第2章 ハイエイタス ・ 第5話 翔鸞楼の戦い ③
俺は龍変化から戻った。
大雨の中で羽ばたき、翼に付着した血を落とした。
わざと顔に雨を受け、何度も洗った。俺の大事な黎明の顔、手の皮膚に、邪龍の穢れた血が飛んだ。
黒い血は怨念の濃縮されたもの。皮膚が膿んで壊死を起こす。念入りに流した。
邪龍との戦いは終わった。
俺の『雷電霹靂』で陰陽寮退魔課の結界が壊れた。この磁場の乱れ。
今は陰陽寮退魔課の連中も俺を追えない。
俺は清涼殿の上まで飛び、屋根で翼を休ませた。
嵐が去って清々しい朝が来る。黎明の光こそ何にもまして美しい。
夜が明ければ鬼も去る。生けるものの世界だ。
それにしても、生身はきついな。俺はあちこち痛む躰を擦りながら、力が尽きる前に屋根の下を覗いた。
話は少し戻る。
『すめらみこと』の寝所・夜御殿。
昼御座の北側にあり、ここだけは帳や御簾でなく、周囲を壁で囲む塗籠造りで仕切られる。
古式では繧繝縁の畳を二段重ねて寝台にしていたが、今はそれ風のデザインのベッドで、羽毛布団もマットも柔らかい。
背景が金箔貼りの、馬に乗った貴人達を描いた特大屏風を壁に沿ってめぐらす。その馬上の振り返る貴人達の視線が寝所の中心に集中し、行為を覗かれている気分だ。
采女になった黎明の従姉・七海は昨夜初めて半裸で組み敷かれていた。
七海は覚悟していたものの、躰全体が強張って顔色も悪くなり、ずっと目を伏せていた。
『すめらみこと』の食事の給仕をしてきて、お声を掛けられることが度々あった。
うまく気の利いたことを答え、即興で和歌など詠めた際には着物を褒美としてもらった。
だから、いつかはこんな日が来るかも知れないと思っていた。
全国から集められた美しい女官達に紛れ、四年間、何事もなく過ぎた。
遂に呼ばれてしまった。
これは光栄なことなのだ。弥栄氏の為に拒否することは出来ない。
采女は郡名で呼ばれることが一般的。七海も『弥采女』『弥の女』と呼ばれていた。
『すめらみこと』は采女に優しい。パワーハラスメントとか全然ない。
『すめらみこと』は御年四十五。髭を生やし、目はきりっとして色白、眉を描き、化粧している。肌はきれいで滑らか、顔立ちも悪くない。
人払いされているので、寝所辺りには誰もいなかった。
『すめらみこと』はじれったいのか、溜息をついた。
七海は口づけを嫌がるように顔を背けていて、ハッとそのことに気付き、赤面した。
七海の視界の端に、彼女が着ていた青摺衣(白く染めた生地に、緑色で鳥や葉を型染めした采女の上着)がある。
七海の白い単衣は襟が乱れ、赤い袴も捲れている。
その時、俄かに外が暗くなり、雷鳴が轟いた。
「あっ…!」
『すめらみこと』が夜御殿から飛び出した。
壮絶な雷が数十秒連続して鳴り響き、何度も近くで落雷があった。
鼓膜がどうにかなりそうなほどの轟音だ。
この内裏十二階の清涼殿にも避雷針があるが、閉じた蔀の向うは余りにも激しい雷で、『すめらみこと』と七海は不安を掻き立てられた。
周囲の廂をバタバタと人の走り回る足音が聞こえた。
むしろ、人が清涼殿から居なくなるような不測の事態だった。
落雷は怨霊のタタリとして知られる。『すめらみこと』は怨霊のタタリだと思った。
やがて雷鳴は止んだ。
今度は台風のような暴風雨が降り出し、雨音が凄かった。
「すめらみこと。これは…何でしょう?」
七海は自分から話しかけてしまい、慌てて口を押さえた。
『すめらみこと』は明らかに狼狽していた。
「誰か。誰か、おらんのか⁉」
侍従を呼んだが、誰も来ない。
七海は邪神の気配を感じていた。彼女も優秀な巫だから、俺が来たと知っていた。
「こ…これって、ふ…不吉ですよね……」
七海は小声で言ってみた。
「ああ、不吉だ。弥の女、下がって良いぞ」
『すめらみこと』は七海の退去を許した。こんな夜に采女を抱くどころじゃない。
朝方、すめらは夜御殿のベッドで目を覚ました。
一条の眩しい光を感じ、身を起こした。
金糸銀糸で鳳凰を織り込んだ美しい錦のベッドスプレッド。ベッドの端に俺が座っていた。
俺は髷を結わず、黒い冠を被らず、濃紺のブレザーの制服姿だ。ふてぶてしい態度で、敬意も示さない。俺の顔はその男の方向から逆光になっている。
すめらはどうして俺が自分の寝所に居るのかわからず、ポカンとした。
俺は開き直って言った。
「よくお休みでしたね…」
「…これは夢の中だろうか?」
すめらは、俺が昨夜の雷雨を引き起こした怨霊だと知った。
しかし、悲鳴を上げたり取り乱したりすることはなかった。命を取ることが目的なら、既に殺されているに違いない。
「そうですね。夢か…。似たようなものでしょう…」
俺は去り際に答えた。
烏のような黒い羽一つ落とし、清涼殿から去った。途中の廂で咳込み、点々と赤い血を吐いた…。
「うっ……」
俺は霊力を極端に消耗していた。黎明の躰は俺が思うほど頑丈じゃなかった。
それにしても残念だった。
すめら、あの男は……八坂瓊曲玉の記憶を持たない。
即位の儀では、三種の神器は筥に納めて封をした状態で、身に付けるものではなかったんだ。
睡眠中のあの男から記憶を読み取り、その結果に落胆した。
結局、八坂瓊曲玉がどんなものかわからなかった。
俺は東庭から天高く昇り、朝焼けの京の空をグライディングした。
衛士・靫負晴彬は手柄を立てることが出来なかったが、別の式神を使って翔鸞楼の屋根に降り立ち、ブレザーのボタンを一つ拾った。
ボタンには特徴のあるエンブレムが浮き彫り加工されていた。
「なんで、こんなとこに? これ、可雲川学院の制服のボタンじゃないか?」
念の為、彼はボタンを懐にしまった。
昨夜の霹靂を知らない者は京に居なかった。
桃井虹のマネージャーがマンションの地下駐車場に車を回してきた。眼鏡を掛けた三十代の男性マネージャーが桃井虹の体調を気遣った。
「昨夜の雷は凄かったね。虹ちゃん、怖くなかった? よく眠れた?」
ノーメイクの桃井虹が後部席に乗り込みながら、目深に被っていたキャップを軽く上げて笑みを見せた。
セクシーでキュートな小悪魔タイプが売り、あのビキニの写真集から想像が付かない。
もっと親しみやすい笑顔。
桃井虹は意外な渋メンズ系カジュアル。流行と関係ない古着を着て、ブーツは中古のレッドウィングだった。
「怖くなんかないですよ。凄く綺麗だった。稲妻が龍みたいで……」
すっぴんだと十八歳よりも若く見える。
とても色白だが、薄くソバカスがあった。
「そうなの? 君は変わってるねぇ…」
マネージャーは桃井虹のシートベルトが締まるのを待って、車を発進させた。




