第1章 クラン ・ 第7話 邪神降臨 ③
再び、俺は異世界に彷徨い込んだ。
俺は異世界の海辺に居て、係留された船の上で友人と酒を酌み交わしていた。
順風快晴の日で、俺達は新たな船出を祝った。
「多伎!」
友人が酒坏を掲げ、俺の名を呼んだ。
俺の隣には剣と久斯、大勢の仲間が居た。年齢も地位も違うが意気投合していた。
俺達は話が尽きず、笑いが絶えず、信頼は固く、友情は永遠だと誓い合った。
それは楽しい旅だった。怖いものも何もなかった。
俺達はいろんな話をした。
この世界では、人は死後、腐りながら鬼と化す。屍の鬼が生きた人を襲って、精気を喰う。恨みが深過ぎて、生きながら鬼になることもある。
そうならない為に鎮魂の儀を行う。火葬の習慣は無かった。
多くの同胞が散った戦場があった。
兵士だけでなく、女子供も年寄りも皆殺しにされた。
夥しい血が流れて血の池となった場所が在った。
死者を弔うことも出来ず、生き残った者は追放された。殺された者が屍の鬼として甦った。
それだけではなかった。
勢力拡大を図る者が血の池の土を捏ね、野晒しになっていた白骨を砕いて練り込み、呪いの器を焼いた。
その百の呪いの器に、古戦場の怨念を閉じ込めた。
怨念が怨念を呼び、古戦場に眠っていた全ての死骸がこの世に甦った。
しかし、あくまでも死骸に過ぎず、何度も甦っては腐り、土に還っていった。
後から後から、土中から屍の鬼が湧いた。
かつての土地を取り戻した英雄が、元は同胞の屍の鬼に襲われ、命を落とした。
顔見知りの屍の鬼を延々斬り伏せた者は心を病んだ。
屍の鬼の腐った血を浴びた人々は膿が出て、手の皮膚と爪がマダラの墨色に変わった。
…いや、それは伝説だ。
本当の事は俺も知らない。
俺は森の上を猛烈なスピードで飛んでいた。
燕が急旋回するように樹々をすれすれで避け、コークスクリューのように捻りを入れて飛んだ。
俺の翼は烏のように黒い。五指のような風切り羽を広げ、自由自在に風に乗り、風そのものとなって俺の身を吹き落とし、また急上昇させた。
俺は邪霊の集合体を追っていた。
まるで手の一部のように、俺と一体になって走る霊刀『伊都之尾羽張』。
見た目は深淵のように黒々として、暗がりでは白く霊光を放ち、邪霊どもを一瞬で消滅させる。
その刃はビリビリ痺れるような強烈な霊気をまとっている。
邪霊を斬る度、『伊都之尾羽張』がジュッと鳴って水蒸気が上がる。
熱いフライパンに水を浴びせた時の音だ。邪霊から焦げる匂いが漂う。
溢れるように湧く鬼を斬り伏せながら、俺は急激に体力を消耗していく。
遂には飛んでいられなくなり、地上に降りた。
休む間もなく地面が割れ、ボコボコと穴が開き、土を掻いて屍の鬼が出てくる。
無数に湧き出る鬼ども。これが人間のなれの果てだとは。
俺は戦い続けるが、援軍が何故か来ない。
剣と久斯はどうしてしまったんだろう。俺の愛狼、淡由岐は?
俺は絶望的に見上げた。邪霊が寄せ集って、龍蛇の如く変化する。
人面が連なり、首が何俣にも分かれている。
俺は『伊都之尾羽張』を振り上げ、高く跳び上がる。
もうお終いか。
それとも、これは夢なのか。
七海も異世界で別人に変わり、俺を捜していた。
そう言えば、七海は俺が五ツ詣りで会った『壱』という美少女と、近頃よく似てきた。
七海が俺の上空に現れた。巫の白い着物を着ている。
俺はバケモノに腹を噛み裂かれ、血塗れだ。
俺の前に、長い髪を靡かせて『壱』が降り立った。
「多伎さま! ご無事ですか⁉」
「壱!」
壱が笛を吹き、彼女の躰に神気が宿る。
地上の屍の鬼がざっと退く。
俺の中に活力が戻り、群雲の合間から筋状の光が射してくる…。
「…よーちゃん!」
「…あ……」
俺はやっと目を覚ました。
魂が俺の躰に戻ってきたら、何故かぐったりして動けなかった。黒い翼の男と同様、俺は疲労困憊だった。
千歳兄と三波が俺を囲み、横で七海が荒い呼吸をしていた。
千歳兄が俺の額の汗を袂で拭き、
「黎明。異世界側に呼ばれたな?」
八年前のトヨばぁと同じことを聞く。
俺は完全にトランス状態で、ぶるぶる震えながら言葉を返す。
「…黒きものが甦る。それは…真の邪しき神(カミ)だ」
うわごとのように呟いて正気に戻り、自分で驚く。
俺は何を言ってるんだ?
俺達は真っ暗の弥の宮の石畳に居た。
ぬるく湿った夜風が吹き、弥の宮の結界の森がざわめく。
千歳兄達は弥のミオヤが俺にコト依さしたと思い、びっくりした。
すると、七海が横から完全否定した。
「待って。よーちゃんは弥のミオヤを召喚してない。異世界で、別人みたいになってたよ! …あれは邪神……。よーちゃんは黒い翼を生やした男の人になって……八咫烏みたいな…!」
「ええっ⁉ 邪神⁉」
三波が叫んだ。
「八咫烏? 足が三本ある、でかい烏ってこと?」
千歳兄が聞いた。
「そうじゃない。八咫烏の足は三本じゃない。そんな話は、日本書紀と古事記のどこにもないよ。……よーちゃん、立てる?」
七海が俺の羽織袴に付いた砂を払った。
「えっ⁉ よーちゃん、何を持ってるの⁉」
七海は提灯を持ち上げ、俺の全身を照らした。
俺は二度目となるご神宝を、異世界から持ち帰っていた。
今度は弓矢だ。
赤と黒の漆で呪術的な装飾が施された丸木弓と、鷹の矢羽根の黒い矢。
俺は弓を肩に掛けていた。矢を納めた靫(矢筒)を羽織の上から襷掛けで、リュックのように、小さな躰に背負っていた。
「嘘ぉー! 何なのよぉー! なんで、よーちゃんだけ……ずるい!」
三波は興奮して、飛び跳ねて大声を出した。
去年、十三詣りを済ませたばかりの三波。三波の十三詣りは何事もなかった。
「マジか。またもらったのかよ? しかも、でかいな!」
普段冷静な千歳兄も、この時は嫉妬せずにいられなかった。
千歳兄は俺が羨ましくて悔しくて、
「で、誰にもらった? 弥のミオヤか? それとも、八咫烏みたいな邪神か?」
嫌味を込めて笑った。
ご神宝をもらった者は弥栄氏で誰もいない。一度ならず、二度までも。
母の実家は大騒ぎになった。
「何故、外孫の黎明なんだ⁉」
俺が弓矢を異世界から持ち帰った話は、弥栄流退魔道の門弟達に衝撃を与えた。
宗家の弥栄千五十寿も、事態を重く受け止めたようだった。
この頃から、俺がいずれ宗家の養子になって後継者候補として千歳と競い合うことになるんじゃないか、という噂が門弟達に囁かれるようになった。
あの日、多伎の思念や戦闘の感触が俺の中にまざまざと残った。
俺は確かにあの一瞬、異世界で邪神・多伎だった…。
翌日、元服の儀で、俺は生まれて初めて平安装束を身にまとう。
垂纓冠を付け、縫腋袍を着て笏を持ち、袴を重ね履いて下襲の裾を長く引き摺り、左腰に太刀を佩き、弥栄氏の氏神・大宮の参道をゆるゆると歩いた。
世が世なら、地方官僚デビューと言ったところ。
俺の成人の晴れ姿を見て、退院したトヨばぁは目に涙を貯め、惚れ惚れしながらこう言った。
「ほんまに凛々しいこと。最高の巫…。最高の祝主やこと」
夏まで持たへんと俺を脅したトヨばぁは、その後も元気だ。危篤が嘘だったかのように。
多伎の世界では昼飯がない。
朝は軽めの朝食を取り、午後まで働いて早めの夕食を取り、日が沈んで暗くなったら寝る。一日二食。
そのくらいにしとかないと、皆が食っていけるほどの食糧が足りない。
飯の時間はかなりの楽しみだ。
その日の俺の夕飯に、毒キノコが入っていた。
湯河の身の招待を受け、東西に長い掘立柱建物で、二列に並んで座って給仕を受けた。
『滄溟の鳥』の乗組員は二艘で三十二人。建物に入りきれなかった漕手達は、庭に席を設けられ、松明に照らされて同じ食事を分け合う。
俺達は無礼講で酒を飲み、楽しく時間を過ごした。
大抵、俺は剣の横に座っている。剣は本当に兄貴的な存在だった。
今夜の俺の反対隣に、剣の側近の奥津が居た。
いかつい面構えで髭モジャ、頬に刀傷あり。小柄だが体格よく、半裸で船を漕いでいる時の姿は本業の船乗りみたいだ。髪をハーフアップの髷にしている。
その隣に蓼。
剣の向かい側には、三野。田嶋、久斯と並ぶ。
剣と三野の間に湯河の身が座る。今宵の宴の主催者はとてもご機嫌だ。
料理は昨夜と変わらない品数で、とても豪勢だった。
奥津が俺の前に置かれた高坏を覗き込み、グイッと手前に引っ張った。料理を手掴みで一口頬張り、バリバリと美味そうに食った。
「よせ。毒見なら俺がする…」
蓼が年下の奥津に言うのを聞いて、俺はうんざりする。
「誰が俺の飯に毒を入れるって言うんだ⁉ 湯河の身に聞こえたら失礼だろ…」
俺は周囲を見回し、小声で呟く。
新の姿は宴会場から早々に消えていた。
「言わないとわかんないのか?」
三野が喧嘩腰だった。
「多伎、あいつをどうにかしろ。もう放置出来ない…」
「俺にどうしろって? たぶん、新は自分の父親を罪人として殺されたから、先代の跡取りの俺を恨んでるんだろ?」
俺はやっと気付いたんだ。
日河から何回助けても、新の俺を見る目は憎しみの塊だった。
新は俺を殺したいほど憎んでいる。
「そうです。あいつの父親は極悪人で、殺人者でした」
蓼が小さく囁いた。
蓼は弥に多い短髪、髭あり、刺青なしの男。剣に忠実で、剣の為なら火の中でも飛び込みそう。
俺は心の中で思う。父親が極悪人だからって、その子供はヤツコって酷くない?
罪を憎むべきで、犯罪者の妻や子までも奴婢にする倭の國の法はおかしい。殴られれば殴られるほど、新は捻くれていった。
その時、奥津が俺の手を止めた。
「多伎さま、食べないで。それ、毒キノコかと」
魏志倭人伝は、倭人は手掴みで食べると言った。
それは一部、真実じゃない。倭のクニグニには木製のフォークとスプーンがあった。箸はまだ無かった。
俺は手掴みで口に運ぼうとしていたものを、思わず放り投げた。
「わっ」
皆が注目した。
確かにそれは毒キノコの一種だった。白いキノコ。美味そうな匂いだった。
奥津はよく気付いた。
湯河の身はびっくりして、俺を心配した。
「西海の身。如何なされた?」
俺は西海の身と、初めて敬称で呼ばれた。
「いや、ちょっと虫が飛んできたもんで…焦っただけです」
俺は慌てて誤魔化した。
淡由岐が食わないように小さな躰を押さえつけた。
淡由岐は俺が落としたものをすぐ食おうとするが、この時はちゃんと俺に従った。
「ほら、見ろ。今に殺されるぞ、甘ちゃんめ」
三野が小声で嫌味を言った。
俺は食欲がなくなった。
毒キノコを混ぜて盛られていたのは、俺の前の高坏(皿に脚部を付けて高くした土器)だけだった。
剣が奥津に目で合図し、給仕した女の子を追いかけさせた。奥津がさりげなく炊屋へ入った。
「わかった。新と話してみる」
俺は皆を納得させる為、約束した。




