第1章 クラン ・ 第4話 飆 ④
『…百百多良利多良利良…多良利良良利百百…』
俺は小声で繰り返し唱え始めた。お経みたいに聞こえるが、お経じゃない。
弥栄流退魔道の召喚呪文。
俺の全身に痙攣が起き、白目を剥いて倒れた。
断末魔に悶え苦しんでいるようにも見えた。
「多伎? もう毒が回った?」
ツムジが俺の様子を伺った。
暫くして、俺は屍の鬼のようにむっくりと上体を起こした。前髪が乱れ、顔に影が差す。
俺が落とした松明が坂道を転がり落ち、火の粉をパチパチと噴いた。
「多伎?」
俺達は暗い墓地で、互いの表情が掴めなくなった。
俺がブルッと動物的な身震いをして、低音で言った。
「…そこに居るのは、ツムジか?」
それまでの俺の軽い喋り方とは雰囲気がガラリと変わった。
ツムジの動きが固まった。
聞き慣れた声と迫力、それは…。
「…多伎……」
ツムジの怯えが伝わってきた。
俺は胡坐をかいた。
「久しぶりだな。元気みたいだな…。女の子連れて、珍しいな」
俺は別人みたいな話し方になった。
「多伎…、…記憶戻ったの?」
ツムジが一歩下がった。
俺の口が勝手に動く。
「記憶? そんなもの、最初からなくしちゃいない。ちょっとお前をからかって遊んでただけさ」
「…多伎…⁉」
ツムジがどんどん下がり、倭加を置いて今にも逃げ出しそうだった。
「逃げんなよ」
俺が牽制した。
「俺が記憶をなくしたら、お前は俺の使いを騙って、俺の親戚から首飾りやナンヤを取り上げんのかよ? いいご身分になったな」
ハスキーな格好いい声が流れ、俺自身、話している内容に驚いている。
ツムジは唇を噛み、俺を睨んだ。
「多伎が悪いんだよ!」
「俺が? なんで?」
「多伎が…何でも持ってるからだ」
ツムジは自分の悪事を俺のせいだと言った。
俺は納得出来なかった。
「なんで? 俺は何も持っちゃいないよ。でかいクニを支配してんのは従兄や伯父達だろ。俺はこの小さい集落で、自分で畑を耕して、魚を釣って、飯食って寝て、それだけじゃないか?」
「違う」
ツムジは暗がりの中に立ち、否定した。
憎々しげに俺を見た。
「多伎。…十年前の洪水の話だ。俺はあの時から多伎を恨んでいる」
ツムジは四歳の時の記憶を語り出した。
ツムジの脳内で映像が甦る。
暗い空、土砂降りの雨だった。河が氾濫し、瞬く間に集落を丸ごと押し流した。
ツムジは柱の下敷きになり、救助を待っていた。寒くて震え、低体温症で死にそうだった。
突然、誰かに踏まれた。ツムジを挟み込んだ柱、それを踏ん付けたのは八野凝だった。
今ほど皺くちゃのじいさんでもなかった。
「多伎…‼」
八野凝は駆け出した。ツムジを知らずに踏み付けた後、濁流に浮いた木の上に多伎の姿を見つけたのだ。
八野凝は勇敢にも濁流に流されながら五歳の多伎を追いかけ、その手に抱き上げ、集落の残骸に流れ着いて水から上がった。
ツムジはそれを雨に打たれながら見ていた。濁流に飲まれずに済んだが、ツムジの家族は全員死んでしまった。
ツムジはあの時、八野凝と目が合ったと言う。
八野凝は一瞬、ツムジの方を見たが、流されていく多伎を見つけ、そっちの救助に走った。
八野凝は命懸けで多伎を助けたが、ツムジと、ツムジの家族は見捨てた。
当時の首長の一人息子である多伎を選び、優先したのだと思った。
ツムジは四日間、柱の下で耐えた。
そして、四日目の夜に自力で這い出し、漸く八野凝らに保護された。
ツムジの生まれた郷は壊滅し、人的被害が大きかった。
身寄りがない彼は、八野凝の家族に養われることになった。でも、それは家族と言うより、肩身の狭い居候だった。
十歳にもならないうちに雑用や使い走りをやらされるようになった。
その頃から、ツムジには多伎が眩しかった。ツムジと同様、両親を幼くして失いながら、多伎は何でも持っていた。
ツムジが持っていないような刀剣や翡翠の勾玉が付いた首飾り、絹の上下の着物、自分専用の住居、下僕も飯炊き女も居て、働かないでブラブラ遊んでいるように見えた。
「あの時、八野凝はツムジに気付かなかった。だから、救助が遅れた。そいつは逆恨みだよ」
俺が冷淡に言った。
いや、そんな冷たく言わなくても、と俺も思ったんだけどさ。
俺はきっぱりと言った。
「八野凝に非は無い。八野凝がツムジを見つけていたら、直ちに助けたはずだ。八野凝を恨むなよ。八野凝だって、あの洪水で、妻と長男と娘と孫を失ったんだから」
そうだ、八野凝は自分の家族を失ったのに、悲嘆に暮れる間もなく、仲間の救出に駆け回った。その結果、多伎も救った。
多伎が助かったのは奇跡みたいなものだった。
「違う! 命の選別があった!」
ツムジは頑なに言い張った。
「多伎が助けられたのは、身の一人息子だからだ。だから、優先された…!」
ツムジは泣きながら座り込んだ。
彼はこの十年間、孤独を抱え、そう思わずには生きて来られなかった。
救助を待った四日間の心細さ、一人で生きなければならなかったこの長い歳月。
彼は善良な少年を演じながら、多伎と八野凝に復讐する執念を胸にたぎらせてきた。それが生きる意味だった。
不幸なことに、本当の彼を理解する人が一人でもいれば、彼の人生は違っただろう。
集落の人達は彼の表面を見てきた。孤児だが、よく働く健気で前向きな少年だと思っていた。
彼を強い子だと評価し、彼の内面の孤独を癒すことが足りていなかった。
彼が同居先で自然と恋心を抱いた乙女・倭加も、多伎と結婚したいと言った。
ツムジには八野凝の孫を妻にもらうことが立場上困難だった。まるで下僕のように。
「俺は多伎になりたかった……」
ツムジの眸から涙が溢れ続けた。
俺はどう言えばいいんだ? 望まずに多伎になってしまった俺は?
「ツムジがツムジとして幸せにならなきゃ、生まれてきた意味がないだろ?」
「わかってる、そんなことは!」
ツムジが叫んだ。
倭加に告白して、八野凝の元からかっさらって、どこか違う場所で夫婦になりゃよかったんじゃないか?
ちゃんと口説いてさ。振られるかも知れないけど、その時は仕方ない。
女は星の数ほど居るんだし、他の女と結婚するんだ。
でも、ツムジは別の選択をしてしまった。八野凝への復讐として、倭加を殺すと言う。
俺が倭加を抱き起こすと、倭加の肩から毒がプルンと剥がれた。
蛭みたいに剥がれ、そのまま空を漂って夜に溶けた。
俺の手に突き刺さった毒も多伎の力で剥がれ、夜空に吸い込まれていった。
俺は弥栄流退魔道・召喚法『百百多良利多良利良…』を行った。多伎の念に支配される可能性もあったが、何とかなった。
俺はこの躰にまだ残る多伎の思念を垣間見た。
そしてまた身震いし、徐々に元の八島黎明へ戻っていった。
その頃、ツムジは死のうとしていた。
「多伎。ごめんな。俺、お前が羨ましすぎて。…何年も喋ってなかったし、お前がいい気になって自惚れてると、勝手に思い込んでいた。この数日、友達になれて…楽しかったかも…」
ツムジは肩に斜め掛けしていた包みから、日河の首飾りや、多伎の短剣と親戚の装飾品などを取り出し、地面に置いた。
そして、彼は墓地の奥の方へ、闇に飲まれるように入っていく。
俺が最初に感じた異様な気配。
それはツムジの怨念と、それに引きずられる別の気配。
「妖魔…」
俺はツムジの背後に樹妖を見出した。
蛇のようにうねる枝、樹皮の割れ目に赤い双眸が開き、木の虚が口になってパクパク動く。闇に踊る漆黒の大木。
「多伎。俺、行き倒れの人をこの大木の根元に埋めたんだ。葬儀をせずに。そこに食った鳥の骨や、猪の骨やら埋めていった。小動物を殺して、死骸を埋めたり……。ここで多伎の悪口を言って、呪いをかけた。ここに多伎をおびき寄せた理由は……殺したくて……」
そこまで語り、ツムジは樹妖にむしゃむしゃと、頭、右肩、背中から喰われ始めた…。
「ツムジ‼」
俺は前に飛び出した。
俺は多伎の短剣を拾い上げた。百年以上前の舶来品らしいが、手にぴったり合うようにグリップが作られている。
「『風瀧』‼」
俺は短剣を術具に変えて力を集中させた。弥栄氏の血を引くことを生まれて初めて感謝した瞬間だった。
俺は巨大な樹妖を跡形も無く吹っ飛ばした。
それでも、ツムジの上半身は左側しか残っていなかった。顔も頭も半分喰われた。
異次元の鋭利な刃物で切り取られたように消失し、血は噴き上がらずダラダラ流れ出て血溜りになった。
俺は地面に倒れているツムジに駆け寄った。
ツムジの左目はどこか遠くを見詰めていた。驚いたように見開かれ、頬には涙の痕が残っていた。
「馬鹿。ツムジ…」
俺はツムジを揺さぶって泣き出してしまい、
「他人になったって、いいことなんか何も無い…」
多伎になりたかったというツムジに怒りをぶつけ、彼の左胸に自分の額を押し当てて泣いた。
ツムジと一緒に農作業や土木作業をやったこの数日、ツムジが炊いた飯、ツムジが焼いた魚を思い出した。
魚を共に齧って頬張りながら、ああ疲れた、でも楽しかったって、俺はお前に凄く感謝してたんだよ。
初めて会った日にツムジが、
「何言ってんですか? このクニで翼を生やしてる人は、多伎さましかいませんよ!」
と、俺の背中に翼があることを指摘した。
その時は息が止まりそうなほど驚いた。
俺がツムジに、敬語はいらねぇと言った時は、
「本当に? 子供の頃みたいだね。多伎! じゃ、友達になろう。俺が多伎を助けてあげるよ。夜、また来るね、多伎!」
本当に嬉しそうだった。俺も心強く思い、心底有難かった。
大溝の補修を一緒にやった時の、
「多伎! 小さい頃、田んぼで泥んこになって遊んでて、一緒に叱られたよな!」
泥だらけのツムジのあの笑顔を思い出す。
あれだけは嘘じゃなくて、本当に多伎とツムジの思い出だったと信じたい。
幼い頃は立場の違いなんか関係なく、一緒に悪戯をして叱られて、笑い合った日もあったのだと……。
八野凝の孫の倭加が目を覚ました。
「倭加、ちょっと待ってて」
俺は倭加が安心するよう、声を掛けた。
鼻を啜り、倭加に背を向けた。
ツムジの状態が倭加に見えないように気を配り、ツムジの左目の瞼を指先でそっと撫で、彼の目を閉じた。
「ツムジ。お前は俺が、鬼にならないようにちゃんと葬る」
ツムジを俺の上衣に包んで、肩に担いだ。ここは墓地だが、集落に一旦連れて帰る。
剣や八野凝、辰姥の誤解が解けた。助かった倭加が事情を説明して、俺の命令なんかなかったことが日河兄弟にも伝わった。
俺は八野凝を誤解していた。元の世界の千津雄伯父みたいに口うるさい人なのかと思った。
八野凝が多伎を濁流から救った話を、辰姥からも聞いた。俺は八野凝を見た目だけ(特に鯨面!)で判断していたことに気付かされた。
「八野翁は多伎さまの命を救ったのじゃ。多伎さまはまだ五歳じゃった。八野翁はあの洪水の最中、流された多伎さまを命懸けで拾いに行った。以来、八野翁は多伎さまを自身の孫のように思っておる……」
そうだったのか。
「ツムジは助かったが、家族は誰も助からなかった。ツムジの父親は隣の郷の有力者じゃ。出来るだけ多く助けたかったが、洪水はどうにもならぬ。ツムジは孤児となり、八野翁の息子に養われておった。…後見をなくしては将来も厳しい。悲観したのかも知れぬのぅ…」
俺はそんな切ない話を聞かされたのだった。
ツムジが死んで、彼の八野凝への憎しみはとても本人には言えなかった。
ツムジが樹妖に喰われるまでの会話は、俺があの世まで持って行く。
何故なら、俺の着物に包まれた遺体を見て一番大泣きしたのが八野凝だったからだ。
「ツムジ! ツムジ! そんなに倭加が好きなら、なんで儂に言わんのだ⁉」
八野凝の涙をツムジに見せたかった。
翌日、俺達はツムジの葬儀を行った。
ツムジは八野凝の親族として郷の墓地に葬られた。
集落の人達が多く参列した。俺達はまた小餅を供えて、酒を一口ずつ飲んだ。




