第3章 ウェルド ・ 第1話 久斯の黒い過去 ①
俺は八島黎明。邪神・多伎の世界に落ち、多伎として暮らしている。
あれから元の世界で、多伎が俺になりすまして彼女を寝取ったとか、勝手に別れ話に発展させて振られたとか、やりたい放題暴れて死傷者を出したとか、全く知らなかった。
俺は異世界で、生きるだけで必死だった。
俺達の準構造船『滄溟の鳥』は夜毎寄港し、地形に沿って西へ進んだ。
八雲半島の北を外回りして漕ぎ進み、最初の事件が起きた。
強風で座礁して、船体の一部を破損した。
俺達は早くも停滞。修理に手間取ることになった。
幸い一部交換だけで済むと言う。
何たって釘一本使ってない船だから、部材をピッタリ削り出して噛み合わせる船匠の技が必要で、簡単なことじゃないんだよ。
この地域には弥を出身地とする人達の集落があった。俺達はそこに何日も泊まることになった。
船大工も居たし、食糧も分けてもらえる。宿泊する竪穴住居も借りることが出来た。
天候は暫く悪かった。
雨が続いて、俺達の気分も鬱陶しい空模様と同じだった。
操舵士の真具呂の機嫌は最悪で、物に当たり散らす。その息子の志毘は若手の漕手と喧嘩ばかりするし、若手の護衛達はマチに出掛けて女の子に絡んで騒ぎを起こすし、剣は頭が痛そうだ。
剣と側近の奥津・蓼は連日酒を飲んだ。
気持ちはわかる。早く商いを済ませないと、剣の兄が危篤で、死に目に間に合わないのだ。
霧の深い夜のことだ。
宿に借りた竪穴住居三軒のうち二軒は、真具呂達船乗りのいびきが凄すぎる。
俺は少しでもマシな寝場所を探した。
それで毎晩、剣と同じ竪穴住居で寝た。狼の仔の淡由岐が居れば、毛布も布団もいらないくらい温かかった。
剣は例によって、周辺首長と飲んでいて帰りが遅かった。護衛達も一緒だった。
その夜はこの竪穴住居に俺と淡由岐しかいなかった。
三野と久斯は隣の竪穴住居で一緒に寝ていた。
深夜、俺は変な気配で目が覚めた。
誰かが俺の側で添い寝している。若い女だ。その躰が異常に冷たい。
それに酸っぱい匂いがする。腐ったような……。
俺は飛び起きた。屍の鬼だ!
淡由岐は鬼の気配を感じ、騒がしく吠えた。
炉の火は消えてしまっていた。俺は鬼除けの結界を張るのを忘れた。鬼対策を怠った。
今夜は換気口から差し込む月明かりもない。換気口からは霧が流れ込み、屋内は暗く霞んでいる。
俺は手探りで大刀を探す。
クソ。こんな時に限って、俺は短剣もどこかに置きっ放しだ。
屍の鬼は暗闇で霊光を発している。鬼の輪郭が仄白く光っていた。
若い女の鬼なんて、俺は初めて見た。長い髪を結い上げずに乱れたままで、着物は薄汚れ、その髪が顔を半分隠していた。
でも、美しい顔立ちをしていた。
その鬼が急にゴホゴホと咳込んで苦しそうだった。
女の鬼は病気で死んで、何か思い残すことがあったのかも知れない。
精気を吸おうとする素振りを見せなかったので、俺はまず淡由岐を落ち着かせた。
「苦しいの? 大丈夫?」
俺は鬼の反応を窺った。
この鬼は正気が残っていた。憂いを帯びた表情で俺に話しかけてきた。
「…寒い。寒いよ…。…ここはどこ…?」
鬼が人間の言葉を失ってないなんて珍しい。
俺は油断してしまい、鬼と話し始めた。
「寒いの? 火が消えてしまったんだ。少し待って…」
火を点けるにもこの世界にはライターが無いし、俺は火熾しが苦手だ。退魔術で火を点ける方法もあるけど。
考えている間に鬼は啜り泣き、首を振った。
横顔が俺の彼女・清香に似ていた。
「いやだ…。火は怖い…。側にくっついてもいい…?」
その鬼が俺の背中に抱き着いてきた。その躰も指先も、とても冷たい。
俺は緊張して、呼吸を吸われないように警戒し、背を向け続けた。
「…お名前、聞いてもいい?」
「えっ…あの…、多伎……だけど…」
俺は鬼相手に名乗った。
女の鬼は躰を二つ折り、また苦しそうに咳込んだ。
「多伎…。私は…自分の名前が思い出せない…。どこから来たのか、どうしてここに居るのか、…何も思い出せないの……」
鬼は記憶を持たなかった。
そりゃそうだ、怨念がこの世に残っただけで、魂の全部じゃない。
俺の背中に鬼が縋りついて泣く。
「多伎。私、どこも痛くないんだよ…。でも…悲しくて…胸を締め付けられるような…。何だか、息が苦しい…」
俺は段々と鬼が憐れになってきた。
この鬼が本当に鬼なのかどうかもわからなくなってきて、夢を見ている気分だった。
「君を安らかにしてあげたいから……俺に出来ることがあったら言って…」
俺はそんな優しい言葉を今まで鬼に言ったことがない。
なのに、その鬼に対しては妙に親切になった。
「私…たぶん、死んでると思う。だって…こんなに躰が冷たいの…」
鬼は自分の冷たい手を俺に押し付けた。
俺の躰も冷えきって、吐く息が白かった。
あれ、どうしたんだろう。温かいはずの竪穴住居で、随分と室温が下がってるな。まるで冷蔵庫の中だ…。
俺は気付いた。鬼の術にはまっていた…。
俺と淡由岐の躰は緊張で固まったんじゃなくて、冷えで固まっていた。
もう凍りつきそうだ。この鬼が居るだけで室温が下がっていく。
女の鬼が背後から抱き着き、魔性の魅力で俺を支配するように押し倒してきた。
俺は固く押さえ込まれた。押し返そうと思っても全く出来なかった。
女の鬼が長い舌を吐き出し、俺の耳をべろりと舐めた。
「多伎…。多伎の温かい精気をもらってもいい…?」
女の鬼の口が耳まで裂けた。俺を頭から飲み込めそうなほど大きく口を開く。喉奥に銀色の光の球が現れる。
このままでは俺の精気が吸い出される。鬼が俺の唇に裂けた口を近付けてきた。
俺はそんな場面でも馬鹿みたいに鬼を憐れみ、
「殺したくねーから、逃げてくれ。君は可哀想だ。弔ってくれる人もなく、山に死骸を捨てられた…。俺の精気はあげられねぇ。ここから出ていってくれ…」
と、鬼に頼んだ。
鬼の哀傷。俺は生前のこの女が送った過酷な人生を思った。
だが、鬼は飢餓で狂わんばかりだった。
鬼が俺の顎を掴み、凄い力でこじ開けようとしてきた。
「ねぇ、お口を開けてよ。お腹が空いた…。多伎が愛しい…。多伎は…優しい人だね…」
間近で見上げる鬼の顔が、実は腐乱して蛆が湧いているのが見えた。
髪で隠れていた顔半分は腐敗が進行していた。
「アォーン! アォーン! (多伎! 多伎ィー!)」
淡由岐が吠え、牙を剥いて唸った。
俺は自分より弱い鬼を殺すことが出来ず、同情してしまった。
そのせいで本気で喰われかけた。残してきた彼女の面影を見てしまったせいでもある。
突然、鬼の額に矢が突き立った。
女の相貌が一気に崩れた。シュウシュウと音を立てて白い蒸気を噴き出して、あっという間に腐肉が蕩け落ちた。
俺はやっと呪縛から逃れ、飛び退いた。
いつの間にか、玄関が開いていた。
久斯が弓を持って入ってきた。
女の鬼はドロドロに溶け、歯茎も歯も皮膚がなくなった。
久斯は竪穴住居の入口で弓を構え、近距離から女の鬼の片眼を射抜いた。
俺は呆気に取られた。
女の鬼に火が付いて、空中で燃え上がった。バラバラに砕けた骨の芯まで燃え、黒い炭の粉になって床に降り積もった。
『熄滅』の久斯が振り向いた。
「多伎、あの鬼は人を喰った鬼だ。もう人には戻れない…。ちゃんと引導を渡してやらないと、次の犠牲者が出ることになる。鬼の見た目が例え女子供でも、老人でも、決して手加減するな。斬ってやることが救いだ…」
久斯は優しく俺を叱りつけた。
俺が「逃げてくれ」と鬼に頼むのを聞いたのかも知れない。
鬼だって人を喰うことは辛いだろう、だから斬って救ってやれ、と言う。
なんていう男なんだ。俺は納得して頷き、自分が中途半端だったことを恥じた。
久斯はとても冷静だった。床に座り、淡由岐を撫でた。
「淡由岐の声がすごく激しかったから、もしかしてと思って来てみたんだ…」
久斯は隣の竪穴住居で寝ていたが、淡由岐の声で目が覚めたそうだ。淡由岐と久斯に助けられた。
ふと、久斯は独り言みたいに漏らした。
「…まぁ、多伎は中身が誰かと入れ替わったみたいだからな…。不慣れでも仕方ないね…」
俺はギクッとして、慌てて手を振った。
「な、何言ってんだよ、久斯! 俺は多伎だよ。そうだ、鬼は俺の父さんの仇だ。全部殺さなきゃ……殺さねーと……」
必死に誤魔化そうとする俺に、久斯は静かに微笑んだ。
「もう遅いよ。私を誤魔化せない。君は別人だ。多伎じゃない」
ばれた。




