第8話:魚を呼ぶ儀 -2-
──夜明けの光が川面を照らしはじめた頃。
男たちと国重、そして初穂は、すでに川辺に立っていた。
男たちは裸足で川に入り、初穂の指示どおりに、ひとつひとつ石を浅瀬に並べていった。
足を滑らせぬよう踏ん張りながら、男たちは冷たい流れの中で黙々と石を運び、手探りで積み重ねていく。
石の並びを確かめる者もいれば、流れの先から全体を見渡す者もいた。
初穂は少し離れた岩の上に立ち、男たちの作業全体に目を配っていた。
朝霧の中、冷たい川の水が膝を打つたびに、男たちは歯を食いしばった。
それでも、緊張のせいか、皆、口をつぐんでいた。
だが次第に、誰ともなくぽつりと声が漏れはじめる。
「……ほんとうに、来るんだろうな?」
「魚が寄ってくるって……どうなるんだか」
「まあ、もし来たら……すげえ話だぜ」
隣の男がふっと笑い、静かに答えた。
「まあ、やってみりゃ分かるさ。もう引き返せねえしな」
「それに……神の言葉だってんなら、従うだけだ」
国重は、川の流れの向こうに立つ初穂の姿を見つめていた。
国重には、もはや初穂に神が降りた事に一片も疑いはなかった。
人は、本当に救いを求める瞬間には、理屈を求めるものではない。
この村が、次の冬を越せぬことは、誰よりも国重自身が知っていたのだ……。
そのときだった。浅瀬の向こうで、水面が小さく脈打った。
誰かが足を動かしたのかと思ったが、そうではない。
水草の間を滑る黒い影──「……あれ、魚か?」と、一人の若者が声を上げた。
やがて、浅瀬の澱みに二つ、三つの黒い影が現れた。
流れに逆らわず、静かにその場にとどまっている。
「来た……ほんとに魚が来たぞ……!」
流れの中に石で作った静かな水域──そこに、魚が群れを成して動きを止めていた。
男たちは言葉を失ったまま、そっと川の中に手を伸ばす。
誰かが息を飲んだ、その瞬間──
「今だ!」
桶を持った者が駆け寄り、水をかきながら仲間とともに魚をすくい上げた。
素手で魚を押さえ込む者の姿もあった。波しぶきが跳ね、衣が体に張りつく。
「とった!見ろ、これだ!」
「こっちにも来てる、早く桶を──!」
次々と声が飛び交い、川辺は歓喜と興奮に満ちていった。
それは決して奇跡ではなかった。
配置された石が水の流れを複雑にし、浅瀬には自然と“澱み”ができる。
流れの穏やかな澱みに集まり、魚たちは体力の消耗を避けるため、やがて動きを止めていく。
その静かな浅瀬では、魚は人の手でも容易にとらえられた。
男たちは次々に魚を桶へと放り込みながら、歓声を上げ、笑顔を交わした。
「今夜は久々に魚の煮炊きができるぞ!」
「子らの笑顔が目に浮かぶわ」
肩を濡らしたまま顔を見合わせ、誰もが興奮を隠せなかった。
一方その頃、岩陰に立つ初穂の瞳は、なお冷静に川面を見つめていた。
水温、流速、魚の密度、そして人の動き。すべての情報が、彼女の中で逐次処理・記録されていく。
(捕獲率:想定より12.4%上振れ。静水域での滞留行動、予測通り)
(次回以降の最適化アルゴリズムに反映)
男たちの歓声と水音に包まれた川辺で、ただ彼女だけが、静かに未来を計算していた。
その夜、久々に煮炊きの香りが村に立ちのぼった。
村の家々では、土間の囲炉裏に火が灯り、細く煙が空へと昇っていった。
囲炉裏には、串に刺した魚がじりじりと脂を跳ねさせていた。
焼き上がるのを待ちきれず、子どもたちは囲炉裏の周りを元気に跳ね回っていた。
「父ちゃん、もっとある?」
「わたしも、おかわりほしい!」
土間に並んだ小さな椀が次々と空になり、母たちは笑いながら手際よくよそっていった。
ある家の囲炉裏のそばで、小さな椀を手にしていた男が、ぽつりとつぶやいた。
「……あの子のおかげだな」
それは、昼間、川で石を並べていた男のひとりだった。
男は土間に座り直し、魚の入った椀を見つめながら妻に言った。
「すごかったよ……あの魚の集まり方。まるで、あの子が呼んだみたいだった」
女は火に薪を足しながら、ぼそりと笑った。
「あんた、もうあの子に足を向けて寝れないね」
男は笑いをこらえながら、魚の入った椀を見つめた。
「……たしかにな」
村のあちこちからも、笑い声や湯気の立つ音が聞こえていた。
どの家でも、囲炉裏を囲みながら、久しぶりの食卓を分かち合っていた。
獲れた魚はその日の夕餉に振る舞われ、一部は塩を振られ、軒下に吊るされた。
冬を前に、少しでも糧を残そうと、どの家でも手際よく保存の支度が進められていた。
──この村は変わった。
飢えに沈んでいた家々には火が灯り、笑い声が戻った。
絶望に閉ざされていた人々の心に、ようやくぬくもりが戻った。
誰もが気づいていた──あの少女が、この村の命をつなぎとめたのだ、と。