第1章 クラン ・ 第1話 世界の交換 ①
俺は林の中を走っていた。霧が深くて、前が見えない。
木立の影がうっすらと浮かび、俺の後ろへ遠ざかる。
俺は息も荒く走り続ける。霧の向うに俺の知る世界を求めている。
やがて朝日が昇り、霧が少しずつ晴れていった。雲の間から光が零れ、青々とした山波が頭を覗かせ始める。
烏が飛んでいる。ハシボソガラス。
俺は崖下に茅葺き屋根の竪穴住居の集落を見出した。大小五軒ほど在り、少し離れてまた数軒、また数軒と点在し、掘立柱建物が二棟。櫓も建っていた。
だが、見渡す限り、ビルが無い。住宅街も駅も道路も信号も無かった。
この竪穴住居の集落は何?
俺は全身に黒い返り血を浴びていて、右手には血塗れの短剣を持つ…。
「こんな世界、俺は知らない……」
俺は恵まれている方だと思う。何不自由なく育ち、良家の子女が通う大学へ滑り込み、生まれて初めて彼女も出来た。このまま無難な人生が送れないこともない。
そんな中、贅沢な悩みを抱えていた。日常から抜け出して、どこか遠くへ行ってしまいたい…。
「卒業したら、家業継ぐの? 就活しなくていいんだろ?」
同じ二年のサークル仲間に羨ましそうに言われるけど、俺の家はそう単純でもなく…。
俺には年上の従兄弟が沢山いて、分け前なんて何も無いんだ。
それで、笑って誤魔化す。
「な訳ねーし。俺、外孫だもん」
俺は現実から逃げ出したかった。
「あー、就活面倒臭ぇ。何もしないで遊んで暮らしたいよなぁ…」
俺が言うと、その場の同学年の女の子達も笑い合った。
「努力なしで無双とか。そういう漫画みたいな異世界の、一夫多妻制の国に行きたい…」
「ダメだよー。黎明ってば」
美人の彼女が焼餅を焼いて、俺の頬を指で突いた。俺は馬鹿みたいに締まりのない笑いを浮かべるだけだった。
彼女はサークルの中でもアイドル的存在。俺は主導権を完全に握られ、貢がされ、それでも情けないほど本気で好きだった……。
そんな時、あいつが現れた。
俺とよく似た顔をして、額に黒いターバン、黒い着物を着て黒いストールを巻いている。目の下に隈がある。歌舞伎に出てくる邪神の隈取にも見える。
「黎明」
あいつは何故か、俺のことをよく知っていた。
「私と黎明の世界を交換しよう」
とんでもない提案をしてきた。
「多伎?」
「お前の躰は私がもらう」
拒否する間もなく、俺は深淵へ突き落された。
転落する最中、翼と鰭がある大きな龍を見た気がした…。
俺は温かな火の側で目覚めた。
ここは…?
枝を切り落とした木材を組んだだけの簡素な屋根組、茅葺き屋根の暗い屋根裏が目に入り、最初はどこかの山小屋かと思った。
半分起き上がって見回したら、山小屋じゃない。
どこかの博物館で見たような竪穴住居の中だ。掘立柱が四本立てられ、梁から籠や網がぶら下がって生活臭がした。半地下の低い壁で、浅い溝に四方を囲まれた土の床に粗末な莚が敷いてあった。土器と木製の農具類が隅に置かれて、中央に炉があり、二重口縁の小さな甕が直火にかけられていた。
寝惚けたのかと思って目を擦っている時、
「あ、起きた!」
すぐ近くで若い男女の会話が聞こえた。
「多伎さま。山で倒れてたんですよ。俺が運んできました」
ここの住人らしき若い男が俺に言った。
多伎さま? 俺がポカンとしていると、
「もう遅いから、うちに泊まって下さい」
若い男が言い、その奥さんが慌てて、
「やだ、ちょっと待って…。多伎さまを泊めるのは不吉だから…」
「そう言うなよ」
と、夫婦で少し揉めた。
「お…俺は多伎じゃ……ない…」
俺が言ったことは届かなかった。
すぐ奥さんが折れ、
「何もありませんが、こんなものでも召し上がって、温まって…」
甕から雑穀のお粥を掬い、鉢に入れた。
お茶碗とは形が違う。俺は土器をじっと眺めた。
ここは俗世間から離れて、昔風の生活を楽しんでいる人達の家なのか。
俺は深く考えず、火に当たって躰を温め、お粥を食べることにした。
スプーンは木の枝から削り出したもの。なかなか綺麗に出来ている。
壁際に並んでいる土器はどれも素朴だが、形は綺麗。貝の押文や竹管文で装飾され、丁寧な仕上げだ。
この家の当主は俺の従兄の千歳兄に似ている。年は二十二歳くらい。
髪は肩までの長さ、ハーフアップで髷を結い、結ぶに届かない髪の毛は耳に掛けている。
バリッと固そうな繊維のシャツ…貫頭衣を着て、前後Vネックの襟元に、寒さを防ぐ為のストールを結ぶ。七分丈の袴パンツを履いて帯を締めているが、とても簡素な縫製。染色も単純な草木染めと言った感じ。
奥さんは若い! 十八歳くらい。お腹が大きいから、もうすぐ子供が産まれるのだろう。
奥さんも粗い繊維の貫頭衣と、膝を覆う丈のスカートで薄色の重ね着、髪は結い上げて折り曲げた島田髷で、櫛と簪を挿していた。二人とも裸足だ。
俺は夢を見ているのかと思った。
そう言う俺も、深淵に転落する時に着ていたマウンテンパーカーとカーゴパンツとは随分違った。ノースリーブの黒っぽい貫頭衣、派手な縞柄の前開きジャケット、袴パンツ、帯を前で結んで、スカートみたいな腰衣を付けた状態で、まるでコスプレイヤーだ。
俺の着物の生地は二人より上質で、薄手でツルツルしている。これは絹だと思う。
勾玉と碧玉製管玉の首飾りが、ジャケットの端を折り返した襟部分からはみ出ていた。
俺はすぐ逃げ出せるよう、側にあったクツを履く。
このクツの履き方がよくわからない。藁のサンダルにショートブーツ風の布(脛巾。脚絆と同じ)が付属する。俺は適当に布を弛ませて紐を結び、何かあったら逃げるつもりで周囲を見回す。
…でも、何も問題はない。親切な若夫婦は純真そのものだし、お粥は塩加減がうまかった。
一つ不満なことに、その夫婦は俺を『多伎さま』と呼ぶ。
「多伎さま…。今夜は霧がひどいです。霧の夜は…アレが出ます…」
男が胡坐をかき、炉の火に木の枝をくべた。火が赤々と燃えていた。
竪穴住居の少し突き出た玄関で板戸がガタガタ鳴り、外からヒューヒューと風の音が漏れ聞こえていた。
「多伎さまは遭遇したことがありますか? 戦場に散り、葬られることもなく…」
男の声が暗く沈む。
可愛らしい奥さんはお腹を撫でながら、ウトウト眠りかけている。
アレって何? 俺には意味が通じないのに、男は話し続けた。
「多伎さまもご存知でしょうが、何を見ても、声を出してはいけません。アレは視力が悪いが、人間の呼気には敏感です。息を停めて下さい。通り過ぎるまで、息を停めて待つしかありません…」
何か、物騒な話になってきた。
夜も更け、俺達は寝床につくことになった。
しかし、この家には布団が無い。テーブルも無かった。家具らしきものは一切無し。
まず、電気が無い。水道、トイレも無い。トイレは外(大自然の中)!
ガス、風呂、テレビも冷蔵庫も無い。
農具の鋤、鍬、鎌、股鍬などが壁際に立てかけてある。
草を編んだ丸い枕を引き寄せ、俺は薄っぺらな莚の上に寝転んだ。男は俺の隣で寝た。奥さんは俺達と離れて休んでいる。
温まったら眠くなってきた。
「ま、いっか」
俺は軽く考えて寝た。明日にはこの不思議な夢も終わってくれるかも知れない。
俺達が寝て、炉の火が消え、白煙が昇って換気口から抜けていった。
住居内は真っ暗闇に包まれた。
俺は物音で目覚めた。竪穴住居の玄関の方から聞こえた。
ガタガタと板戸が軋み、風が吹き込んでいる。屋内に霧が流れ込み、視界が霞んでいた。
俺は肌寒さを感じた。布団を被ってないせいもあるけど、それ以上に不気味な気配で悪寒が走った。
暫くして、俺の眼が暗闇に慣れてきた。俺はまだ半分寝惚けていたが、その眠気も吹き飛ぶほどの強い霊気が、住居入口からビリビリ来た。
「え? 何? 何か居る…」
俺は恐る恐る、奥さんが寝ている方向を見た。




