第1章 クラン ・ 第6話 温泉 ①
あれは小学校に入学したばかりの頃。
母の実家の長く暗い廊下を、俺は羽織袴を着て、同じく着物姿の曾祖母・トヨばぁと並んで歩いていた。
俺が両手で捧げ持つのは、神棚に供える水・塩・生の米だ。素木の台に載せて持つ。塩は三角錐に整えて盛られている。
「自分の息がかからない高さで運ぶこと」
トヨばぁに教えられ、俺は額の高さで掲げ持ち、そっと歩いた。
奥の座敷に入り、踏み台に登って、神棚に台ごと下ろす。当時の俺の身長では爪先立ちしないと神棚に届かない。
トヨばぁが月次の祝詞を奏する間、俺の祈りの姿勢は合掌じゃなかった。
「弥栄流はこうするの。これが古くから伝わる形…」
トヨばぁが俺の小さな手に触れ、形を作る。
両手の指の内側を合わせ、掌はくっつけない。肘を張り、頭を少し下げる。
これは埴輪の祈る男性のポーズと同じ。
埴輪の祈りのポーズは男女で異なる。女性は片手の甲と片手の掌を重ね、親指は立てず、手を少し持ち上げて祈る。
お祈りが済んでから、俺はトヨばぁに質問した。
「トヨばぁ。なんでごはんをおそなえしないの? 神さまもお米よりごはんの方がうれしいでしょ? 仏さまにはごはんをおそなえするのに…」
「ええ質問やな、よーちゃん。これは神さまのお食事と違う。感謝の気持ちを表してるから、御飯じゃなくてお米を供えるんよ。お米はお日さまと大地の恵み。お塩は海の恵み。お水は命の恵み。わかったか?」
トヨばぁは子供の俺にもわかるよう、簡潔にまとめて言った。
古来、俺達の祖先が神さまに祈った願いとは、生きる為のことだけ。
それは主に二つ。
穀物が豊かに実ること。疫病が流行らず、子孫が繁栄し続けること。
縁結びは、自分では農作もしない平安貴族の願かけだった。
更にトヨばぁはこうも言った。
「よーちゃんも小学校で漢字を習うやろ。ちょっと難しい漢字の話やけどな。神さまを祀る神職のことを古い言葉で祝と言う。祝うという字を古い文ではハフリと読み、ホウリと発音する。人を埋葬することは葬るという字を書いて、古い文ではハフリと読み、ホウリと発音する。昔、漢字がなかった頃、人を埋葬することと神さまを祀ることは、全く同じ言葉やったんや。つまり、お葬式では神さまを祀る儀式をしていた」
幼い俺には難しい内容だった。
でも、俺は真剣に話を聞いていた。
「よーちゃん。古墳って言うてな、昔、一族を率いたリーダー達の為の特別なお墓があってん。古墳の上には土器が仰山並んでたり、埴輪が立ててあったりしてな、儀式のあとが残ってるの。儀式とは勿論、お葬式のことなんやけど、首長霊の継承の儀式でもあったと言われてる。簡単に言うと、一族のミオヤを異世界から召喚するの。そして、次のリーダーがミオヤによって認められると言うことなんよ」
それが弥栄流の始まりだと言う。
「リーダーだけとちごて、本当は集団に属する全員のお葬式があって、その度に神さまを祀る特別な儀式をした。その儀式をせんと、死者が鬼になってしまう…。御魂を鎮める儀式…、それが私達の仕事。これから、よーちゃんにその方法を教える。よーちゃん、ええな?」
俺は頷き、寒気を感じた。
「トヨばぁ。それをしなかったら、皆、ゾンビになっちゃうの?」
「そうや。人間の精気を啜る鬼になる」
トヨばぁは断言した。
俺の両側に陸地が見える。広大な内海の海岸線に、紅葉した山並みが迫る。
点在する集落や櫓を船上からも目にすることが出来る。
俺は力いっぱい漕ぎ続け、滝のような汗を流した。
時折、他の船と擦れ違い、互いに櫂を振り上げて挨拶する。
俺達はソーラン節みたいな、船乗りの歌を歌いながら漕ぐ。
「ホーランエンヤァ、ホーランエンヤァ……」
俺は適当に合わせ、
「エンヤァ!」
だけ、叫ぶ。全員がタイミングを合わせて漕ぐ。
船出して何時間経ったのか、時間の感覚が麻痺した。腕の筋肉はもうパンパンだ。
日が傾き山際に近付く頃、俺達は波打ち際を走って船を浜に押し上げた。
俺はへとへとに疲れて、陸に上がった途端、胃の中のものを吐いた。
誰かが背後から嘲笑した。
「軟弱だな。この程度のさざ波で船酔いかよー⁉」
短髪の若い男の冷やかしにムカついて、俺はそいつを睨み上げた。
毒舌の三野、二十歳。小耳に挟んだ話では多伎の母方の従兄らしい。
二年前から多伎と共に旅をしてきた仲間だ。
「ここは雲か?」
俺の問いかけに、『滄溟の鳥』の漕手全員がどっと笑った。
「多伎。まだ先だよ」
俺の後ろで漕いでいた、物静かな美男が教えてくれた。
結い上げた髷に赤い紐を巻く彼は久斯、二十五歳。船乗りではなく、戦士。
三野に付き従う伴の一人だった。
漕手の何割かがこういう護衛だ。久斯以外は全員、柄の悪い人相だが。
「多伎。お疲れだな。体調でも悪かったか。…飯の前に出湯(温泉)なんてどうだ?」
剣が俺達を誘った。
近くに有名な温泉があると言う。
「二年に及んだ俺達の長旅の疲れを、出湯で流そうと思ってな」
「温泉かよー!」
俺を含め、ほぼ全員が大喜びした。
生まれて初めての混浴が俺を待っていた…。
でも、巫の俺が温泉に浸かって良いのだろうか。魏志倭人伝にあるように、汚い垢だらけで災厄を引き受ける担当『持衰』じゃなかったか。
良かった。持衰のような風呂禁止は、海峡を越える旅だけと言う。
「新も行くだろ?」
俺はヤツコの新も船酔いしているんじゃないかと思って気遣った。
でも、新は平然としていた。彼は冷たい視線で俺を拒否してきた。
「行かない」
いきなり対等な口調だった。
日河の暴力から助ける為に、彼の望みを聞き入れて連れてきたのに、この反応は何なのだろう? 俺は船内でブーイングされたのに。
まあ、よしとする。
温泉に行かない少数派の奈目(ツインテールの髪の少年)に狼の淡由岐を預けた。
近いと言われ、疲労困憊なのにまた騙されて、川に沿って二時間ほど歩く。大勢でぞろぞろと進む。
漕手達は旅を通し、気心が通じ合っている感じ。和気あいあいと雑談が続く。
漸く湯煙が見えてきた。
「ここの湯は怪我を治し、万病を癒し、若さを蘇らせる美肌の湯だ」
剣が指差す方向に天然の露天温泉があった。
映像などでお馴染みの、川辺の岩場に湯が湧く温泉だった。
「こ、ここここ、混浴……ぅ…」
俺は憧れの混浴で、目をギンギンに見開いて鼻血を噴く寸前だった。
老若男女、誰もが生まれた時の姿のままで、堂々と何も隠していない。湯煙の中、地元の家族連れが俺の前を横切った……。
俺は湯に浸かる前からのぼせ上った。
「こら! そんなにジロジロ見るな!」
剣に本気で注意された。
仕方なく、野郎ばっかりで貸し切りみたいに奥の岩場の湯に入ることになった。
俺は逞しい男達の群れに囲まれて湯に浸った。
俺のすぐ近くに大男の真具呂や、真具呂の息子で刀傷だらけの顔面の志毘がいて、絵面は余り良くない。
でも、温泉のお湯はとても気持ちよかった。磨いた玉のように肌がツルツルしてくる、本当にいいお湯だった。
気分よく寛いでいたら、何となく野郎どもの視線が気になってきて……。
「おい、お前ら、気持ち悪いぞ。何見てんだ?」
俺は剣、久斯と三野と漕手達のおかしな視線に背を向けた。
彼等は俺の行動に驚き、同時に同じことを考えていた。
「あの多伎が…俺達と一緒に湯に入った。……いつもは絶対に別行動なのに…」
俺は多伎の人生を変えつつあった。
まだ、そのことに自分でも気付いていなかった。




