第1章 クラン ・ 第3話 貉 ③
翌朝七時頃、俺は祖父母の部屋の布団で目覚めた。
布団の上に猫のリンが乗ってきて、ヒゲが俺の頬に触れてくすぐったかった。
リンは元野良猫で、雑種のキジトラ。俺によく懐いていた。
祖父母は既に起き、隣の居間のテレビで朝のニュースを見ている。
話を聞いたトヨばぁが、塩を三角に盛った皿を玄関に置き、邪気を祓った。
その後、トヨばぁはお浄めの砂を紙に包み、玄関を出た。
「トヨばぁ。あのおねぇちゃん達は誰だったの? なんで、ぼくを食べようとしたの?」
俺はトヨばぁの後をついて回った。
「あれは邪霊。子供の振りしてても、子供とは違う。親玉の方は人間の霊ですらない」
トヨばぁは前庭と大きな門の前に砂を撒く。勢いよく、白っぽい砂を撒き散らす。
大宮の砂はお浄めの効果がある。
「よーちゃんは外孫やし、弥栄氏の煩わしい事と関係なしにのびのび育ってほしかった。…でも、もう……。よーちゃんにも弥栄流退魔道を教えんとあかんな…」
「じゃれいって、何?」
俺は何でもトヨばぁから聞こうとした。
「死んだ人の魂に、邪霊と御魂があってな。邪霊は死んだ人の負の思念と、屍の鬼、怨念、祟神のことや」
俺は少しずつ飲み込めてきた。俺は邪悪な何かに遭遇したらしい。
「五ツ詣りの、黒いはねがあった、おとなのぼくは何? 多伎って呼ばれてた…」
「お客さんやな。弥のミオヤではなさそうや。心配せんでも、いずれわかる…」
トヨばぁは俺に微笑みを返した。
俺は異世界の竪穴住居で夢を見ていた。
夜明け前のまだ暗いうちに、土中から虫たかる屍の鬼が這い出してきた。
湿った草むらを蛇のように長い胴をくねらせて這い進む。
戸口の僅かな隙間から侵入する際、躰の一部を変形させ、その骨がポキポキと音を立てた。
そいつは完全に腐り、悪臭が酷かった。腐肉が草や戸の角に削り取られ、糸を引いて剥がれ落ちた。そいつは人間の匂いを嗅ぎ、本能的にその方向へ動く。
俺は疲れで爆睡していた。
そいつは俺の枕元に涎をボタボタ落とし、人間を超えた長さの舌を垂れた。
そして、寝ていた俺の精気を吸い取ろうとした。
俺は鬼の強い霊気を感じた。
「ん……⁉」
さすがに俺も飛び起きた。咄嗟にそいつの腹を条件反射で蹴飛ばした。
キックの衝撃を吸収するように、屍の鬼の腹部がグニャッと軟体動物みたいに凹んだ。
粘液でベトベトした感触。
白眼を剥いた顔が俺に迫った。
「うわぁ‼」
俺は鬼の腐った顔を押さえ、必死でその犬歯を横に避けた。
「ぐぉぎぎぎぎぃ‼」
鬼は意味不明の奇声を発しながら俺にかぶりつこうとする。
飢えが鬼を狂わせる。鬼の涎が飛び散った。
俺は両手に力を込め、何とか遠ざけようとした。
その途端、鬼の顔の腐った皮膚がズルッと剥けて、俺の手が滑った。
目の前に紫色のドロドロの骸骨が倒れてきて、俺の方に目玉が零れそうだ。
そいつの吐く息が俺にかかった。俺という獲物への執着を感じた。
そいつは喉の奥を銀色に光らせ、俺の精気を吸い出そうとした。
俺は無意識に素環頭大刀を抜いた。寝床に置いていたものだ。
鬼は危機を察したか、急に飛び退いた。そして、掛けてあった矛を掴んだ。
薄暗くて気付かなかったけど、竪穴住居の屋根裏にフック二つで矛が横向きに掛けてあった。
矛は槍に似た形の武器で、嵌め込み式のところが槍と違う。倭の國では、武器と言うより儀礼で使うことの方が多い祭器だった。
俺は祖父の剣道場・龍髭館で千歳兄と稽古してきた。刀で槍や薙刀、長い武器の相手をするのは苦手だった…。
ああああ、面倒臭ぇ。
だが、長い武器は広い場所でこそ能力を発揮出来る。ここは狭い竪穴住居。掘立柱四本が空間を区切る。
案の定、そいつは力任せに矛で突っ込もうとして柱に引っかかった。間抜けめ。
俺は前に飛び込んで、屍を脇下から下顎にかけて斬り上げた。
「『風瀧』!」
俺の気を柄から大刀の切先まで漲らせ、鬼を斬った。
ジュワッ! 焼けた鉄が水を打つような音がした。
白い水蒸気が辺りに飛んで、鬼は一瞬で上半身を失った。腐ったものが焦げる匂い、吐き気を催す悪臭がした。
俺はこの世界に彷徨い込み、弥栄流退魔道の護符も術具も持ち合わせていない。だから、俺なりの方法をこの数日間考えた。
俺は多伎の素環頭大刀に『沸』と名付けた。俺が気を込め、沸をもう一振りする。
鬼が溶けて崩れ、シュウシュウと白い煙を噴き出した。骨が炉端に散らばった。
俺は朝っぱらから荒い息をしていた。
換気口からから朝日が射し込む。この家に窓は無い。
圧迫感のある急勾配の屋根裏は、例えるならテントの中にいる感じ。
中央の炉から煤の匂い。屋根組みから日用品がぶら下がり、農具や漁撈具が壁に立てかけられ、多伎の家は雑然としている。
俺は黒い半袖の着物と黒の袴パンツに着替え、黄色い帯を締めた。胸元で翡翠の勾玉がきらめく。
この勾玉には丁字頭と考古学で呼ぶ刻み目がある。この刻み目を装飾と考える説がある。
しかし、刻み目全部に緒を掛けると、勾玉の尾の部分が立ち上がる。その様子は獣の下顎から生える牙のようで、とても格好いい。
俺の世界でよくある勾玉ペンダントは、勾玉が三日月のように横向けて作られている。本来は勾玉が正面を向くものだ。
この勾玉は十六年前、五ツ詣りで頂いたご神宝の勾玉と同じ。
あの時の翡翠の勾玉は、やはり多伎の所有物だった。
俺はふと気付く。勾玉は同じなのに、この躰は十六年前に見た多伎と違う箇所がある。
俺が異世界に彷徨い込んで見た多伎は、胸から下と両手が墨でマダラに染めたように黒かった。
今、十五歳の多伎のこの躰は、日焼けして健康的な小麦色だ…。
突然、竪穴住居の外から誰かの呼ぶ声がした。
「多伎!」
若い男が遠慮なく家に入ってきた。ツムジじゃなかった。
板戸が荒っぽく開き、眩しい光が俺の眼を射た。
俺は誰かに手を繋がれ、少し背を屈めて玄関の狭いスロープを登り、裸足で外へ走り出た。草むらと土を踏みしめ、家の前の開けた場所に連れ出された。
家のすぐ裏手のスダジイの樹が天を突くように高く聳え、ハシボソガラスが梢に留まって鳴いていた。
俺とその男が並ぶと、そいつの方がやや小柄だった。
こいつ、誰なんだよ⁉




