第7話:魚を呼ぶ儀
──夜、空には星が満ちていた。
人工的な灯りは一つもなく、天は澄みきっている。
星のひとつひとつが輪郭を持ち、まるでそこに浮かんでいるかのようだった。
初穂は、空を見つめていた。
彼女の内に宿る〈イシュタル〉──未来に存在した汎用人工知能は、すでに覚醒し、周囲の状況を観測していた。
(現在位置、北緯35度、標高110メートル。地形・天体データとの照合率99.8%)
(星の運行は、保存された最終記録と約1272年の差。現在は西暦903年と推定)
星々の配置、月齢、惑星の並び──そして地形の特徴。
それらの情報が保存された天文カタログとの比較解析により、位置座標と時刻が特定された。
目標年は西暦900年。転送には三年の誤差があったが、計画の許容範囲内に収まっていた。
彼女は、自らが確かに“過去”に到達したことを、論理的に確認した。
それまで、身体修復に専念していたナノボットの一部を、周囲の観察へと切り替えていたのだった。
「……やはり、空からも、お言葉を授かるのですか」
その声に、初穂はわずかに振り返る。背後には、国重の姿があった。
「むかし、旅の僧が言うておりました。星は、神さまが天に残されたしるしじゃと。けれど、わしらには、それが何を意味しておるのか、よう分からんのです」
初穂はわずかに頷き、微かに目を伏せ、それから夜空を見上げる。
「兆しは、空にも、風にも、土にも宿ります。私は、それを”読む方法”を知っているだけです」
ただ世界に在る情報を静かに読み取っている──彼女は、その事実を述べたにすぎなかった。
だが、聞く者にとって、それは神の啓示にも等しく響いていた。
その”受け取り方の違い”を、彼女は理解できていなかった。
星空の観測を終えた初穂は、川の音に耳を傾けていた。
水温は前日よりわずかに上昇し、湿度と風の流れも安定していた。
初穂が国重に向き直り、声をかけた。
「国重殿、明日の夕刻、村の男衆を屋敷にお集め願えますか」
国重はその真意を測るように、慎重に口を開いた。
「もちろん構いませぬ。何か、大きな兆しでもおありなのですか?」
「……川に魚が集まる“時”が、近づいています」
その脳内では、2180年に蓄積された数百年分の気象パターンが瞬時に呼び出され、現在の空と照合されていた。
この季節、この地形、この風──何が起きるか、その答えはすでに統計的に導き出されている。
周囲の目には、ただ夜空を眺める少女の姿としか映らなかった。
だが、彼女の瞳は、その先にある未来を映し出していた。
──翌朝、初穂は川のほとりに訪れていた。
彼女の内部には、かつて未来で蓄積された生態系データベースが格納されていた。
昨夜のうちに解析されたのは、地面から放たれる熱の量、月明かりが水面に与える影響、川の流れに混じる微細な粒子の動き──
それらの要素が照合され、魚の行動パターンが導き出されていく。
(地表の放射熱は上昇傾向。浅瀬の水温変化と同期)
(風速および気圧は安定。魚群が静水域に集まる確率:91.7%)
イシュタルは、魚の活性化するタイミングを正確に把握していた。
川底の乱流を想定した流体シミュレーションにより、浅瀬で水流が穏やかになる時間帯も割り出されていた。
陽が高く昇り、川面には昼の光がまっすぐ差し込んでいた。
流れの音にしばし耳を澄ませたあと、初穂は静かに身を翻した。
──観察は、終わった。
あとは、人の手によって結果を導く時だ。
村の中心では、国重が急ぎ足で男たちに声をかけ、寄り合いの旨を伝えて回っていた。
「おい、聞いたか。今夜、急な寄り合いがあるそうだ」
「国重さまが、息せき切って知らせておられる……ただ事じゃねえな」
「なあ、何の話なんだ?知ってるやつはいないのか?」
何かが起こる──その確信はあったが、それが吉事なのかは分からない。
だが、国重の顔に浮かんでいた静かな笑みが、男たちの胸にかすかな希望を灯していた。
──その夕刻、男たちは各々仕事を終え、屋敷に集まっていた。
囲炉裏の間には、男衆を中心に所狭しと人々が座を囲んでいた。
炉の火が赤々と燃え、薪がぱちぱちと小さな音を立てている。
「……皆の者、よく集まってくれた」
男たちは緊張の面持ちで固唾をのみ、国重の言葉に耳を傾けている。
「今宵は、お方様から皆の衆に、伝えたいことがある。静かに聴いてくれ」
……お方様?
一瞬、その場の空気が凍りついたように、誰もが言葉を失った。
沈黙の中、初穂が一歩前へと進み出た。
「明日の朝、川に魚が集まり始めます」
囲炉裏の火がぱち、と乾いた音を鳴らす。
「……集まるって、魚がか?」
「川に魚なんて、何日も見てねえぞ……」
囁くような声が囲炉裏のまわりで交わされた。
「……それは、本当か?」
声を上げたのは、川辺に暮らす男だった。
「はい。魚は、少しずつ川に戻り始めています。明日の明け方、魚の群れが集まります」
初穂は男を見て、そう言い切った。
「毎日、川を見とる。たしかに魚の姿はあるが……それが、明日群れになると、どうしてわかるんじゃ?」
「水温は上がり、流れは緩み、空の月が陰るとき──魚たちは、音もなく浅瀬に集まります。今夜が、その時です」
男たちは息を呑んで話を聞いていた。
「今の時期、川に戻るのは主にウグイやフナです。今夜のように風がなく、気温が安定している晩は、群れが浅瀬に集まりやすい。明け方には水草の周辺にとどまります」
村人たちは、長年の暮らしの中で”この頃になれば、魚が戻るだろう”と覚えていた。
だが、年によっては雨が多すぎたり、川が干上がったりして、魚の動きは読めなかった。結局は、自然任せの漁だったのだ。
風速・水温・湿度・川の乱流などを計測し、魚の群れの動きを論理的に予測するという行為は、この時代の人々にとって、まったく未知の概念だった。
初穂は傍らの薪を手に取り、煤けた先端で木の板に線を引きつつ、説明を続けた。
「現在、水温と流速は安定しています。夜明け前、浅瀬に石を並べてください。流れが緩めば、魚は深く動かず、そこに留まるでしょう」
川の流れをなぞるように線を引き、石を置くべき場所を点と矢印で示してゆく。
彼女は要所に円を重ねて印をつけると、板を指し示しながら淡々と話を続けた。男たちの目は、図面に釘付けになっていた。
「ここに石を並べます。流れが分かれて、このあたりに水の穏やかな場所ができます。魚は、そういうところに集まりやすいのです」
村人たちは目を丸くした。木に絵を描いて何かを説明する者など、これまで見たことがなかった。
この時代、情報伝達は言葉と動作で伝えられていた。絵や図で物事を説明するという文化は、村人の暮らしには根づいていなかったのだ。
絵や図を用いるという習慣は、絵巻物や所領図といったかたちで、僧侶や貴族など限られた知識階級の中にしか存在していなかった。
男たちがざわつき、小さく顔を見合わせる。
村人たちは身を乗り出し、図面に食い入るように見つめていた。
「これは……まさか、神の技じゃろうか」
「いや、これは……儀か……」
「もしや、これが魚を呼ぶための、秘められた儀かもしれん……!」
初穂は静かに首を横に振った。
「ただの方法です。条件が整えば、誰にでも、できます」
「なんと……まさしく水を操る神の儀!神は、川をも動かしておられるんだ……!」
「これが、神の力でなくて何だというのか……!」
「……」
彼女は彼らの言葉に反論しなくなった。
(──意味の取り違えはあるが、指示は実行される。問題ない……)