第1章 クラン ・ 第1話 世界の交換 ⑥
ギリギリ待って攻撃を躱す。相手は一瞬、俺の動きを見失う。
俺は鬼の逞しい手を掴み、関節技で相手の腕を潰しにいった。
ところが、鬼の腕は軽く捻じれた後、勝手に骨が鈍い音を立てた。
「え⁉」
俺は抵抗しないナマコを捩じったみたいな感触に焦った。
鬼は骨折しても痛みを感じないのだった。
刹那、強烈な膝蹴りを食らい、床に倒れた。
しまった。鬼とは全身が腐り、骨も砕けている。ゾンビと同じで、関節も外れたまま歩くような相手だ。関節技なんて効かない……。
俺は壁際で座り込んで片膝を着き、悔しい気持ちで鬼の動きを見ていた。
鬼は俺を追い込み、四つん這いになって獣の口を開いた。
鬼の口から銀色の光の筋が伸びてきた。俺の鼻や口から精気を奪おうとする。
その時の俺の表情は……笑っていた。
俺は立て膝の体勢から前へ跳んだ。足指で思いきり床の土を蹴った。
隠し持っていた短剣を右手に握り、飛び出す勢いで鬼の口中へ刺し込む。
ギザギザの歯が鮫みたいに並んだ鬼の口へ、自分の腕の付け根まで突っ込んだ。
袖が裂け、俺の赤い血が飛ぶ。手の甲が裂けて血が筋状に流れ、床に滴った。
生温かい血が流れる感触があった。
「待ってたよ!」
俺は鬼を嘲笑った。
鬼が俺の精気を吸いに来る時がチャンスだった。
俺の一撃は鬼の脳幹へ達していた。
鬼はシューシューと白い蒸気を全身から噴き出し、筋肉が盛り上がった巨体から、一瞬で小柄な屍に変わった。腐り溶けた腹の穴から腸を垂れた。
俺の右手は鬼の骸骨の歯に上下挟まれていた。
俺は短剣をズ、ズッと引き抜いた。
鬼の頭蓋骨に穴が開き、鬼となる前の死因が頭部に加えられた一撃だということが明らかだった。
眼窩は黒く闇に堕ち、眼球は無かった。見る見るうちに肉が溶け落ちた。
鬼の顔はドロドロに崩れ、軟骨も溶けて下顎の骨が外れ、全身ガタガタと音を立てて崩れ始めた。そこまで三十秒くらいのことだった。
鬼が黒い血溜りに変わり果てた。
換気口から朝日が入り始め、住居内が薄明るくなっていく。光が筋状に射し込んできた。
「多伎。俺は…世界の交換なんて、絶対認めねぇぞ…!」
俺はこの家に多伎が帰って来ないことを確信した。
多伎は俺の世界に行ったんだ。俺の躰をもらうと言っていた。
俺に烏みたいな黒い翼があるのは、多伎の躰と入れ替わったからだ。
その頃、俺が居た世界では異変が起きていた。
俺の母の実家は弥郡にあった。山あいで坂道の多いところ。
大宮の大鳥居の斜め向かいに、50メートル四方の敷地を持つ郡衙(役所)が在った。俺の母方は代々、弥郡の郡司だ。
郡司の家は郡衙の真向かいに建ち、立派な伝統建築で、敷地内に神社と氏寺を持っていた。本格的日本庭園の錦鯉の泳ぐ池があり、池に浮かぶ島に石橋が架かる広い庭を、子供の頃は従兄弟達と駆け回って遊んだものだ。
敷地内にある、お寺かと思うような瓦葺大屋根の建物は、龍髭館と言う剣道場。
人影が龍髭館の玄関に入った。学生が履くような黒いローファーを脱いで、その靴を揃え直して板間に上がった。
多伎だ。器となっている躰は俺のもの。
多伎は俺の通う大学の制服を着ていた。濃紺のブレザーとグレーのパンツ、白いシャツにネクタイを締め、白い靴下を履く。
左手には日本刀。拵えと下げ緒は全て真黒。透かしのある鍔に左親指を掛けている。
道場に出入りする際は、必ず刀を右手に持ち替えて神棚に向かって一礼するシキタリ。
入口正面に神棚が設えられていた。
武道では礼儀が重んじられる。常識ない人の入門は不可。何故って、本物の殺し合いの技術が師匠から弟子に伝授されるのだから。
多伎も一礼。背筋は真っ直ぐ、深々と頭を下げた。
こういうところ、多伎は余り邪神らしくない態度を取る。
道場訓を掛けた床の間の前に三人の男が座っていた。
中央が俺の祖父。中背痩身、額は多少広いが全体的に白髪混じりでふさふさしており、老眼鏡を掛け、厳しい面持ちをしている。黒い着物と袴は平常の稽古着。
祖父は両手に黒の革手袋を嵌め、道場の上座に胡坐をかいていた。
祖父の手前が、従兄の千歳兄。千歳兄は剣道着姿で、父親の千津雄と正座していた。
多伎はそこへ堂々と登場する。
黒く禍々しい影をまとい、目の下にはあの不気味な隈があった。
一礼した後、多伎が刀を左手に持ち直し、姿勢よく祖父の前まで闊歩した。
「娘夫婦から話は聞いた。お前は誰だ…⁉」
俺の祖父、弥栄流退魔道宗家・弥栄千五十寿が、貫禄ある低音で鋭く詰問した。
「俺は誰だ? 教えてくれ、弥栄宗家」
間髪入れず、多伎は質問で返した。よく透る声だった。
多伎の雰囲気が俺とはまるで違う。内から自信が漲ってピリッとして、猫と遊んでのほほんとしていた俺とは別人だった。
「…お前は魔だ。私の孫の躰を乗っ取った……」
祖父は正面から俺を睨んだ。震える手で、脇に置いていた日本刀を手繰り寄せた。
「宗家! いけません!」
千津雄伯父が腰を浮かせて叫んだ。次期宗家の千津雄伯父は、俺には昔から小言が多い人だったが、この時は祖父が俺を斬るんじゃないかと思って庇おうとしたらしい。
祖父にとって、俺は可愛い一人娘の産んだ子。他の孫より一等可愛がってくれた。
俺だけを甘やかしてきた祖父。
今日の俺は子供の時みたいに、『じぃじ~。あのさ~』とか言わない。変に改まった態度だった。
千歳兄が俺の肩に思わず手を掛け、詰め寄った。
「黎明! 聞こえてるか、黎明‼」
だが、多伎は千歳兄を躱して祖父の前に座った。
刀を持った武道の座り方で祖父の前に美しく正座し、自分の左側に刀を置き、一人一人に手を着いてお辞儀した。
左に刀を置くのは、いつでも抜く可能性があるという誇示であり、その場は緊張感が漂った。
「千歳兄さん。あいつは今、こっちの世界には居ないよ」
多伎は他人事のように話した。
「お前を……何と呼べと?」
祖父の眼にじわり、涙が湧いた。涙が今にも溢れ出しそうで、祖父は老眼鏡を少し浮かせ、革手袋を嵌めた指で目頭を押さえた。
「八島黎明と呼んで下さいよ。嫌だろうけど。弥栄宗家」
多伎は薄ら笑いを浮かべて答えた。
正座から姿勢も綺麗に立ち上がり(これは俺の躰が習得させられた癖だ)、祖父に背を向けた。
「黎明! どこに行く?」
千歳兄が聞いた。
「大学だよ、千歳兄さん」
去りゆく多伎の後ろ姿に、千歳兄は恐怖を感じた。
背後の禍々しい影は何だ?
千歳兄はいずれ一門を背負って立つ立場の人で、本当はすぐ理解していた。俺が大変な相手に憑依されたことを…。
道場には重苦しい沈黙が流れ、祖父は腕組みして項垂れていた。
多伎は道場前の石段を降りて行った。アーミーグリーンのキャンパス地の刀剣ケースを肩から掛けている。
祖父の家は緩い傾斜地に複数の建物を持ち、庭の段差を石段が繋ぐ。
龍髭館の石段に向かって両側からモミジの枝が被さる。石段の両脇に朱塗りの木製の燈籠が並ぶ。からからの落葉が北風に舞う。
石段を降る途中、
「プッ…、クックッ……」
多伎が堪えきれずに吹き出した。
「泣いてやんの」
祖父の涙を思い出し、毒を込めて嘲笑した。
多伎が俺の世界で活動を始めた…。




