第2章 ハイエイタス ・ 第4話 多伎の一つめの目的 ③
黎明の曾祖母・トヨは弥栄邸から京の方角の空を眺めた。
山の向うへ一羽の烏が飛んで行く。
「不吉な…。思うてたより忌まわしい…。大惨事になるかも知れへんな……」
トヨが呟くのを聞いていた弥栄宗家が、老眼鏡を新聞の上に置いた。
弥栄宗家は座敷からトヨの立つ広縁を振り返った。
「母さん。…先視のトヨがそんなこと言うなんて、穏やかじゃないね…」
弥栄宗家は急須で淹れたお茶をうまそうに飲んだ。
「おや。私が何か言うたか?」
トヨはとぼけたことを言った。トヨは無意識のうちに未来のことを告げる癖がある。
「母さん。いよいよと言うことだね…。私も覚悟はしているよ」
弥栄宗家は着物の膝を押さえて立ち上がった。
「宗家。ほな、千津雄に言うといて。禍に自ら手を出したらあかん。禍を呼び寄せるだけになる」
トヨが長男・千津雄の行動に釘を刺すように言った。
弥栄宗家は低い笑いを漏らした。
「あいつ、何か、手を出したか。黎明に憑いた魔に? ……それは…歯が立たんかったろう…」
「千津雄に出来ひんことを、千歳にさせんといて」
トヨは憤懣を伝えた。
「母さんは…お見通しか。でも、或いは千歳なら……出来ると私は思う」
弥栄宗家は座敷の出口に歩いていく。
畳に夕陽が差す。
トヨは弥栄宗家の後ろ姿を睨む。
「宗家。…千歳が可哀想や。千歳が…死んでしまう」
弥栄宗家は何を思ったか、ははは…と乾いた笑い声を立てた。
「その時は…我が一門が滅びるかも知れないな……」
弥栄宗家がさっと襖を閉めた。
トヨは皺だらけの口元を萎め、着物の帯留めの前で両手を重ねた。
「そんなこと、させへんわ…」
トヨは京の方角に視線を戻した。
烏が寂しげに鳴いていた。
大学の帰り、俺はユウタとダイキにハンバーガーの店へ連行された。
そう言えば、黎明の好物はチーズハンバーグだった。
大学から近いミヤコバーガーで俺達は小腹を満たした。
駐車場が見える窓際のボックス席で、ブラインドの隙間から射し込む黄昏の光を浴びながら、俺はふてくされた態度だった。
「黎明、腹減ってるんだろ。お前、腹減ったら急に口数も減るんだよな」
「ほら! ミヤコチーズスペシャル!」
ダイキが俺の分を運んできて、ユウタがその包装を捲って、俺の口の前に差し出した。
肉汁滴るビーフパティと濃厚チーズを食ったら、俺はすぐ機嫌がよくなった。これ、うま。
「黎明。どうする? 桃井虹のライブ…」
ダイキが身を乗り出し、俺に尋ねた。
「裏口で出待ちしようぜぇ。近くで顔を見たいよなぁー」
ユウタはコーラのストローを齧りながら、スマホを弄っていた。
俺は横から画像を見た。十八歳の売り出し中のアイドル、桃井虹。元気一杯の笑顔で、いつもビキニ。
顔だけは剣の妹・宇加に似ている。瓜二つだ。俺はそれが不愉快だった。
よく見ると、宇加と表情が違う。桃井虹は今時の普通の女の子。
ライブのチケットは結局、手に入らなかった。
「顔なんて見てどうするんだよ? 写真集で充分だろ?」
俺はどっと疲れを感じる。
ユウタが俺の口にフライドポテトを差し込む。これも、うま。
「見たいじゃないかぁ。だって、黎明。俺達の天使、俺達の女神だぞ。桃井虹の瞳に映れるなら、俺はもう死んでもいい。最高に幸せなんだってば…」
ダイキが語る。
俺は吹き出してしまった。
「…女神…って…!」
俺は笑いすぎて後ろ向きに反り、椅子からずり落ちそうになるほど爆笑した。
笑いすぎて苦しい。涙が出た。
何それ、抱くことも出来ない偶像に恋してどうする⁉
いや、俺はまだ理解出来ていなかった。彼等は純粋に恋をして、夢中で楽しんでいる。
「黎明が一番、桃井虹に本気だってたくせに…どうなってんの⁉」
ユウタとダイキは不満そうだった。
そうなのか。じゃ、黎明は俺の居た世界に行って、宇加に心ときめかせているわけだ。よかったな、黎明。
雑談の後、俺達は公園でバスケをした。
本気でシュートを競った。汗をかいてシャツの袖を捲り、息が切れるまで走った。
俺は思うんだけど、黎明の良い点は高い身体能力かも知れない。それと、先を読むセンス。
シュートはユウタの方が上手い。動きはダイキの方が速い。
でも、俺が一番、ゴールを決めた。
盆地の山の端に夕陽が落ち、マゼンタとシオンのインクを滲ませたような夕焼けがきれいだ。東の空はすっかり藍色、一番星が光る。
公園の大木の葉がさわさわ鳴る。俺は火照った躰に風を受け、耳を澄ませて風の音を聴いている。
周囲に人影がなくなり、外灯が灯り、表通りの看板の照明が眩しい。
ベンチに置いていた大学の制服のブレザーを掴み、リュックを肩に掛けた。
俺は何だか照れ臭くなった。
「もう行かなきゃ…」
俺が駆け出す。
ユウタとダイキもブレザーを取り、慌ててリュックを背負った。
「黎明! 待てよ!」
「まだ、本当は話があるんだよ…」
二人が走って、俺を追った。
俺は坂道を駆け下り、銀行の角を曲がる。コンビニの前を走り、二人との差を開けていって、駅前交差点の大型の陸橋の階段を駆け昇った。
二人はコンビニの前で息切れして、夕闇の中の俺の白いシャツを見上げている。
車の騒音が騒がしい交差点。ショッピングモールや駅ビルの三階に繋がる陸橋、カフェテラス前の広いスクエア。
人混み。渋滞のクラクション。排気ガス。
俺は陸橋の手摺に立ちあ上がり、自前の黒い翼を広げた。
そして、ダイブした。
俺の翼は南米のコンドルよりも翼長がある。風を捉えて滑空し、車列の上で上昇に転じた。
後は空の果てまで飛び、赤い夕闇に溶けていく。
ユウタとダイキは驚いた。
「黎明ー! いつの間にそんな凄い技を習得したんだよー! 俺達も弥栄流に入門させてくれよぉー!」
ユウタとダイキはもう俺を追えない。追いかけっこは、これでお終い。




