第1章 クラン ・ 第2話 五ツ詣り ③
霧の中、木造の建物に行き当たった。四歳児の俺は泣き出しそうに夢中で戸を叩いた。
すると、音もなく戸が開いた。戸の向こうは手摺の無い外階段で、危うく転げ落ちそうになった。
十五歳ぐらいの綺麗なお姉さんが俺に恭しくお辞儀をして、御机の上のくきやかに白い酒坏に酒を注いだ。
白塗りの化粧をした稚児達が御馳走を運んで来た。稚児は額中央に朱で印を付けている。
俺の前に御饌が山のように供えられた。
酒を注いだ少女は髷に日蔭という飾りを付けて胸まで垂らし、白い単衣と赤い袴に豪華な刺繍の絹の着物を重ねている。巫女さんの装束だ。
篝火に照らされた斎庭では、黒い束帯姿の大人達に料理と酒が振舞われ、宴が催されていた。夜闇に朱塗りの社殿と楼閣が浮かぶ、赤と黒が際立つ世界。
「剣と久斯はどこにいる? 壱、酒を注いでくれ…」
俺の口が勝手に動き、壱と呼ばれた少女は、ハッとしたように俺を見上げた。
「はい、多伎さま…」
俺は四歳の子供じゃなかった。黒い着物を着た三十代の男だった。
俺は自分の意識と関係なく酒をがぶ飲み、壱が酒を注ぎ足した。
酒の表面に映り込んだ顔は俺と全く別人で、自分で言うのも気恥ずかしいけど、百戦錬磨の戦士みたいだった。
俺の胸から下は墨でマダラに染めたような皮膚で、両手の爪も黒かった。目の下の隈が濃く、背に黒い翼があり、額に黒のターバンを巻いていた。
胸元にはあの翡翠の勾玉と碧玉製管玉の首飾りがあった。
俺の発した声は低く、よく透る。
「壱、来い。奴等が来た…!」
俺は腰に吊り下げた大刀を抜き、壱の脇の下から大胆に手を差し入れ、抱き寄せた。
俺の最初の体験で、その部分はとても生々しい。
大刀はずっしり重く、鋭い刃がギラギラと光る。その大刀は『伊都之尾羽張』と言う。
宴はいつの間にか、殺戮の場に変わった。女達の悲鳴が耳をつんざく。
黒い瘴気が押し寄せた。
鬼どもが涎を垂らし、瓦屋根が載った塀を乗り越えて侵入してきた。
男達が応戦するが、武器を持つ鬼もいる。鬼は誰彼構わず斬りまくり、年寄りや女子供までも殺して、大勢の人間が血だらけで倒れていった。
その場には、矢が突き立ったり斧で躰を切断されたり、頭を砕かれたりした死体が身分階級の区別なく散乱した。血溜まりが赤い海を造り出した。
いつの間にか火が放たれ、俺の周辺にも火が回ってきた。
俺は鎮火符を投げて火を消した。
俺の中で怒りが沸き、内から身を焼くようだ。
どこを見ても鬼、鬼、鬼の群れ。仲間を踏んで塀をよじ登り、波のように押し寄せた。
鬼は容易に死なず、多勢に無勢。応戦していた男達も鬼に囲まれ、精気を吸い取られて萎びていく。
中には生きたまま、顔や腹を齧られている者も居る。
俺も大刀を抜いて鬼を斬った。一撃で鬼どもが塵に変わる。
俺の強さは凄まじい。敵う相手はいない。俺は鬼どもを次々と塵に変えた。
だが、数が多過ぎてキリがない。
鬼どもは腐った黒い血を吐き、斎庭を穢した。
突然、俺の躰が宙に浮いて空を飛んだ。
俺は黒い翼を羽ばたかせた。樹々を避けて旋回し、ローリングして天に腹を、地に背中を向けて、また天と地が入れ替わり、急降下して草や葉を散らして飛ぶ。
壱は俺にしがみ付いている。
俺の大刀が黒い靄を切り裂いた。
鬼どもがバラバラに切断されて飛び散った。
俺の正面に白波打ち寄せる断崖絶壁、そこに立つ一本松の巨木が迫った。
空は雷雨の直前のように暗雲垂れ込めている。
瘴気の元凶の黒龍が上空で火炎を噴く。口を大きく開き、毒牙を覗かせ、下顎を揺らしながら降りてくる。
怨念、邪気の塊、雑然とした邪霊の寄せ集め、禍々しいものが入り混じっている。
その翼、四肢の鉤爪、鯉のような鱗、全てが漆のように黒く艶やかに光る。
俺は壱を地面に降ろし、おおお…と叫びながら大刀を振り上げ、そいつに挑んでいく。
黒龍の尾がうねり、俺を弾き飛ばそうとする。
俺はそいつの尾を切断し、跳んで頭部を狙う。
複数連なった人面の一つ、俺の大刀が切り込み、鼻の下まで裂いた。
俺の脇腹にも黒龍の鉤爪が食い込む。
互いに血飛沫が飛ぶ。
俺の翼から黒い羽根が散る…。
「よーちゃん。よーちゃん…。これ、黎明……」
天から声が聞こえてきた。
俺は四歳児の自分に戻って、目を覚ました。トヨばぁが俺を揺さぶっていた。
「異世界の方に呼ばれてしもたな?」
トヨばぁが尋ねた。
俺の息が詰まった。トヨばぁの背後に、さっきの黒装束の俺が立っている。
トヨばぁは気付かない。俺の心臓を絞めつける恐怖。
目の下に隈がある黒ターバンの男が、俺の方に右手を伸ばしてきた。
「トヨばぁ…。ぼく、おとなの男の人だったよ…。背中に黒いはねがあった…。ゾンビが一杯いた…。あれは何?」
俺は泣き始めた。
トヨばぁの肩越しに多伎の手が伸びてきて、俺を掴もうとしている…。
俺は両手で頭を庇う。
多伎の右手が俺に届こうとする瞬間、俺はギュッと目を閉じた。




