眠らないミックは夢が怖い
人間って生き物は睡眠が必要だ。そんな初歩はミックだってよくわかっている。
それでもミックは、目を閉じて意識が溶けていく時間が大嫌いだ。
だって。
いつも、意識が溶けていく途中で、べちゃりと何か、異様な匂いのする何かが迫ってくるからだ。
その何かは、いつも同じ事を言ってくる。
たすけて。
たすけて。××、たすけて。
いつでもおんなじ、同じ単語を、色々な声でミックに向けてくる。
ミックは夢の中ではいつだってその何かを助けたいと強く思うのに、その異様な匂いの何かに駆け寄ろうとすると、足ががくんとつんのめって、足を見るといつだって丈夫な鎖のつながれた足枷が見えて、それのせいでどんなに、その何かの方に向かいたくても叶わない。
その何かに、言葉を向けたいといくら思っても、どういう事情だったのか、大火傷を負ったミックの喉はうまく言葉を作らない。
それでも、それでも、今行くのだ、今すぐ、今すぐ、と何かに訴えるのに、足はつながれいつの間にか片足の腱もぶつりと切れて、ミックはうまく立てなくて這いずって、足枷が伸びるぎりぎりまでしか、その何かに近付けない。
その何かを助けに行けない事が人生で一番悔しくて苦しくて、ぐちゃぐちゃに泣いて鼻水を垂らして、なのに夢のくせに都合良く助けに行けない。
そんな事をやっている間に、ごうごうと炎が燃え上がる。視界を埋め尽くす炎が、何かを跡形も無く焼き尽くしてしまう。
ころり、と白い欠片が這いずるミックの手元に転がってくる。それが何かだけはわかってしまうご都合主義の夢の中、ミックはそれが誰かの骨のひとかけらだとわかってしまって、絶望で絶叫して夢が覚める。
だからミックは夢を見る時間が大嫌いで、人間が生きる上での最低限の時間しか眠らない。一番標的を見つけやすい見張り台の上に一番陣取って、時間を使って、ふらふらになるくらいまで眠らないで居て、身体の限界が来て、意識が真っ暗になって、また同じ夢を見て夢の中で叫んで目を覚ます。
そのためミックの目つきはすこぶる悪い形をしていて、いつでも誰にでも喧嘩を売っているようなまなこをしていて、それが通常なのだとわからなければいちゃもんをつけたくなる顔をしている。
そんな顔をしていて、ボロボロの身体に医者のルークが実験の一部として取り付けた古代兵器なんて物をつなぎ合わせているから、素っ裸を見たルークと、船長のキッドくらいしか、ミックの性別が女だなんて思わない。
元々海賊という物はジンクスを信じる輩の集団で、女を乗せると海の女神様が悋気を起こして船を沈める、なんて話を頭からは否定しない連中なので、性別が女だというのは、知られない方がもめ事が起きなくて済む。
ミックは船医のルーク曰く、内臓も相当にぼろぼろのぐちゃぐちゃになっていたから、女の内臓もうまく機能しないかもしれないそうだ。毎月来るはずの物が一向に来ないのもそのせいかもしれないとも、ルークは言っていた。
ミックは毎月の物に関する記憶もまるで無いので、ない方が船の上では都合が良いなあと勝手に思っている。
そんなミックは、今夜も徹夜で空を見ている。星から方角を導き出すのは習ったし、季節がどう動いているのかがわかる星も教わった。
お星様には物語がある。それは……
「よう、夜更かし、まーた寝ないのか」
見張り台までわざわざ上ってきて、隣に乱暴に座る船長が教えてくれた事である。
ミックは水の代わりに酒を飲む船乗りの中でも、とくに酒の強い船長キッドが、正体を無くすほど酔っ払うなんて見たためしがないけれど、キッドはいつでもちょっとうるさいくらいだ。
そんな男を横目で見て、ミックは空を見上げる。
「あ、今は秋の星だな。秋星の神話でも聞くか?」
ミックはそれにこくりと頷く。それを聞いている間だけは、悪い夢に襲われないのだ。
「秋の星は、遠い遠い大昔、黄金の時代と呼ばれて神々が地上に居た頃、現れた大魔神が、神々相手に喧嘩を売った時にいろんな魔物が空に上がって星になったって言われてる。どの星の話にするか」
ミックはいつも通り言葉を発さずに、船長に寄りかかる。そんなミックの頭を当たり前のようになでて、船長が星の神話を話してくれる。
その声を聞いている間に、次第に意識がとろけていく。怖い夢が見たくない。だから眠りたくないのに、船長は寝かしつけるように背中や頭をなでていく。
それでもお前は×××××? いつか聞いた、奇妙な響きの声がまた頭の中に響いて、ミックは目を閉じるのだ。
よし、寝た。キッドは寝息を立て始めたミックを見やる。
この、異常な体力を見せてくる新入り狙撃手はなかなか寝ようとしない。会話もまともに出来ないらしいので、身振り手振りで意思疎通をした結果、夢が怖いと言う事だけは伝わった。
夢が怖いなんてガキだな、と笑う船員もいるが、キッドは笑えなかった。それはミックを見つけた時の状態をよく覚えているからだ。
何をしでかしたのか、あれだけの怪我を負い、大火傷で頭の半分が火傷で覆われ、片眼も無ければ片腕もぐちゃぐちゃ、片足も腱を切られて立てないかもしれない、と言う状態のミックは、明らかに
”異常な何かの問題”に巻き込まれた人間としか思えなかったのだ。
それらのほとんどは、船医ルークの趣味と実益の混ざった実験の結果、問題では無くなったが、ミックは未だにまともに口を開こうとしない。それは怪我やその他の衝撃で、人語を理解できなくなったからだ。
それも、キッドがあれこれと世話を焼く間になんとか、理解は出来るようになったらしいが、喋るという機能はまだ回復していないのだ。
本人がろくに話そうとしないのもそのためだろうと、ルークは言っている。
最初は、船の宝をちょろまかしたんだろう程度の認識でいたミックは、怪我の程度がわかればわかるほど、そんなかわいい話でこの怪我を負ったわけではないとわかるのだ。
何か、があったのだ。ミックには、キッドが考えも着かないほどの大問題が起きたに違いなかった。
それは、最初にミックが喋った時の中身の理由がわかるようになってから、一層はっきりした。
ミックはアルケイア国に近付くなと言った。異様な迫力の言葉に従ったキッドは、海賊達の隠し港の一つで、それが何故かを知る事になった。
アルケイア国は聖女を擁し、聖女の祈りにより繁栄を極めた国だ。故に聖女信仰が根強く、聖女が別格の存在とされていた。
だが聖女の力を甘く見た公爵家令嬢が、聖女に成り代わろうとし、聖女の婚約者であった王子と結託し、聖女を偽物だと追い出した。
聖女は権力欲の無い少女だったとの事で、おとなしく他国に去って行き、……その途端に、アルケイア国を覆っていた魔物よけの結界が崩壊した。それと同時に、作物の出来なども悪くなり、聖女の力がいかに強い物だったのかを知らしめた。
公爵家令嬢は、自分こそ誠の聖女と言っていたが、実力は追い出した聖女の方が遙かに格上アルケイア国は聖女の力に依存していたつけを、今支払わされており、ちょっと情報収集が出来るならば、誰も近寄らない国になったのだ。
キッドはその事実が他国や海に広まる前に、ミックの言葉に従った事、そして知り合いの商人達にその言葉をちょっと脚色して流した事で、本当だったら大損になる可能性のあった事を回避した。
そうなると、ミックは”アルケイア国の裏事情をどこかで知る事になった関係者である”と言えそうなのだ。
おそらく聖女を擁した神殿関係者とつながりがあり、極秘の情報を知ってしまったか、誰かに言おうとしたかで、ボロボロになるほど痛めつけられたのだろうとキッドは勝手に思っている。
アルケイア国は死刑の無い国なので、精神を崩壊させるほどの拷問が一番の極刑なのだ。
知りたくない事を知ってしまい、精神が崩壊する手前か何かで、”閉じ込められていた場所がボヤ騒ぎを起こしたかなにか”で海に落ちたのだろう。
キッドは手持ちの情報からそう判断している。
……そうなってくると、夢という形で何かしらの過去を見ているだろうミックが、夢が怖いと訴えて眠らないのは仕方が無かった。
「……」
キッドはそんな、新入りをかなり甘やかしている自覚があったものの、ミックは遠い昔に孤児院に置いていったヤツにちょっと似ているので、自分の手元にいる間は、特別扱いでもさせてもらおうと思っていた。
特別扱いになっても、問題が無いほど、ミックは飛び抜けた才能があるのだ。
それが狙撃の腕で、ミックは望遠鏡で見てようやく船だと確認できるほど遠くの船の、見張り台の上の人間の、手持ちの銃だけを銃弾一発で吹っ飛ばすという、脅威の能力持ちなのだ。
それだけの精度腕前の狙撃手がいる海賊と、争う商船も定期船もない。
つまりミックが居ると、無駄に戦わずにぼろ儲けが出来るのだ。
ミックはやらないが、やろうと思えば敵船の船長の頭を一発で撃ち抜くだとか、指定した場所を打ち抜くだとかも出来るだろう。
キッドは残酷だが、話がわかる人間をわざわざ殺す手間はしないので、そういう命令をしないが、ミックはそれだけ一目置かれる腕前の狙撃手で、新入りで、危なっかしい。
「おやすみ、オレの子。怖い夢は今は見ないさ、おやすみ、坊や」
キッドは寝息を立てるミックの頭をなでて、酒瓶を傾けてそういう。
それがミックに聞こえておらず、他の船員達に『ミックに手垢をつけている』と思われようとも、投票制の船長争いで、一度も船長の座から降りないキッドは、船員達に、それだけ自分達を束ねるにふさわしいと思われているのだ。
それだけの男で居続けるには、やはり、仲間を食わせる必要がある。
そのために都合が良いのが、ミックの腕前だ。
だからミックを甘やかす、とキッドは周りに言いふらしている。ミックはそれをいくら聞いても、理解しないのか、キッドを信頼しているそぶりを見せるので、お互いに利益はあるのだろう。
「……航路はシャンティに向かってる。お前にも陸のうまい飯を食わせてやる」
寝ているミックにキッドは言う。ミックはそれに普段なら答えないが……
「シャンティに向かうなら大回りをしろ。ズダの島を外側に回れ。人捜しで面倒な船が行き来している」
不意にミックの瞳が開き、無感動な、おおよそ人間の目つきでは無い視線でキッドを見やり、圧のある声で言い放った。
「……お前は何者だ? ミックの喉でミックの声で、ミックじゃねえしゃべり方のお前は」
「ミックではない。だがこの言葉を有益な物にするかそうでないかはお前次第だ」
それはそう言い、また目が閉じられて、ミックの体が脱力する。
「……食料と水は余裕があるな。……どうズダを回るか」
キッドは、ミックの中にいる何か得体の知れない物が、少なくともミックを生かすためにこうやって、時折妙な事を言っているとわかっている。
ミックを生かすためには、この船が安全に進まなければならないというわけで、そのためにあの圧のある声の主はキッドか、ルークのみにその存在を示す。
航路の変更は多少もめる事が常だが、安全に通れたという結果で全てが決まる。
キッドは頭の中で、迂回する航路をいくつか並べて、今の季節ならば何が適切かを考え始めたのだった。