速水か?」

「うん」


そこには去年までほとんど話したことがない、この数か月で関係性が大きく変わったクラスメートがいた。


「えっ、なんで?」


裁判の時は金髪と黒髪が混ざったプリンカラーだったのに今は黒く染まっている。

高校入学時からずっと金髪だったので、速水の黒髪を見るのは初めてで、黒髪に深くかぶった帽子とマスク姿で現れたら気づけるはずがない。


「筒井が来いって言ったから」


引っ越しの挨拶ってことか?


「来るなら事前に連絡くらいして欲しかった」

「した」

「嘘だろ?」


携帯を見て受信履歴やメッセージアプリ、メールを確認するが、なに一つ速水からの受信履歴はない。


「届いてないが?」

「ちゃんと送った。ほら」

速水が自分の携帯を操作してメール送信済み画面を俺に見せてきた。

確かに送られてはいるものの、送信先は俺ではなく、岩手弁護士宛てになっている。


「これtoが俺じゃなくて岩手さん宛てになってるぞ」

「え?でも筒井にも送られてるよね?」

「いや、送られてない」

「なんで?岩手弁護士からは筒井とあたしとお父さんに送られてるのに?」


なんでって言われてもな……というか関係者とはいえ、既に岩手さんの仕事は終わっているんだから巻き込まないであげて。


「返信は全員返信にしないとtoだけでccには送られない」

「to?cc?って何?」


そこからか。俺もEメールをほとんど使うことがないから仕方ないのか。直近だとメールの岩手さんとのやり取りと通販サイトで買い物する時に来る確認メールも閲覧にしか使っていない。


「toってのはあなた宛てって意味でccは同じ内容を共有したい相手って意味だ。bccってのもあるけど今は関係ないから省くとして、返信だと送られた相手は送ってきた相手だけに返信され、全員返信だと共有している相手にも一緒に送れる」

「そう、なの?」


ちゃんと理解できているか?これまで使う機会がなかっただろうし、これからも使うことがないのかもしれない。

俺も知識としては持っていても実用する機会はなかったし。

とういうか添付されてるアドレスを登録してそこから俺だけにメールを送ってくれればよかったのに何故そうしなかったんだろうか。……普段Eメールを全く使ってないからだろうな。

俺も岩手さんとチャットアプリでやり取りしていればこんな事故が起きなかっただろうし、お互い様か。


「それで今日は何の用だ?引っ越しの挨拶か?」

「挨拶……?挨拶って言えば挨拶になるのかな……?」


どうにも曖昧な感じではっきりとしないなぁ。


「今急いでるからまた今度にしてくれないか?」

「今度って……ちょっ」

「それじゃーまた」

「待って!」

ピンポーン。


玄関の扉を締めようとすると速水が今日一番の声を張り上げた所でインターホンが鳴ったので、速水には一度待ってもらい、インターホンに出ると画面に映ったのは今度こそ鶴見だった。


「えっ?鶴見さん?なんで!?」

「今日鶴見が泊まりに来ることになってるんだ」

「なんで?」

「なんでって言われても今は時間が無いから後で説明する。速水も鶴見とは遭遇したくないだろ。映らないように気を付けてくれ」

「それは……そうだけど」


単純に元クラスメートに会いたくないってのもあるだろうし、俺が庇わなければ鶴見が刺されていた未来だってあり得ただけに、俺もこの二人を合わせたくない。


「でもそしたら私はどうすればいいの?」

「それは……」


どうすればいいんだ。


「なんとかやり過ごすから静かにしてて」


速水を玄関に待たせたまま、カメラ内に入らないのを確認してから通話をONにする。


『あ、筒井くん駅に着いてから何度か電話したんですけど、出られなかったのでいただいた住所を検索して直接来ました』

「あぁ、ゴメン。電話に気づかなかった」

『今、大丈夫ですか?』

「ああ」

『それじゃあ解除ナンバーを教えていただけると助かります』

「あーそうだな0721919だ」

『ありがとうございます。これから部屋に向かいますね』

「ゆっくりでいいからな」


通話を切った後、速水と向き合う。


「どどどどうしよう。というかなんで待ってもらわないで伝えちゃうの?」


確かに……速水がこのタイミングで家に来たことで焦ってしまった。

分かりやすく速水が動揺しているように俺も動揺していた。


「今から鶴見と遭遇せずにマンションを出るのは難しい。一旦押し入れに入って隠れてて」

「わ、わかった」

「スペースはあるからそんな窮屈じゃないと思う。あ、靴も忘れるな」

「う、うん」


女物の靴なんてあったら鶴見に誰かが居るのがバレてしまう。

面識がない相手なら最悪妹ってことにしてもいいかもしれないが、元クラスメート相手にはそうはいかない。どこかでタイミングを見計らって外に逃がさないといけない。

『何かあったらメールで知らせてくれ』っと速水に送信すると押し入れの中から通知音が流れる。


「速水サイレントモードにして」

「ご、ごめん」


先にメールを送っておいて良かった。

念の為、再度『あ』とだけ送ると物音一つなかったので一安心。

程なくしてインターホンが鳴り、ドアを開ける。


「こ、こんにちは!」

「いらっしゃい」

「急に押しかけてごめんなさい」

「困ったときはお互い様だ」

「お互い様って筒井くんは私を頼ったことないですよね?」

「これから頼ることがあるかもしれない」

「本当ですか?いつか私にもお礼させてくださいね」

「機会があればな。取り合えず立ち話しなんだから入ってくれ」

「はい。お邪魔します」

「椅子や座布団があれば良いんだけど、何もないからとりあえずベッドにでも座って」


そう言って俺はベッドを叩いて座るように促す。


「え!?地べたで大丈夫です!全然っ」

「足とか尻が痛くならないならそれでもいいが……何か飲むか?一応、水、緑茶、麦茶にオレンジジュース、ぶどうジュースにコーラ、ホットならココアとミルクティーも出せる」

「いっぱいありますね」

「飲み物の選択肢は沢山あったほうが良いと思ってな」

「筒井くんってオレンジジュースとかも飲むんですね。お水やお茶しか飲まないのかと思ってました」


偏見だな。

と言っても俺も前まで岡山先生に対して甘いものは飲まないんだろうなと思っていたから人のことは言えないか。


「頭を使う時に気分転換で飲むことが多いかな」


俺自身は体感した経験はないがブドウ糖が不足すると集中力が途切れるらしい。


「そうなんですね。では緑茶をもらってもいいですか?」

「分かった。鶴見は勉強の時は何を飲むんだ?」


用意したグラスに未開封の緑茶を注いで渡す。


「ありがとうございます。私ですか?私は温かいお茶を飲むことが多かったです。飲んだ後にリラックスできるので」


俺も清涼飲料水だけでなく、その日の気分によって温かいミルクティーやココア、勿論お茶類も飲んでいたから分かる。


「お茶温めるか?」

「いえ、大丈夫です」

「……」

「……」


もう話題が尽きてしまった。お互いに口下手だからか俺と鶴見は二人だとすぐ話しが途切れてしまう。

静寂が苦手な訳ではないが、今の関係でよく一人で俺の家に泊まりに来ようと思ったものだ。

そんなことを考えているとテーブルに置いていた携帯が震える。

手に取ると2回の着信と1通のメールが届いていた。

2回の着信はどちらも鶴見からでメールは速水からだった。


『ぶどうジュースが飲みたい』


こいつは今、自分が置かれている状況をちゃんと理解しているのだろうか?鶴見が居るのに「はいどうぞ」と渡せるはずがない。


『駄目だ』

『なんで?ケチ!』


ケチって……そういうことじゃないだろうに。

無視していると追撃メールが来る。


『鶴見さんと扱いが違う』


扱いが違うのではなく、渡せる状況ではない。それにもし見つかったりしたら俺よりも速水の方が困るだろうに。


『分かった。鶴見が席を外したタイミングで渡す』


「珍しいですね。さっきから携帯ばかり見てて」


返信したタイミングで鶴見から声を掛けられる。

これまで人と居る時に携帯を触ることがなかったのが鶴見の目には違和感に映ったみたいだ。


「え?あ、あぁちょっと気になるニュースが届いて」


適当な良い訳で誤魔化す。


「そうなんですね。どんなニュースですか?」


まさか食いついてくるとは思わなかった。困ったな。鶴見が興味なさそうなタイムリーなニュースと言えば……


「政治家の汚職」

「……大人ですね」

「18だし、選挙権もある。社会的なニュースにも関心を持たないとな」

「筒井くんらしいと言えばらしいのかな」


少し変な空気になったような気がするが気のせいだろう。


「お手洗い借りても良いですか?」

「あぁ。部屋を出て玄関横の扉を開けて左だ」


鶴見が部屋を出て行き、トイレの扉が閉まる音が聞こえたのを確認してから冷蔵庫からぶどうジュースを取り出して押し入れの扉を開き、速水にぶどうジュースを渡す。


「ありが……」

「礼はいいから飲むときに音を出さないように」


それだけを伝えるとすぐに押し入れの扉を閉める。

特に反論は無いので納得してくれたはず。

暫くすると鶴見がトイレから戻ってくる。


「洗面台の場所は分かった?」

「はい。勝手に使わせてもらいました」

「かまわない」


速水との会話は聞こえていないようで一安心。


「あの、晩御飯って予定決まってますか?」

「折角だからどこかに食べに行こうと思うけど、なにかリクエストはあるか?近くに店はないけど、少し移動すれば大抵のものは食べられる」

「筒井くんが良ければ私が作りますよ」

「鶴見が?」

「はい。何かお礼をしたいと思っていたので」


それは魅力的な提案だ。

料理するなら食材を買いに行かなければいけない。外食に行くなら早くても夕方まで待たなければいけないが、買い物なら調理時間も考えるとすぐにでも行動を起こしても不自然じゃない。俺と鶴見が買い物に行っている間に速水には家から出て行ってもらおう。

それに手料理を食べられる機会なんて滅多にないので楽しみだ。


「じゃあ今から買い物に行こうか」

「今からですか?分かりました」


鶴見には着いた早々で悪いがこちらにも事情がある。速水にも俺たちの会話は聞こえていたはず、俺の意図を察してこのタイミングで脱出してくれ。

財布と鞄を持って二人で家の外へと出る。玄関の扉は家の外に出たのがわかりやすく伝わるようになるべく大きめな音を出して閉めた。

鶴見にこれ以上違和感を与えたくないので携帯は触らないでおく。鍵を閉めるふりをして実際は開けたまま出掛ける。

不用心かもしれないが、エントランスのオートロックがあるので部外者は簡単に入ることは出来ないし大丈夫だろう。それに盗まれて困るような高価なものは置いていない。


「鶴見は料理が得意なのか?」

「得意ってほどではありませんが作れます。受験が終わってから色々なお料理の練習もしました。何かリクエストは有りますか?」

「得意料理がなにか聞いてもいいか?」

「うーん。自分で上手く出来た手ごたえはないのですが、家族から一番好評だったのはカレーでしょうか?」

「カレーか。良いな」


たまに弁当でカレーを買うことはあるけど、手作りのカレーとなると林間学校の時以来になる。

あの時、一緒にカレーを作った班員に鶴見も居たのもあってか、とても美味しかった記憶がある。


「それじゃあカレーにしましょうか。確認ですが、包丁とお鍋はありますか?」

「一通り揃っている」


実際に料理するつもりはないけれど、必要な場面が訪れると思い、家から持ってきておいて正解だったな。


「それなら食材だけで大丈夫ですね」

「ああ、スーパーはこっちだ」


最寄りのスーパーとは反対方向の少しだけ遠い、大きめのスーパーに先導すると鶴見が少し遅れて後をついて来る。

少しでも時間を稼ぎたいのでいつもよりゆっくり歩く。

鶴見が家を出たか気になってしまい一度マンションの方を振り返る。


「どうしたんですか?忘れものですか?」

「いや、何でもない」


どうしても速水の事が気がかりだ。やっぱりメールを送ろう。

ポケットから携帯を取り出して操作しようとすると歩きスマホは危ないですよと注意を受けたので結局断念した。

速水大丈夫だよな?


スーパーに着くと買い物かごを手に取ってカレーの話しを始める。


「筒井君はお好みのカレーとかありますか?」

「カレーの好み?」

「はい、例えば市販のルーだとどこが好きだとか入ってる具材の種類とかです」

「あまり考えた事なかったな」


カレーは大抵どれも変わらず美味しいという認識しかない。


「食べ比べてみると結構違うんですよ」

「へぇーそうなんだな。今度からは少し意識して食べてみる」

「今日はどうしましょうか?」

「鶴見に任せるよ」

「全部私が決めてしまうよりも分担しましょう。筒井君はお肉とルーを選んでくれませんか?他の具材は私が選びますので」

「鶴見は何カレーが好きなんだ?」

「私はポークカレーが好きです」


鶴見の好みにを聞いて豚肉をチョイスする。


「って私の好みの通りに買ったら分担の意味がないじゃないですか!どのお肉にもそれぞれの良さがあるんですよ」

「じゃあ、辛さはどうだ?辛すぎて食べれないと流石に困るだろ?」

「私は甘いのも辛いのも大丈夫です」

「それならよかった。俺はどちらかというと辛い方が好みだからな」

「辛口ですね。分かりました。種類はどうしましょうか?」

「辛口なら何でも大丈夫だ」

「甘いですよ筒井くん。辛口と言ってもメーカーによって辛さの基準が全然違います」

「そうなのか?」

「はい。このカレールウのパッケージ裏を見てください。どうですかメーカーごとのカレーの辛さをグラフで表してありますが違いますよね」


鶴見が手にしたパッケージを見るとA社の辛口がB社の甘口と中辛の中間くらいの辛さに位置されていいて、A社は辛口までしかないのに対してB社は辛口より上の激辛まで存在している。

そうなると今まで自分が食べていたカレーの辛さがどのくらいなのか全く分からなくなってしまった。

悩んだ挙句、鶴見の意見を参考にB社の辛口を選んだ。

他にはパッケージ裏に乗っている基本的な野菜に鶴見が選んだ隠し味らしき物を手に取る。


「あ、ヨーグルトが気になりますか?隠し味に入れるとカレーにコクと深みが出て美味しくなるんですよ」

「へぇ」

「余った分はラッシーにします」


ラッシー!インドカレー屋で見る飲み物だ。

こういう話しを聞くと本当に料理できるんだなと感心する。


「食材費ですが、次にお会いした時に半分支払います」

「別にいいよ。そんなに高い買い物って訳でもないし、作ってくれるんだからそれくらいは俺が払う」

「駄目です。半分払います。レシートの写真撮らせてくださいね」


金のトラブルは友情崩壊に繋がると言うが、出す方が良いと言ってるだから素直に聞き入れてくれていいんだけどな。

律儀な所は鶴見の長所の1つでもあるが……


スーパーから帰宅し、部屋に入る時、鍵は開いたままなので一度鍵を回して閉めた後に再度開けてから入る。


「それじゃ、早速作っちゃいますね」

「手伝うよ」

「平気です。座って待っててください」

「そういう訳にもいかない」

「これはお礼ですから……あ、じゃあ調理器具の用意だけお願いできますか?場所が分からないので」

「了解」


キッチンの棚を開けて包丁、まな板、鍋を取り出してさっと洗い、順番に並べて準備完了。


「ちょっとトイレ」

「後は任せてください」


頼もしい返事が返ってくる。

水に触れたせいで尿意を催したので、トイレへと向かい扉に手を掛ける。


「あれ?」


扉を開けようとするも動かない。っというか内鍵が掛かってる。

まさか……いや、嘘だよな?

携帯を取り出して速水にメールを送るも返信はない。

トイレの鍵くらいならコイン1枚で外から開けることも出来るようになっている。

だが、その前に中に居る人間に向かって小声で話しかける。


「速水か?居るなら小さく扉を叩いて返事してくれ」


すぐに小さなノック音が返ってくる。


「鍵を開けてくれ」


もう一度ノック音が返ってくる。どうも開けたくない事情があるみたいだ。


「どうして開けられないんだ?近くに鶴見は居ないから小さい声で喋ってくれ」

「流してない……」

「ん?」

「だから……あたしが使った後、流してない」


つまり速水が使用した直後に俺たちが帰ってきたせいで水音を流さない為にトイレをそのままの状態にしてあるということか。


「分かった。トイレを流して出て来てくれ」

「うん……」

水が流れる音がした後、速水が申し訳なさそうにトイレから出てくる。

俺はトイレに入らず、そのまま速水を玄関先に行くようにジェスチャーをして一度リビングに戻る。


「鶴見。買い忘れをしたからもう一回スーパーに行ってくる」

「え?」

「鶴見はそのまま作っててくれ」

「わ、わかりました。行ってらっしゃい」


鶴見に伝えた後、速水の手を引いてマンションの外に出る。


「なんでまだ部屋の中に居るんだ?折角鶴見を外に出して部屋から出るチャンスを作ったのに」

「だって何も言われなかったから」


それくらい言わなくても分かるだろ。と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。察してくれと思うだけで指示しなかった俺に落ち度がある。


「そうか。それでなんでトイレに?」

「ジュース飲んだら催して」


トイレしたくなったからトイレに行った当たり前の答え。流石に生理現象は責められない。

鶴見が先にトイレに行ってたら積んでいたが、俺が先にトイレに入ったおかげで結果的に最悪の事態は間逃れて部屋からも無事に出られた。

これからどうしたものか。とりあえず家に帰ってもらおうか。


「今日はもう帰ってくれないか?」

「え?」

「ん?どうした?」

「あたしの家……筒井の家があたしの新しい家」


あぁ??どういうことだ?


「同棲始めるんだよね……?」

「…………ちょっと待ってくれ」


頭の中でこれまでの経緯と発言の記憶辿る。

ファミレスでの出来事を回想していると暑くないのに額から汗が浮いて出てくるのが分かる。


「大丈夫?」


速水が俺の顔色を見て心配してくれている。うん。大丈夫じゃない。


「電話させてくれ」

「え?何?なんで?」

「確認したことがあるんだ」


速水の返事を聞く前に俺は登録してある電話帳から速水義明の名前をタップして通話を掛ける。が、一向に繋がらない。


「駄目だ。出ない」


仕方ないので別の相手に電話を掛けると1コールで繋がる。


『青森弁護士事務所の岩手です』


俺が電話を掛けたのは立会人の岩手さん。

もう連絡することはないと思っていたが、まさかこんなに早く連絡することになるとは……


「岩手さん筒井です。今お時間よろしいでしょうか?」

『慌ててどうされましたか?事件ですか?』

「いえ、事件って程ではないんですけど、緊急で相談というか率直な意見を聞きたくて連絡しました」

『なんでしょうか?』

「今、速水が家に来ていまして」

『ああ、今日から同棲ですか、それで困り事ですか?』


やっぱりそういう反応になるのか。


「俺としては元々同棲するつもりはなくて近所に住んでもらう予定だったんです」

「えっ?」


岩手さんとの電話の会話を隣で聞いる速水が声を上げたが一旦無視する。


『今の状況が想定外ということでしょうか。筒井様の意向が最優先ですので、断って結構です。ただ……來玲愛さんも不安が多い中、覚悟を持って筒井様のお宅を訪ねて来たでしょう。そのことを少し考えてあげてください。一応あの時の録音もあるので再生しましょうか?』

「大丈夫です。自分の発言は全部覚えています。第三者の意見が聞きたかっただけなので。お手数おかけしました」

『覚悟を決めたということで良いでしょうか?』

「……はい。要件はそれだけですので失礼します」

『また困ったことがあればご連絡ください』

「やっぱり筒井はあたしと同棲なんて無理……だよね?」


不安が入り混じった表情で速水が聞いて来る。


「俺が誤解を生むような発言をしたのが悪い。速水が問題なければ、同棲しよう」

「う、うん」


速水は覚悟を決めて俺の家にやってきた。俺も覚悟を決める。


「でも今日は別の場所に泊まってくれ。近くのホテルにでも……どうした?大丈夫か?」


速水を見ながら話していると小刻みに震えている。


「う、うん。実はまだ外が怖くて……今日こっちに来るときもずっと震えが止まらなくて」


ファミレスで再会した時とは違い、受け答えが大分マシになっていたので勘違いしていたが、速水の心の傷はまだ癒えていない。

スマホを操作して近隣のホテルを探して予約する。ホテルなら最初と最後にフロントと顔を合わせるだけで精神的な負担はほとんどない。


「速水、財布は持ってるか?」


なければホテル代は俺持ちか。


「ない。あと携帯と靴も……」

「あっ」


言われて気づく、靴も携帯も押し入れに置きっぱなしでトイレに入っていた所をそのまま連れ出したため、速水は靴下一枚の状態でここまで歩いていた。


「悪い。気づかなかった」

「大丈夫」

「とりあえず靴屋に行くか」

「うん。……何してるの?」


屈んで待っていると突っ込まれる。


「何ってそのままだと足を痛めるだろ。背負うから乗れ」

「えっ?えっ?ええ??」


初めは強い拒否感を示していたけれど、強引に背負うと大人しくなった。

道中すれ違う人々から奇異な視線で見られている気はするが俺はならない。

速水は恥ずかしいのか、俺の背中に顔を埋めて周りから見られないようにしていた。


靴屋に着くと速水に靴のサイズだけ聞いて店の近くのベンチに座って待ってもらう。

靴も履いていない女の子を背負って店に入るのはリスクを感じたので一人で入店する。

靴自体は元々履いている物が家にあるので今回は手軽なサンダルを購入する。というか女性物の靴なんてどんなのがいいのか分からないので選べない。

すぐに買い物を済ませて急いで戻ると、速水を座らせたベンチには二人の男が速水を囲んでいた。

流石都会。人が多い分、変な輩も多くなってしまう。

すぐに声を掛けて去ってもらおう。


「その子俺の連れなんですけど、何か用ですか?」

「ああ、知り合いですか?よかった。顔を伏せてたので体調が悪いのかと思って声を掛けたんですよ」

「靴も履いてないし、なんかあったんじゃないかって思って」


輩かと思ったらシンプルに良い人だった。申し訳なさからすみませんと心の中で謝る。


「実はさっきまで履いてた靴のサイズが合わなくって前の靴を処分してもらって新しいのを買ってきたんです。ご心配ありがとうございます」

「いえいえ、俺たちは何もしてないし、ちょっと声かけただけなんでお気になさらず。じゃあいくか」

「ああ、それじゃあ」


去っていく2人を見届けて速水に声を掛ける。


「変な人じゃなくて良かったな」

「良くない……怖かった」


そう言われて伏せた顔を上げると睨まれる。え、俺は何も悪くないだろ。

速水は息が乱れ、先程よりも細かく震えていた。

本当に怖かったんだな。


「とりあえずこれ、サンダル買ってきたから自分で履けるか?」

「う、うん」


袋から取り出して速水の足元へと置く。

「だーーー…」

「だ?」

「なんでもない」


あぁダサいなぁと言われたのかな。おしゃれな速水からすればシンプルなデザインは受け付けなかったか。

しかし返品しようにもすぐ使うからと言って既に店頭でタグを切ってもらっている。気にいらないかもしれないが今日、明日ぐらいは我慢してもらおう。


「少し休んでから行くか?」

「うん。少しだけ待って欲しい」

「分かった」


速水が休んでいる間に携帯で近くに空いてるホテルがないか探す。

平日からか空き部屋に余裕があって良かった。いつでもチェックインできるようなのですぐに予約する。これで次の目的地も定まった。

速水が無言で立ち上がると身体に力が入らないのか少しふらつく。


「自分で歩けるか?」

「大丈夫」


足元が怪しい気もするが、大丈夫と言ったので手を添えたりはしない。

その代わりにいつでも支えられるように少しだけ距離を詰めて横を歩く。


「それじゃ行くか」

「うん」


予約したホテルまでは2駅離れているので駅まで歩いて電車に乗って移動し、目的地までたどり着く。

ビジネスホテルのフロントで予約した筒井ですと名乗るとすぐに部屋のキーを渡してくれた。


「今、金持ってないだろうから渡しておく」


受け取ったばかりの鍵と不測の事態に対応できるように財布に入っている1万円札2枚を速水に渡す。

金さえあれば大抵の問題は解決できる。


「えっ、そんなもらえない」

「貸すだけだから。ちゃんと返してくれ」

「あ、うん。それなら」

「ホテル代も含まれてるから無駄遣いするなよ」


余分に渡したとはいえ、チェックアウト時に精算額が足りないなんて自体だけは勘弁してもらいたい。

最悪無銭宿泊で警察沙汰……そうなれば折角の執行猶予までも台無しになってしまう。


「鶴見が帰ったら連絡する」

「あたし携帯ない」

「あっ、そうか。だったらチェックアウトする前に備え付けの電話で俺に掛けて来てくれ。俺の番号はー」


フロントでボールペンを借りて財布の中にあった適当なレシートに携帯番号を書き写して渡す。


「一人で帰ってこれるか?」

「分からない」


携帯があれば地図で戻って来れる反面、携帯に頼りすぎて生きているせいで無いと生活に支障が出てしまう。

今の速水が道に迷った時、他人に道を聞けるか怪しい。


「分かった。チェックアウトの10時前にはこのホテルに迎えに来れるようにする」

「約束」

「出来る限りな。じゃあまた明日」

「あっ……ちょっと」


別れ際に速水が何か言いたそうにしていたが、家を出てから既に1時間以上経っている。

ホテルから部屋に戻る時間と速水を連れ出すための外出の口実の買い物を済ませるのに合わせて2時間近く掛かると計算する。

2時間家を空けた言い訳を探すのは非常に苦しいが、とにかく急いで戻ろう。時間が経てば経つほど大変だ。

あとは何を買い忘れたかというのが重要になる。言い訳は移動しながら考えるしかない。



買い物を済ませて帰宅すると丁度、家を出てから2時間が経過していた。

換気扇からは既に出来上がったであろうカレーの香りが漏れている。


「ただいま」

「おかえりなさい」


扉を開けると鶴見が出迎えてくれる。


「随分遅かったですね」

「これを探した」

「福神漬け……ですか?」


俺は袋から福神漬けを取り出してアピールする。


「そう。やっぱりカレーって言ったら福神漬けが必要だろ?」

「えっ?福神漬けを買うのにこんなに時間が掛ったんですか?」


鶴見が不思議がって……いや、引いているのが分かる。


「とりあえず弁明を聞いてくれるか?」

「あっ、はい」

「俺たちの住んでる地域だと福神漬けって言ったら茶色だろ?それでずっと茶色の福神漬けを探していたんだが、一向に見つからなくってな。何件か回った後、次に見つからなかったら諦めようと思っていたんだけど、やっぱり諦め切れずに何件も梯子している内に隣駅まで行ってしまった」

「あれ、でも筒井くんの持ってる福神漬けは赤いですよね?」


確かに俺が今持っている福神漬けは赤い。

速水と別れた後、電車に乗っている時にこれしかないと思い、1駅目ですぐに降りて駅の近くのスーパーで福神漬けだけを購入して、再度電車に乗って帰ってきた。

俺の発言に矛盾が無いようにこの地域では一般的に茶色の福神漬けが売っていないことも確認済みだ。


「実は福神漬けに赤いのがあることすら知らなくて、ついさっき知って購入できた」

「私は赤い福神漬けがあることも知っていたので一緒だったら教えて上げれたんですけど……先に何を買いに行くか分かってたらよかったですね」

「長い時間、留守番させてしまって悪かった」

「いえ、お気になさらず。あ、カレーはもうできてるので食べますか?ご飯も炊けてます」

「炊飯までさせてしまったか悪い」

「いえ、勝手に炊いて大丈夫でしたか?」

「うん。ありがとう」

「?」

「どうした?」

「い、いえ、なんでもないです」


いきなりどうしたのだろう?考えようとしたとき、首筋に湿り気を感じてその正体に気づく。


「もしかして汗くさい?」


早く帰る為、走って移動したせいで少し汗を掻いてしまった。

体臭は自分では中々気づけない上に他人が臭いの指摘をするのはとてもデリケートな問題なので難しい。それが異性相手なら特に。


「いえ、全然っ!大丈夫です。なんというか逆にお花の香りがしていい匂いだなって……私、何を言ってるんでしょうか」


鶴見は暑くなったのか自分の顔を手で煽ぐ。

花の香り?今までそんなことを指摘されたことは一度もない。

あっ!もしかして速水を背負った時に身体が密着して匂いが移ったのか。


「とりあえず、カレー食べようか」

「そうですね」


この件はこれ以上触れてもお互いに徳がないので簡単に話しが切れた。

器にカレーとご飯を盛って部屋へと運び、2人で手を合わせてカレーライスを食べ始める。


「「いただきます」」


一口に食べると野菜と肉が混ざった旨味がカレーのスパイスと調和して口に広がる。味が濃厚で俺好みだ。


「美味い」

「うーん。まだしっかり煮込めてないから具材にカレールゥが馴染んでいないですね」


作った本人はカレーの出来に満足出来ていないのか、俺の感想は社交辞令と捕らえられスルーされる。十分美味しく仕上がっていると思うんだけどなぁ。


「粗熱が取れたら冷蔵庫に保存してください。明日の朝が一番おいしい状態になっていると思います」

「熟成ってやつか」

「そうです。あとはまだ寒いとはいえ、食中毒の危険も少なからずあるので」


自炊する場合は衛生管理する必要もあるんだな。


「鶴見は明日どうする?」

「明日は部屋に荷物も届く予定なので朝は早めに戻らないとですね」

「そうか。俺も明日は午前中に予定がある」


さりげなく予定があることをアピールしておく。まだ泊めると決めた訳ではないが、外はもう暗くなり始めている。食事が終わってから追い出すのも酷な話しだ。

今日みたいにまた家に置いて行くわけにも行かないし、速水と帰って来た時に鉢合わせしてしまったら今日の苦労が無に帰る。


「カレーは1箱分作ったので、もし明日中に食べられなければ捨てるか冷凍保存してください」

「せっかく作ってくれたのに捨てるなんて勿体ない。食べきれなかった時は冷凍させてもらう」

「そうですか」


言葉はそっけない返事だったが、顔を見ると少しだけ嬉しそうにしている。

鶴見の喜んでいる顔を見たらカレーが更に美味しく感じたので2回お代わりした。

食事を終えた後、少しまったりとした時間を過ごす。

最初は鶴見が使った食器も全部自分が洗うと言っていたが、何から何まで任せる訳には行かないので俺が担当する。


「筒井くん流石男の子ですね。私は絶対にあんなに食べれません」


カレーを3杯食べたことを言っているのだろう。


「入院中に減った分の体重を増やさないといけないから最近は多めに食べてる。食トレってやつだな」

「言われてみれば大分元に戻りつつありますね」

「受験中は食べ過ぎると血糖値の急上昇で眠くなってまともに勉強出来なくなるから体重を増やそうにも増やせなかった」

「分かります。お腹が満たされると眠気が来ますよね」

「眠いと集中力が低下して効率が悪くなるしな」

「あ、そういえば筒井くんが家に空けている間に不動産の担当者から謝罪の連絡がありました」

「連絡があったなら良かった。向こうのミスで実害を受けている以上、なぁなぁ済ませるのは良くない」

「領収証を取ってくれれば今夜の宿泊代は支払うと言われたのですが、友達の家に泊めてもらっていると言ったらお金は出せないと言われました」

「そうか」


きっと社内規定で決まっていることなんだろうから仕方ないのだろう。


「でもホテルで一人でいるよりずっと貴重な時間が過ごせているので良かったです」

「ホテルと比べるとウチは不便だと思うけど」


それでも鶴見が満足出来ているなら良かった。


「それで今更なんですが……お金を貸していただきたいです。すぐ返せると思うので」

「勿論構わない」


初めから緊急事態なら金銭の貸与も仕方ないと考えていたので二つ返事で承諾する。


「ホテルはどこに泊まるのが良いでしょうか?」

「あまりに高い場所だと一部しか返ってこないかもな」

「それは困りますね。えっとこの辺だと……あっ、このホテルなんか丁度いい感じの値段ですね」


そういって調べたホテルのサイトを俺にも見せてくれた。

しかしそこに映っていたのは先程、速水を送り届けたばかりのホテルだった。


「…………」


速水と鶴見を遭遇させたくない俺としては鶴見には速水が泊まっているホテルには泊まってほしくないのだが、レビューサイトを見ても高評価なだけに今の俺にそのホテルは止めておけと否定できる材料が無い。


「なぁ、やっぱり家に泊まって行かないか?」


気づけばそう口にしていた。


「えっ……?」

「えっと、俺も知らない地で久々に知った顔に会ってホッとしたというか」

「う~ん。でもやっぱり迷惑掛けちゃいますし」

「迷惑じゃない」

「筒井くんどうしたんですか?急に甘えてたようなこと言い出して、なんだからしくないですよ」


確かにらしくない。普段の俺なら絶対にこんなことは言わないが、自分のキャラなんかよりも優先したい。


「駄目か?」

「っ~~~分かりました。そこまでいうならお泊りさせてもらいます」


良し!


「ところで鶴見は風呂はいつ入る?」

「私はいつでも」


時計を見ると時刻は19時を回っていた。


「もう沸かそうか?」

「あ、はい。ではお願いします」

「はいよ」


浴室へ行って、浴槽を軽く洗ってから栓を締めてお湯を張り部屋に戻る。


「10分くらいで入れると思うからもう少し待っててくれ」

「筒井くんがお先にどうぞ」

「鶴見が先に入ってくれ。風呂に入った後は90分以上経ってから寝ないと身体が火照って睡眠効率が悪くなる」

「でも、私はお邪魔してる立場なので……」


もしかして鶴見は自分が入った後のお湯に俺が浸かるのが嫌だったりするのか?だとしたら少しデリカシーがなかった。


「入浴後のお湯に入られるのが嫌なら一度抜いてお湯を張り替えてもらって構わない」

「え?そ、そんなことはないです。ではお言葉に甘えてお先にいただきます」

「着替えは持ってる?」

「はい。元々今日は荷物が届かない予定だったので1日分の着替えが鞄の中に入ってます」

「乾燥機がないから今着ている服はそのまま洗濯せずに持って帰るか後でコインランドリーで洗ってもらってもいいか?」


部屋干しだと短時間じゃ乾かない上、鶴見も下着は絶対に見られたくないだろう。


「わかりました。今日はコインランドリーまで行って洗濯するにも時間が遅いので持ち帰ろうと思います」

「密封袋はあるか?なければ用意するが」

「替えの服を入れてきた物を使うので大丈夫です」

「分かった。お湯の温度は少し熱めに設定してある。熱かったら自分で調整してくれ。それと洗顔、シャンプー、リンス、ボディーソープは普段俺が使っている奴しかないからそれで我慢してくれ」

「お邪魔してる立場なので文句なんてありません。大丈夫です」

「バスタオルはこちらで用意する。ほぼ新品だから吸水性は少し悪いかもしれない」

「色々ありがとうございます」


バスタオルも持参していると思うが、濡れた状態のまま持ち帰ることを元々想定していた訳ではないだろう。それならウチの物を使ってもらった方が良い。

先にバスタオルを鶴見に手渡すとほぼ新品のふわふわなバスタオルの感触をさわさわ手触りして確かめた後、顔に押し付ける。

余程気に入ったのか口元が緩んでいるように見える。こんな鶴見の姿を見たのは初めてだったのでそっと観察していよう。


「…………?私の顔を見てどうしたんですか。何かついてますか?」


さりげなく見ていたつもりだったのだが、すぐにバレてしまったので素直に白状する。


「幸せそうな顔してるなーって」

「ええっ!?」

「良かったらタオルのブランド教えようか?」

「い、いえ結構です」

「そろそろお湯が溜ってるはずだ。入浴剤は脱衣場の鏡の右上にあるから好きな香りを使ってくれ」

「分かりました。ではお先にいただきます」


鶴見は自分のキャリーバックから着替えを取り出し始めたので、中には洋服や寝間着だけでなく下着も入っているだろうから身体を背けて見ないようにする。

準備を終えるとそのまま部屋を出て浴室へと入っていった。

鶴見が風呂に入っている間に今朝、出かける前に洗ったベッドシーツと布団シーツ、枕カバーを取り付けてベッドメイクを始める。

ベッドと布団が一つしかない以上、ベッドは鶴見に使ってもらい、俺は床に段ボールでも敷いて毛布に包まって寝るつもりでいる。

ベッドメイクを完了した後は他にやることは無くなったので、久々に北条にメールを送ろうと思う。

やましい気持ちがある訳ではないし、釈明する必要なんてないんだけど、一応鶴見が家に泊まっていることを伝えておきたい。

こっちに来てから北条にメールを送るのは初めてになる。


『既に本人から聞いているかもしれないが、自分の部屋に入れないらしくてウチに鶴見が来ている。頼ってもらえるのは嬉しいが女子を家に上げるのは初めてだから正しいもてなしが出来ているか不安な部分もある。鶴見の話しはこれくらいにして、こっちに来てから良い喫茶店を見つけた。朝は喫茶店で夜はBarに変わる特殊なお店で既に2回利用している。2回とも違うメニューを頼んだだが、どちらもすごく美味しかった。お店の雰囲気もいいからこれから定期的に通い続けたいと思っている』


鶴見が来ている報告だけじゃ味気ないと思い、北条のように最近あった日常生活の一文も添えてみた。

メールを送った後、すぐに携帯が震える。画面表示を見ると北条からの着信だったので出る。


『今、御冬が柊吾くんの家に居るの?私聞いてない』


あー鶴見は北条には伝えていなかったんだな。

それなら鶴見の為にも事情をしっかり説明した方がいいな。


「不動産の不手際で部屋鍵が受け取れなくて、こっちに来る際に財布を忘れて金も行く当ても無いからウチに泊まることになった」

『なんというか御冬らしいけど、それで柊吾くんは御冬を泊めてあげるんだ?』

「俺もこっちに来てから気軽に話せる相手がいなくて盛り上がっちゃって」


悪いことをしているわけではないが、歯切れが悪くなってしまう。


『御冬……思い切ったことするな。いいなぁ羨ましい』

「えっ?」

『あっ』


北条の羨ましいという小声は受話器からはっきりと聞こえる。


「あー……今なんて?」

『いや、それは無理があるよ。ちゃんと聞こえてたんでしょ?』


どう反応すればいいか困ったのですっとぼけてみたけれど、少し間を開けたせいで聞こえていない振りは通じなかった。


「悪い。ばっちり聞こえてた」

『謝らなくていいよ。私が口にしたのが悪いから気にしないで。その、私、友達のお家にお泊りとかしたことなかったから羨ましいなって思ってね?』


単純に他人の家にお泊りすることに憧れがあるってことね。勘違いするような思わせぶりな事を言われたかと思った。


「そういうことか。ちょっと驚いた。北条も俺の家に泊まりたいのかと思った」

『あははそんな訳……ううん。私も柊吾くんの家に泊まってみたい』


どうやら勘違いではなく、北条は俺の部屋に泊まりたいらしい。

以前に好意は伝えてもらっているとはいえ、関係が進展しているわけではない。

いや、この発言自体がこれから進展していくための一つなんだろうか?それにしては距離を詰める一歩が大きすぎる。


「それなら夏に卒業旅行に行くって話しになってるから、もし、こっち方面に来るってなったら帰る前に1泊して行くか?」

『えっ!いいの?』

「でもこっち方面に来るなら俺じゃなくて鶴見の家の方がいいんじゃないか?」

『私は柊吾くんの家にもお泊まりしたいな』

「来たいなら歓迎する。とはいえ俺も男だ。少しは警戒してくれても良いんじゃないか?」


今回は緊急事態とはいえ、鶴見は泊めたのに北条は断るような真似はしたくない。


『柊吾くんなら大丈夫だよ』


その大丈夫ってのはどっちの意味なんだろうか?信用されているのか、それともーー。


「期待を裏切るつもりはないが警戒くらいはして欲しいものだ」

『キャー怖ーい。なんてね。私はね、私を信用してるんだ』

「?どういう意味だ」

『言葉足らずだったね。私は柊吾くんじゃなくて、私が見てる柊吾くんを信じてるの』

「それは前に言ってた自分に向けられる好意が分かるってやつか?」

『その延長みたいな感じかな?』


しかしまだ旅行先すら決まっていない段階なのでお泊りなんてのは空想話しでしかないので冗談半分に聞き流す。


『そういえば御冬は?今なにしてるの?』

「鶴見は風呂に入ってるよ」

『柊吾くん覗いたら駄目だからね?』

「しない」

『うん知ってる。でもさ柊吾くんってそういうのに興味ないの?同級生がすぐ近くでお風呂に入ってたらドキドキしない?』

「全く何も思わない訳じゃないが、理性が勝つ。それに友達だと思ってる人が自分に欲情してたら気持ち悪くないか?」


特に北条は色々な相手からそういう感情を向けられて来たはずで、人一倍敏感でもおかしくない。


『そりゃ初対面から下心を持って近づいて来た人は警戒しちゃうけど、恋人も始めは友達からだよね?男の子だって理由なく発情するわけじゃないでしょ?原因が自分にあったのかなって思うと気持ち悪いとまでは思わないかな』

「そうか」


北条はそういう風に考えるのか。

例外はあるにしろ大体の人が交遊関係を築いた後に恋愛へと進展していく。


『でも私は柊吾くんが一歩引いた考え方だから仲良くなれたんだと思う』

「そうなのか?」

『うん。柊吾くんはガツガツ来ないし、配慮してくれてたよね。だから私も安心して接してこれた』

「それならよかった」


結局何が正しいのか分からないが、北条に対しての俺の行動は正しかったみたいだ。

ガラッと風呂場の方で音が聞こえる。


「鶴見が風呂から上がったかもしれないからそろそろ電話切るな」

『うん。わかった。久々に柊吾くんと話せて嬉しかった。またね』

「ああ、おやすみ」

『おやすみなさい』


北条との電話を終えた後、まだ少し髪が湿った状態の部屋着姿の鶴見がバスタオルを片手に戻ってきた。


「お風呂ありがとうございました」

「お湯の温度とか大丈夫だった?」

「はい。いい湯加減でした。あの、ドライヤーがあれば借りたいんですが」

「脱衣場にあるから取ってくるよ」

「ありがとうございます」


ドライヤーを取りに脱衣所に行くと、むわっとした湿気の中に嗅ぎなれたボディーソープの香り以外に色気が少し混じった匂いが鼻を掠める。

同じ石鹸のはずなのに違う石鹸を使った後のように感じる。

ドライヤーを持って部屋に戻ると鶴見へと手渡す。


「ありがとうございます」


鶴見が頭を下げてお礼を言うと先程脱衣所で嗅いだばかりの香りがより濃く鼻腔に届く。

邪な感情を抱く前に俺も風呂に入ると言い、脱衣所へと逃げる。

ついさっき北条との電話で同級生に欲情するのは気持ち悪いんじゃないかと言ったばかりなのに情けない。

風呂にゆっくりと浸かって身体の汚れだけじゃなく、心の穢れも洗い流さないとな。



40分後

風呂から上がって、バスタオルで身体を拭いていると重要な忘れ物に気づく。

入浴前に慌てて脱衣所に移動したせいで着替えを持ってきていなかった。非常にまずい。

全身の水滴をしっかりと拭き取って一度考える。

バスタオルを腰に巻いて局部だけでも隠せば大丈夫か?逆の立場で考えろ。突然鶴見がバスタオルを巻いて部屋に入ってきたら俺はびっくりするだろう。

俺の胸元には速水に刺された時の傷痕がまだ鮮明に残っている為、少しショッキングな傷痕を見せてしまうことになる。

なら着替えが置いてある場所を教えて持ってきてもらうとか?嫌がられるだろうな……洗ってあるとはいえ、新品ではない異性の下着、パンツなんて触りたくないだろうし。

事情を説明して少しだけ外に出てもらうというのはどうだろう?部屋の前で待ってもらえば危険はないだろうし、すぐに済む。

ただ待っている間に鶴見とマンションの住人が遭遇するのもあまり良いとは思えない。

明日からは速水との同棲が始まる。違う女が短期間で同じ部屋に出入りしているのを見られたら印象が悪い。

印象が悪いだけならいいのだけれど、噂されて悪評が広まってしまえば注目を集めてしまう。俺が注目されれば同棲する速水にも不利益が被ってしまう可能性が高まる。


俺が導き出した答えは……


「鶴見ちょっといいか?」

「はい、なんでしょうか?」

「実は下着と服を持って行くのを忘れてしまってな」

「ええっ!?わ、私はどうするればいいですか?」

「部屋の手前側、ベッドの正面に棚があるだろ?その一番上にTシャツが入ってるから1枚持ってきてほしい」

「分かりました」

バスタオルを腰に巻いて局部を隠し、事情を説明してシャツだけを持ってきてもらう。服だけなら下着とは違い、抵抗感はないはず。

「持ってきました。どうすればいいですか?」

「渡ししてもらっていいか?」


脱衣所の扉を腕一本だけ入る隙間を開けて手を出す。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」

「悪いんだけど、鶴見はしばらく玄関扉の方を向いててもらってもいいか?」

「あ、はい。わかりました」


わざわざ外に出て行かなくても目を瞑るか、別の方向を見ていてもらえばいいだけ。

あまり待たせてしまっても悪いので、すぐに着替えを済ませて声を掛ける。


「もう大丈夫だ」

「早っ!いですね」

「そうか?」


パンツとズボンを穿いただけだし、急いで穿けばそんなものだと思うんだが。


「凄く早かったです。それと筒井くん、やっぱり足、長いですよね。細身だしモデルみたい」

「細いのは受験勉強と入院の影響だな。椅子に座ってる時間が長くてほとんど身体を動かしてなかったし」


バスケをしていた頃はもう少しがっしりしていたと思うんだが、大分筋肉も落ちてしまった。これからは空いた時間で軽く筋トレするのも良いかもしれない。


「あっ……すみません」


入院というワードが引っ掛かったのか謝られてしまう。


「気にするな。鶴見に落ち度は一つもない。俺が庇いたくて勝手にやっただけだ」

「そういうの本当にズルいです」

「ズルいって何が?」

「……なんでもないです」


とぼけたふりをしたが、鶴見の言いたいことはなんとなく分かっている。

……バスケを辞めずに続けていれば、もっと身体が動いただろうなぁ。

鶴見と話している最中に携帯が震える。今日は良く電話が掛かってくる日だな。

画面を見ると速水義明……速水の父親からの電話だった。

そういえば日中にこちらから電話を掛けていたな。この電話はその折り返しの電話だろう。

鶴見に一言断った後、外で電話してくると一言残して、部屋を出る。


「筒井です」

『義明です。連絡が遅くなって申し訳ない。日中の電話だが何かあったかい?』


何かあったかい?じゃない。事前の連絡もなく突然家に来られた身にもなってもらいたい。


「本日來玲愛さんがこちらにいらしたので確認の連絡をしました」

『なるほど。來玲愛からは事前に連絡が行ってなかったのかな?』

「はい」


そもそもは同棲が想定外で確認の連絡だったんだけど、既に覚悟を決めた後なのでもういいが。


『急に押しかけるような形になってすまない。申し訳ないことをしてしまった。私からも一言言っておくので來玲愛に代わってもらえるか?』

「來玲愛さんは今近くにはいません」

『それはどういうことだ?』


義明さんの声に少し怒気が含まれているのを感じたので、すぐに釈明をする。


「今日は來玲愛さんが来る前から事前に高校の友人が泊まりに来る約束をしてまして、來玲愛さんとも顔見知りの友人だった為、バッティングしないように今日はホテルに泊まってもらっています」


事前というか直前だけど……嘘は言ってない。


『そうか……面倒を掛けさせてしまってすまない。ホテル代は来月の生活費に+して多く支払うようにする』


あぁ、速水の生活費って俺の口座に毎月振り込まれることになってるのか。


『これからも迷惑を掛けてしまうと思うが來玲愛をどうかお願いします』

「はい。では友人を待たせているので失礼します」

『ああ、こちらこそ夜遅くになってしまい申し訳ない。おやすみなさい』

「おやすみなさい」


義明さんとの電話を終えて部屋へと戻る。


「おかえりなさい」

「ただいま」

「気を使わせてしまいましたね。外に出て湯冷めしませんでしたか?」

「平気だ」


鶴見への配慮もあるが、会話を聞かれたくなかった。


「まだ早い時間だけど、そろそろ寝るか?」

「あ、はい」


時刻はまだ21時。

しかしお互いに会話を長く続けられないのが分かっているからか鶴見は承諾してくれる。


「鶴見はベッドを使ってくれ。風呂に入っている間にシーツは取り換えてあるから奇麗だ」

「そんな。私は床で寝るので、筒井君がベッドを使ってください」

「鶴見は床で寝た事があるか?床は固いから朝起きたら身体が痛くなるぞ」

「ないですけど……身体を痛めるなら尚更です」

「俺は経験済みだから大丈夫だ」


実際に朝まで床で寝た経験はないが、1週間前に3時間程度だがこの床で寝たばかりだが、たった3時間ぽっちで身体が痛くなった。

望んでやりたいと言うなら止めはしないが人の家ではなく、自分の家でやってくれ。

暖房を稼働させていてもまだ春先。段ボール一枚で床からの冷気は防げない。最悪風邪を引いてしまう可能性だってある。


「でも!」

「電気消すぞ」


鶴見は納得していないようだがベッドに腰かけている状態で電気を消してしまえば従わざるを得ない。


「おやすみ」

「……おやすみなさい」


電気を消してから30分くらいが経っただろうか?普段寝る時間よりも大分早いせいで寝つけずにいる。

寝具一つない最悪の睡眠環境が眠れなくさせているのだろうか?

もしくは家族以外の異性が近くで寝ているから眠れないのか。

無音の中少し耳を澄ませば、鶴見の呼吸音が聞こえてくる。


「筒井君……まだ起きてますか?」


既に眠っていたら聞こえないくらいの小さな声で声を掛けられる。


「起きてる」

「少し、お話ししませんか?まだ眠れなさそうなので」

「少しくらいならいいけど……電気はどうする?」

「このまま、暗いままでお話しましょう。顔を見ない方がちゃんと話せると思うので」

「そうか」

「今日は本当にありがとうございます。急な無茶を言ったのに泊ていただいて」

「最初連絡をもらった時は驚いた」

「ですよね。私も最初、パニックになってそれで勢いで思わず連絡してしまいましたが、こちらに来ている途中、距離が近づくにつれてどんどん鼓動が速くなって緊張しました」


それならもっと早くから断ってくれたら良かったのに……と思ったが、あの時は鶴見の母親が取り合ってくれなくて他に選択肢が思い浮かばなかったんだろうな。


「でも、結果的にお泊りさせていただいて良かったなって思ってます」

「良かったと思ってもらえるのは嬉しいが、喜んでもらえるようなことは何もしていない」


もてなしと言ったらウェルカムドリンクを用意したくらいか?


「そんなことないです。今もベッドや布団を貸してもらってます。いつも助けてもらってるなって……観覧車の時から」


入院している時に病室であの時の事は忘れてくださいと言っていたのに自分から言うのは良いのか。


「あれからもう半年経ってるんだな」

「あの、一つ気になってることがあって……筒井くんは今も陽菜の事が好きなんですか?」

「好きだよ」

「そう、ですよね」

「でも今は恋愛対象として本当に好きなのか分からない」

「何かあったんですか?」

「何もない。むしろ仲は深まっている」


告白に近いような言葉ももらった。


「だったらどうしてですか?」

「北条を守るために動けなかったからな」

「それだけで……あっ」


今鶴見が頭の中で思い浮かんだことが自分のことのようにわかる。前にも同じことがあったしな。


「だからって鶴見を想っているから身体が動いたわけではない……と思う」

「……前と言ってること少しだけ変わってますね」

「そんなことない」


変わっていない。ただ思っていたことを最後まで口にしただけ。

病室の時と違って今は傍にいるのに顔が見えないからこんなことが言えるのかもしれない。


「やっぱり筒井くんは私の事……」


もしかしたら俺たちは案外似ているのかもしれない。

だからこそ誤解が生まれないようにはっきりと言っておく。


「俺は鶴見の事を尊敬できる友人として見ているつもりだ」


深層心理では不明だが、この言葉は今現在の本心で間違いない。


「そ、そうですよね」

「だから警戒しないでほしい」

「別に警戒なんてしてません」

「そ、そうか」


少し気まずいので話題を変えよう。


「鶴見は受験が終わってから何か変わったか?」

「え、変わりました?全然自覚ないです」

「言葉足らずだった。受験中と受験が終わってからで生活習慣が変わったりしたか聞きたかった」

「私の場合、勉強していた時間が読書や身体を動かす時間に変わったのと、家族の夕飯の用意したりとかそれくらいの変化でしょうか」

「夕食の用意もしてたのか」

「お父さんもお母さんも仕事で夜遅いので」

「春馬と連絡を取ったりしてないのか?」

「用事がなかったのでしてないです」


用事がなくても好意があるなら積極的に取るべきだと思うが、北条からメールが来てもほとんど返すことすらしない俺が何言ってんだって話しだな。

思えばグループチャットでは俺の次に発言が少ないのが鶴見だった。


「皆瀬くんの事はもういいんです」

「鶴見に未練がないならそれでいい」


今の春馬と付き合うのは余程の出来事があったとしても難しいので諦めるのが賢明だと言える。


「未練……未練はあるかもしれませんがもう次に進むと決めたので」

「だったら俺から言うことは何もない。次が上手くいくように応援している」

「筒井くんこそどうなんですか?さっき陽菜と仲が深まったって言ってましたよね」

「ああ」


鶴見はどこまで知っていてどこまで話すべきなのか悩むな。


「卒業式の後に北条と2人で話してこのまま疎遠になるのは寂しいから継続的に連絡を取り合おうって感じだな」


要約するとこんな感じだよな?


「それだけですか?」

「俺としては結構な進展だと思っているんだけど」

「もっとすごい進展があったと思ってました。例えば二人でどこかにデートへ行ったとか」

「そういうのはない。そもそも時間が取れなくて卒業旅行も時期変更になったくらいだし」


自宅に呼ばれたりしたけれど、あれは一般的にデートと言わないはず。


「それもそうですね」

「そういえば北条に今日鶴見が泊まりに来てること話したよ」

「え”っ!?」


声が裏返ったのか今まで聞いたことがない声が聞こえた。


「なな、なんで喋ったんですか?いつの間に?」


すさまじく動揺しているのが伝わってくる。


「鶴見が風呂に入っている間に……まずかったか?」

「まずく……はないですけど、筒井くんの為に黙ってたのに」

「北条と付き合ってる訳でもないし、後ろめたいことをしている訳じゃないだろ?」

「それはそうですけど、誤解されませんか?」

「事情はちゃんと説明した」

「陽菜はなんて……?」

「御冬らしいって言ってた。意外とおっちょこちょいなのか?」

「そんなことないです。他には何か言ってましたか?」

「鶴見が羨ましいって言ってた」

「ええっ!?」


会話が弾んでいるがそろそろ寝ないと明日に響く。

でもその前にもう一つ聞きたいことがあったので聞いてみる。

今なら普段は話さないような事でも教えてくれる気がする。


「鶴見はなんで春馬のことが好きになったんだ?」

「えっ?」

「理由とかきっかけとか聞いたこと無かったから。言いづらいことなら無理に話さなくていい」

「恥ずかしいですけど、良いですよ。きっかけは2年生になったばかりの春、部活が終わった後です。うちのバスケ部って男女が隣のコートで練習してるじゃないですか」

「そうだな」


どこの学校も体育館の数は限られている為、同じ部活の男女は体育館を分けて使用している。津雲バスケ部も例に漏れず、二面あるコートを1面ずつ隣同士、同じ空間で使っている。


「他校との練習試合で普段は滅多に試合に出れない中、珍しく出番をもらえたんですが、シュートが全然入らず散々な結果でした。それで部活後に残ってシュート練習をしていたら、リングに弾かれたボールが男子のコートまで飛んで行てしまい、男子のコートまで拾いに行くと、同じく居残り練習していた皆瀬くんが拾ってくれました。私と違って皆瀬くんは1年生の頃から試合に出場しているのを知っていたので、思い切ってシュートのコツを聞いてみたんです」


春馬のシュートフォームはお手本のように奇麗でシュート確率も良かった。教えを乞うに適任と言える。


「そしたら自分の練習を中断して、親身にアドバイスをくれました」

「なるほどそれでか」

「はい。毎日のように教えてもらう内に……」

「でも男女だとシュートフォームに違いがあるのに春馬はよく教えられたな」


男子はワンハンド、女子はツーハンド、所謂両手打ちの選手が多く、シュート感覚が違い、男子が女子に教えるのは難しい。

俺がまだバスケ部に所属している時は女子はみんな両手打ちだったと記憶しているが……


「皆瀬くんのアドバイスで変更しました。実際にシュートを見てもらった時にワンハンドでも行けるんじゃないかって言われて、試しに一度打ってみたら入りはしなかったんですけど、感触自体は悪くなかったので練習してみようって、基本のシュートフォームから力の入れ方や抜き方、など色々教えていただきました。実際に練習の成果もすぐに出たこともあって、居残り練習が楽しみで」

「青春だな」

「あの、私が話したんですから筒井くんも陽菜を好きになったきっかけを教えてください」

「悪いが眠くなってきたからそろそろ寝させてもらう俺の話しはまた今度な」

「あっ、ズルい」

「鶴見も寝ないと明日朝起きれなくなるぞ。おやすみ」

「酷いです……おやすみなさい」


鶴見が部屋を出る時間によって俺の出発時間も左右されてしまう為、寝坊されては困る。

速水には10時と言っておいたけれど、時間前にホテルに到着しておきたい。




寝返りを打った際の身体の痛みで目を覚ます。

痛ッー。

俺はなんで床で寝てるんだっけ……?ああ、そうか鶴見が泊まりに来てたんだったな。

カーテンの隙間から差し込む光で既に日が昇っていることが確認できる。

時計を見ると時刻は8時。上体を起こしてベッドの方を見ると鶴見はまだ眠っていた。

速水の件もあるし、鶴見も昨日の夜は今日は朝、早めに家を出ると言っていたので声を掛けて起こさないと。


「鶴見、朝だぞ」


俺の声に反応して目を閉じたまま、身体を伸ばす。


「ん-んぁ~~」

「おはよう」

「今何時ー?」


鶴見の手元には携帯が無いのか目を開くのすらが億劫なのか時間を聞く。


「8時5分くらいだな」

「もぉーそんな時間?早く起きないとー」


そういいながらも瞼は閉じたまま、一向に起き上がる気力を感じない。起きる気あるのか?

寝ぼけているのか普段と違い、語尾が伸びている。どうも朝に弱いタイプらしい。このままグダグダ延々と時間を浪費するのは避けたい。

目を覚ましてもらうためにカーテンを開けて太陽光を部屋の中に入れる。


「うわっ!眩しいー……なんてことするんですか!」


大げさなリアクションをしているが、日の光は直接鶴見の目に入るどころかベッドにすら届いていないので実際はそこまで眩しくはないはずだ。


「もぉ~お母さん勘弁してよー」

「俺はお前の母になった覚えはない」

「へっ?……えっ?…………え?あっ、あぁっ」


フリーズしていた顔が徐々に青ざめていく。


「つ、筒井くん……?」

「おはよう。目は覚めたか?」

「あぁ……あぁ……あーーーーーーーっっっ」


絶望した後に布団を被って叫び終えると身体を起こしてベットの上でそのまま土下座される。


「あの、お願いします。忘れてください」

「努力する」


耳を真っ赤に染めて懇願する。青くなったり赤くなったり大変だな。


「朝食はどうする?いるなら昨日のカレーを温めるけど」

「大丈夫です。顔、洗ってきます……」


鶴見が食べないなら俺も食べなくていいか。

顔を洗うと言って洗面所に向かったがハンドタオルを持っていかなかったので渡しにいく。


「鶴見、タオル」

「あ、すみません。ありがとうございます」


やはり寝起きでまだ頭が回っていないのかポンコツな一面が垣間見える。


「洗面所使い終わったら次は俺が使う。俺が顔を洗ってる間に部屋で着替えを済ませてもらえると助かる」

「分かりました」

「部屋に入る前には掛けるからゆっくり着替えてくれて大丈夫だ」


鶴見はもう少し時間が掛りそうだったので一旦部屋に戻り、自分の着替えを済ませる。


「あの、終わりました」

「分かった」


タオルをもって洗面所絵と向かい、顔を洗い、歯を磨き、髪を整える。

既に目は覚めていても顔を洗うと頭がクリアになり、すっきりする。


「入っても大丈夫か?」

「はい。もう着替え終わってます」


大丈夫だと返事をもらったので部屋の中に入ると、ロングスカートにゆったりしたシャツを身にまとった姿があった。


「服、似合ってるな」

「えっ?」

「どうした?」

「いえ、筒井くんってそういうこと言えるんだなって思って」


確かに……ファッションに疎いし、普段はそんなこと言わない。自分でも意外なほどにスッと言葉が出てきた。


「それだけ似合っているって思ったんだ」

「あ、ありがとうございます」


鶴見は少し恐縮して居心地が悪そうにする。別に他意はないんだが。

起きてから時間が経っていないのにも関わらず、既に鶴見はいつでも出られる準備が整っていた。


「もう行くのか?」

「昨日筒井くんも朝から用事があると言っていたのであまり長居するのもご迷惑だと思って」

「気を使わせて悪いな」

「いえ、一晩泊めていただきありがとうございました」


鶴見が立ち上がり、キャリーケースを持って玄関先まで移動したので、俺も玄関先まで見送る。


「あまり荷物は出してないとは思うが忘れ物はないか?」


万が一忘れ物をして取りに戻って来られたら困るので確認する。


「はい、荷物はほとんどバッグから出していないので大丈夫です」

「また困ったことがあれば連絡してくれ。役に立てるかは分からないが、手伝えることがあるなら手を貸す」

「……でしたら、また泊まりに来てもいいですか?」

「駄目だ」

「なんでですかっ」


これから速水と一緒に暮らすのに距離が近い鶴見が突然泊まりに来られるとその度に慌ただしくなってしまう。


「次は俺が鶴見の家に泊まりに行く」

「え、嫌ですけど」

「なんでだよ……」


マジのトーンで拒否されると少し心に来るものがある。


「だって私、自分の部屋どころか家にすら男の人を呼んだことないので……自分の部屋を見られるのは恥ずかしいです」


人に見せるのが恥ずかしいってなると意外にも部屋が汚かったりするのだろうか?少し気になるので聞いてみる。


「もしかして汚部屋?」

「失礼ですね」

「すまんデリカシーが無かった。言葉を選んで散らかってるのか?くらいの言い回しだったんだが」

「それ同じ意味ですからね?ちゃんと掃除しています。そういう問題じゃないです!ただ女の子っぽい感じの部屋ではないので」

「それくらいなら問題ない気もするが」

「私が気になるんです」

「泊まるまではなくても機会があったら部屋に上げてくれ」

「お泊まり以前に部屋を見られるのが嫌なんですけど」

「そう言わずにほら、借りを返すいい機会だとは思わないか?」

「う~~~ん。それじゃあ機会があれば……」


断言できる。その機会は絶対に訪れない。


「では、本当にありがとうございました」

「ああ、またな」


鶴見が出て行った後、ベッド周りを中心に忘れ物がないか徹底的に調べる。もし、何か見つかれば今なら直接届けることも出来る。

布団をめくって確認するとまだ鶴見の体温が残っており、温もりを感じる。

いかん、これではただの変態だ。布団一式をベランダに出して干す。

ベッド周り以外にも鶴見が使用した場所を回ってみても忘れ物は見つからなかった。

時計を見ると現在の時刻は9時。そろそろ家を出て速水を迎えに行こう。

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