第2章 ハイエイタス ・ 第3話 黎明になった多伎 ①
初花月の夜。月は朧、風もぬるく梅を香らせる。
俺は屋根の上で影をまとう。広げていた翼を閉じ、東寺の五重塔の屋根から京の夜景を一望する。虎のように息も荒々しく、低い咆哮を響かせた。
新旧の文化がごちゃ混ぜの京。
朱雀大路から一本入った通りには七階建てのビルが建つが、大路の両側は今も古風に、漆喰塗りの白い塀に瓦が載っている。
軒丸瓦の蓮華文、須恵色の花が咲き並ぶ。
「これが京か…」
俺は内面の獣を解放するように吠え猛り、獲物の気配を感じて舌舐めずりした。
俺は八島黎明になった。
弥栄宗家の飼猫リンが俺に近寄らなくなった。
弥栄邸の黎明の自室で荷物をまとめていた時、トヨと黎明の両親が入ってきた。
広大で古めかしい弥栄邸の、角々と曲がる長い廊下の突き当り。離れの八畳間。
仕切りは襖だから鍵も無い。家族で帰省した時にいつも使う二間続きの座敷だ。
この和室の家具と言えば、民芸調の桐箪笥と押入れの布団だけ。
俺はその箪笥から黎明の着替えを抜き取っていた。
トヨは俺の正体を見透かした上で、
「何か事情があるんやな。ほな、何も聞くまい」
黎明の顔を愛おしそうに見詰めた。
少し照れた。
俺は黙々とスポーツバッグに衣類を詰め込んだ。
俺の傍らに、黎明がご神宝として得て大宮の宝物殿に収蔵されていた弓矢と靫もある。
勾玉、弓矢、刀、これで俺の世界から持ち込まれた必需品が揃った。
が、トヨは何故か、ご神宝の持ち出しを止めようとしない。
「これも持って行きよし」
トヨが退魔術の鬼文字の赤い護符の束を、デスクの上にドンと置いた。
おいおい。俺は邪神だから触れることも出来ないのに。
トヨが部屋から出て、黎明の両親が残った。
黎明の母親は気丈な人で、俺の中の魔に立ち向かった。
「黎明。どこに行くの?」
「ママ。大学だよ」
俺は両親にだけ、黎明の明るさ、その愛情のままの態度で接した。
無邪気な笑顔で母に抱き着き、
「このままだと、単位落としそうでさ…。怒らないで、ママ!」
「…仕方ない子ねぇ…。またダメだったの?」
母も拍子抜けした。
父は喜んで、長い吐息をついた。
「よかった。黎明、何もないんだな? いつものお前なんだな? 心配したぞ…」
「あるわけない。何があるって言うの? パパ、ママ! 早く家に帰ろうよー!」
背の高い俺が両親の肩に手を回し、中央でぶら下がるように甘えた。
俺は子供みたいにキャッキャッと笑った。
これからは俺の本当の親だと思うことにする。
その時の俺は本当に嬉しくて、無邪気にはしゃいで両親に甘えていた。
弥栄邸の回廊の突き当りで、俺は邪念の塊を見つけた。
宗家の自宅にこんなものが巣食っているとは。俺が始末しておいてやろう。
「『九雷堕』!」
俺が人差し指を向けて一睨みするだけで、邪霊なんて消し飛ぶ。
世界が一瞬、暗転した。
稲妻が閃いた瞬間、バリバリッと空気が裂ける音がした。
垂木の一部が弾け飛び、高欄と板床に蜘蛛の巣状のひび割れが入った。
俺は邪霊の霊的エネルギーのみを攻撃したのだが、このくらいの建物の被害はどうしても出る。
次に、俺は庭の石灯籠の影を指す。
『九雷堕』!
刹那の闇に閃光が走る。
石燈籠の火袋を支える台の部分が割れ、脚部の間に火袋と笠、宝珠の砕けた塊が落ち込んだ。庭の景色の一部が様変わりする。
邪霊は一瞬で消滅した。
俺は通りすがりの弥栄流退魔道の門弟に言ってやった。
そいつは四十歳くらいの師範代クラスの男。
「ちょうどいい標的があちこち落ちてるよ。退魔の練習に使ったら?」
「まぁ…そうですね」
この道二十年の退魔師が俺を見て、ああ、宗家に溺愛されて調子に乗っている外孫の、中途半端者の黎明か、という舐めた顔をした。
「あそこに二級邪霊がいるの、わかる?」
俺は庭園の奥の方、人工的に作られたせせらぎの上流の小さな滝を指差した。
滝から心地良い水音が届く。
しかし、水場は霊を引き寄せる。どろどろした怨念渦巻く邪霊が、こちらを呪うように浮かんでいた。
「あの邪霊は気付いていました。結構強いですよね。千津雄先生が来週にもお祓いをする予定で…」
退魔師が答え終わる前に、人差し指を向けた。
『九雷堕』!
二級邪霊を瞬間的に滅ぼした。
同時に滝周辺の庭石が全部割れ、流水の中に転がった。
俺は庭の眺めをぶっ壊した。
「お祓い? ぬるいな。殺せよ!」
俺は舌打ちして、黎明とは全く異なる表情で囁いた。
退魔師は青くなり、二、三歩、後ろに下がった。
俺は黎明の恋人の清香に電話で呼び出された。
ブランドの服のおねだりだったが、黎明と交際中の女がどういう女か、興味があったので会うことにした。
黎明が心底惚れて、とても大事に思っている女。
つまらない女だった。黎明をATMとしか思っていないような。
会話も流行を追うだけで、承認欲求が強くて中身がスカスカだった。顔がちょっと可愛いくらいしか取り柄がない。
いや、…それほど可愛くもない。
だから、俺は言ってやった。
「就活に専念するから、暫くはサークルに出ないかも…」
「どうして? 家業継ぐんでしょ? お祖父さまが弥郡の郡大領(郡司)で、大きな神社の宮司さんで、由緒ある弥栄流退魔道の宗家なんでしょ? 就活いらないよね?」
清香が黎明の部屋のベッドに裸で寝転んでいる。
ベッドの横には俺が買わされたブランドの服の、大きな紙袋が四つ。
俺はクローゼットの鏡を見ながらシャツのボタンを留め、哀れな黎明を代弁してやった。
「じいさんちはともかく、俺んちはそんなに裕福じゃねーよ。清香のその服を買うお金だって、ピザの配達のバイトを雨の日も風の日もやって稼いだんだ。俺、去年だけで百万円以上、プレゼントやデート代で君の為に使ったんだよな。もうお金が尽きたんだよ…」
清香は黎明の気持ちなど思いもしない。
自惚れているのか、
「私にそれだけの価値があるってことよね。嬉しい…」
と、言ってきた。
清香はベッドから上半身起こし、豊かな胸が露わになった。
俺を上目遣いに見上げて、俺の側に寄って、長い睫毛を瞬かせた。
「今日の黎明、いつもと違うね。素気ない。…気になっちゃうじゃない…」
甘えるように目を閉じ、首を九十度傾げ、俺の唇に自分のふっくらした唇を押し当ててきた。
清香の必殺の甘いキス。これが黎明の心を溶かした。
俺は唇が乾く前にこう言った。
「前に言わなかったかな。俺、外孫でさ。何も相続するものがないらしいんだよね。俺は八島黎明なの。弥栄氏の財産は俺と関係ねーの!」
俺は黎明の口調を真似て喋った。
清香は俺と黎明の違いを見出せなかった。
瞬間、清香は口を尖らせ、不満を言った。
「そんなの、聞いてない! 母方にたんまり財産があるって言ってたじゃない! 話が違うよ…!」
俺はこの女が社長令嬢だという方が、話が違うと思ったね。
黎明は騙されていた。この女は虚栄心が強く、玉の輿を夢見て可雲川学院に入ったんだよ。あそこは裕福な家の子が多いから。
清香はすぐ別れ話を切り出した。
「サークルに出ないんだったら、会う機会も減っちゃうかもね。暫く反省してもらいたいな。私に対する愛情表現をケチるんだったら、私も傷つくんだから…」
よくわからない理屈を言った。
その上で、ブランドの服だけは戦利品のように手放さず、急いで俺の前から退散した。
もっと貢いでくれる男なら、黎明じゃなくてもよかったんだ。
「等身大の俺を好きになってくれる女がいいんだ。俺はそんなに甲斐性ねぇよ。だけど、もし、こんな男でよければ、結婚…」
俺は清香にトドメを刺した。
「いいわけないでしょ!」
清香は服を大急ぎで着て部屋から飛び出し、玄関へ走った。
黎明の家庭は夫婦共働きで、この時間帯は留守。
清香はヒールの高いパンプスに素足を突っ込み、捨て台詞を残した。
「後悔すると思うよ、黎明!」
乱暴にマンションの玄関ドアを閉め、靴音を響かせて去った。
俺は容易に振られた黎明が面白く、つまらない女の浅はかな捨て台詞が面白くて、爆笑…。
「女の趣味が悪いぞ。黎明…」
俺は黎明を憐れんで笑い、クソ女が出て行ったドアに向かって呟いた。
後腐れないように、俺が始末を付けておいた。




