第1章 クラン ・ 第1話 世界の交換 ③
屍の鬼が精気を啜る。
俺を泊めてくれた男が大声で叫んだ。
「多伎さま! 今のうちに逃げて‼」
俺の後ろに住居の出口があった。
でも、俺は引けない。俺を助けた男が精気を吸われかけている。
その時になって漸く気付いた。腰に短剣を吊っていた。
柄が短くて鍔の小さい、両刃の鉄剣。刃長32センチ。見たこともない形だが、不思議な霊力も感じた。
屍の鬼は獣のような口を増々迫り出し、長い牙を剥いた。屍の目は白っぽく光って長く切れ上がり、首は馬のように長い。
そいつが節くれ立った右手で、竪穴住居に置いてあった鉄斧を掴み、高く振り上げた。
鉄斧が俺の頭めがけて振り下ろされた時、ゴォッと風が唸った。
「危ねっ!」
俺はギリギリで避けた。
生前のそいつは戦闘に長けた武人だったのだろう。滅茶苦茶な振り方じゃなかった。
でも、俺は幼い頃から武道を基礎からやってきた。好き嫌いとは関係なしに、家業の為に。
俺はそいつの戦い方に対応出来た。
その鉄斧は、西洋の戦斧とは形状が全く異なる。工具の斧だ。俺の肉を抉りにきた。
俺の短剣より鉄斧の柄が長い上、そいつの腕自体も猿みたいに長い。
俺はそいつが鉄斧を振り上げるタイミングを計って間合いに飛び込み、その攻撃より先にその手首の下を短剣の刃で止める。
刃がそいつの骨に食い込む。そいつの動きが一瞬停まる。
同時に俺はそいつの右肘を左手で上げ、短剣で鳩尾を刺そうと…。
「黎明! ヒラで心臓を刺せ‼」
何故か、千歳兄の声が聞こえた気がした。
俺は手の内で柄を回し、刃を水平に寝かせて鬼の肋骨の間へ滑り込ませた。
鈍い音と手応え。
鍔が俺の右手の滑りを抑え、相手の心臓までググッと深く押し込んだ。
鉄斧を振り上げたまま、屍の鬼がのけ反り、ガフッと黒い血を吐いた。
血と共に、吸い込んだ精気を吐き出した。精気が銀色の噴水みたいに光りながら飛び散った。
俺の顔や右手に、鬼の黒い返り血が飛んだ。
俺は今まで人だろうが小動物だろうが、殺したことは無かった。俺の中で心臓が凍えるような感覚だった。
鬼はシュウシュウと白い蒸気を出しながら腐乱し、溶けていった。
俺は荒い息をして、恐怖で止まらなくなった。
「クソッ! クソッ! クソッ!」
俺は短剣を逆手で掲げ、馬乗りになった。何度も突き刺し、腐乱した肉と黒い血が飛び散り、俺の衣服や髪や皮膚が汚れた。
俺はひたすら、鬼を刺しまくった。
鬼が溶けていく様を最後まで見詰め、放心状態で立ち上がった。
屋根が半分砕け散り、夜空を冠した廃墟の中で、屋根材の破片と壺の破片が辺り一面に散乱していた。掘立柱は傾き、炉がどこにあるかもわからないほど滅茶苦茶で、住居内の端と端に男女の遺体があった。
遺体は面影もなく、老人以上に皺くちゃ。干からびてミイラ寸前だった。
俺は親切な若夫婦を助けられなかった…。
ふらふらと玄関に出た。
他の鬼が来るかも知れない。早く逃げなきゃ。
壊れた板戸を押し除けたら、外は霧で真っ白だった。とても肌寒かった。
俺は林の中をひたすら走った。霧が深くて、前が見えない。
木立の影がうっすらと浮かび、俺の後ろへ遠ざかる。
やがて夜が明け始め、霧が少しずつ晴れていった。雲の波間から青々とした山波が頭を覗かせる。
烏が飛んでいる。ハシボソガラス。
崖下に竪穴住居の集落が点在していた。高い櫓が見えた。
見渡す限り、ビルがない。そこに在るはずの俺の祖父の家も、周辺の住宅街や駅前のビル、駅そのものもない。街が丸ごと無かった。
俺は全身に黒い返り血を浴びていて、右手に血塗れの短剣を持つ。
「こんな世界、俺は知らない……」
崖の上で呆然と立ち尽くす。
「多伎さま…」
誰かが声を掛けてきた。
俺はビクッとして、声の方向を振り返った。




